*--Diary--*


石巻市立大川小学校 その2  2011/11/24(木)
石巻市立大川小学校  2011/11/22(火)
仙台歌会  2011/11/19(土)
多賀城  2011/11/15(火)
成年後見支援センター  2011/11/12(土)
訃報  2011/11/07(月)
東京平日歌会  2011/11/05(土)
谷中  2011/11/04(金)
原稿  2011/11/01(火)
マスキ嵐沢  2011/10/31(月)


石巻市立大川小学校 その2
学校の跡を出て橋を渡ってみた。
新北上大橋は津波で橋の北側が破壊されていたが、今は渡れるようになっている。
北上川の北岸に渡り、対岸の大川小学校のあった辺りを見た。
ちょうどこの辺りから北上川はその広い川幅をさらに広げ、ゆるやかに曲がって海に注ぐ。
河口はすぐそこに見える。
川の縁にいるというより、陸に食い込んだ湾の奥にいるようで海はすぐそこである。
ただ、現在の北上川の流れは地震の前とは変わっている。
津波は北上川の下流の堤防を破壊し、さらに、地震による地盤沈下で
大川小学校より下流の北上川南岸にあった低地が現在は冠水している。
つまり北上川の河口は3月11日の地震と津波により巨大化しているのである。
海がすぐそこに見えるのはそのためで、3月11日以前は大川小学校下流の低地があり、
その縁を緩やかに回るように北上川は流れていた。
大川小学校は海から4k離れているので津波が来ることは想定していなかったという。
少なくとも現在の北上川を見て、海はこんなに近いじゃないかと言えば、それは間違いである。
再び、橋を渡り、橋のたもとの大川小学校に続く四辻に立った。
周囲を見たとき、不思議な気持ちがした。
報道では、教師達は津波のあと、
子供達を連れて付近で一番小高いこの橋のたもとの三角地帯に避難しようとしたという、
その三角地帯というのがこの四辻だが、そこは私が走ってきた北上川の堤防道路の一角で、
堤防のなかで特別高いというわけでもなく、
通常なら「付近で一番小高い」とは言わない地形である。
川があり堤防があれば、大抵、堤防の外側は多少低くなっているわけで、
教師達が子供達を避難させようとした三角地帯というのはそういう地形である。
この付近で「小高い」地形を探すとしたら、山しかない。
もうひとつ気になったのは、
走ってきた堤防道路からこの四つ辻を右に折れる雄勝へ続く峠への道。
この道は学校の裏山の反対側斜面をなぞるようにだんだん高さを上げている。
道の向こうには原形を留めているらしい家が建っていた。
ここは避難ルートにならなかったのか? そういう素朴な疑問が頭を過ぎった。

3月11日午後2時46分、地震が襲った。
揺れが収まってから子供達は校庭に避難。教師達は子供達を整列させて点呼した。
「大津波警報が発令されました。早く高台に逃げてください」という防災無線が聞こえ、
生存者の証言では、教師や住民が避難先を巡って喧嘩のような議論を始めた。
学校は地域の災害時避難所に指定されていたため、
地域の住民も集まってきて校庭で焚き火を始めるなど、かなり混乱していたらしい。
その間、子供達は校庭で待っていた。校庭にはスクールバスも待機しており、
バスを運営している会社と運転手が無線で話をしているが、
先生達が対応を話し合っていて、まだ決まらないと運転手は返事をしている。
校長は不在で、教頭は住民に「この山は登っても大丈夫な山ですか?」と聞いていたらしい。
午後3時20分頃、大川小学校のある釜谷地区を見回りしていた市の広報車は、
海岸の松林を突き抜けてくる津波を目撃。
「高台に逃げろ、松林を津波が越えてきたぞ」とマイクで叫びながら避難を指示。
この放送が校庭に聞こえ、それまで避難先を巡って議論していた教師達は子供達を
付近で一番小高い新北上大橋のたもとの三角地帯に誘導。
三角地帯の手前で堤防を越えてきた津波に子供達の列は呑み込まれ、
108人の児童のうち74人、11人の教師のうち10人が死んだ。
津波に破壊された校舎にあった時計はすべて午後3時37分で止まっていた。

事件後、驚きと反響が広がった。
どうして、裏山に避難しなかったのか?
悲しみや同情と同時に多くの非難もあったわけで、
非難は、教師達の対応に集中した。
私は現場を見たかった。
現場を見なければ分からないことが沢山あるはずであり、
安易な非難や評論を鵜呑みする気にはなれなかった。
その後、各社の報道や生存者の証言を読み、悲劇から八ヶ月を経て初めてその現場を訪ねた。
Date: 2011/11/24(木)


石巻市立大川小学校
歌会の翌日、ホテルで朝食を食べながら、今日はどうしようかと思った。
もちろん、予定は決めてあった。
ただ、いざその日になったら、気が重いのである。
行っていいのだろうか? そう思った。
石巻市立大川小学校。
北上川のほとりにあり、3月11日の津波で全校生徒108人のうち74人が死亡した。
学校の裏に山があり、その裏山に避難していれば助かったのではないかと、
震災後かなりの批判があった。
同じ三陸でも釜石市の小中学生は殆どが無事に避難した。
なぜ、大川小学校の子供達は助からなかったのか?
現場を見て、それを考えたかった。
しかし、いざ行こうというときになって、やめようかと思った。
悲劇の現場に物見遊山で来たように思われるのではないか?
決して、観光に行くようなつもりではない。
しかし、地元の人はそう思ってくれないかもしれない。
躊躇しながらチェックアウトし、車に乗った。
決めかねてホテルを出たが、子供達のことを考えたかった。
結局、ハンドルを北にきった。
仙台の市内を抜け、仙台港北から東部道路に入り、さらに三陸道に入る。
被災地の車は通行料無料になっているが、料金所の一般レーンで一台一台確認するので、
かなり繋がっている。
松島から石巻、さらに北上して北上川にぶつかる。
途中、道の右側に仮設住宅があった。
北上川は日本第四位の大河である。
川幅は広く、水量豊かに流れている。川岸に葦原が広がる美しい川だ。
悲劇があったことなど嘘のように美しい風景が広がっている。
北上川南岸の堤防の上の道を海に向っていくと、
やがて道の右側に津波のあとがあらわれた。
土台だけが残った家、一階がえぐれたように壊れている家、畑の中に取り残された漁船。
不思議と瓦礫は少なかった。もう片付けたのだろうか。
さらに堤防上の道を走ってゆくと大川中学校があらわれる。
校舎は一部壊れていて、使われていないようだ。
周囲に人影が見えないのは、このあたりの人は皆、仮設住宅に移っているのかもしれない。
人影のない被災地を走ってゆくのは、なんとも言いようのない気がした。
新北上大橋のところで、道は四辻になっている。
堤防上を走ってきた道、左に橋を渡って北上川北岸へ続く道、
右へ折れて雄勝方面への峠に続く道、
そして正面は、堤防上から降りるように向こう側に続く道である。
そこを降りると、なにもない平坦な土地が広がり、向こうに廃墟があった。
重機が動いていて、取り壊し作業か何かをしているらしい。
その廃墟が大川小学校である。
本来は周囲に民家もあったのだが、それらは跡形もない。
ただ、平坦な土地が広がり、廃墟とその向こうの山があるだけである。
そこに登れば助かったのではないかと言われた山を眺めてみた。
登れない山ではない。どこも崩れていないし、木も倒れていなかった。
3月11日、ここをどす黒い津波が襲い、74人の子供達が死んだ。
もちろん、死んだのは子供達だけではない、教師も住民も大勢死んだ。
作業している人が何人かいるのだが、なにかとても静かだった。
なぜ、子供達は助からなかったのか。
現場を見て思ったことを何回かに分けて書いてみたい。
Date: 2011/11/22(火)


仙台歌会
仙台歌会は始めての出席。
3月11日に震災があり、それ以来、いずれ東北に行こうと思っていた。
自分が東北に行ったから何かが出来るとか、そういうわけではないのだが、
何か行かなければならないような気になったのである。
実際、人が行かなければ東北に金が落ちず、復興も遅れるわけで、
あの頃は過剰な自粛が東北のみならず各地の観光業に打撃を与えていた。
で、震災の後、某歌会で「いずれ落ち着いたら皆で東北に行って歌会やりましょう」と
呼びかけたのだが、一斉に怯んでしまった。
なにもいますぐ行こうと言っているわけではなく、
落ち着いてからと言っているのに、正直そのときは、
歌詠みというやつらはいざという時ものの役に立たないやつらだとつくづく思ったものである(^^;
ならいい、ひとりで行く、というわけで、結社の仙台歌会に出ることにした。
仙台歌会は隔月奇数月の開催。7月、9月とチャンスはあったわけだが、
仕事やなにやらで結局、11月ということになった。
今回の仙台歌会は通常の歌会は時間を短縮し、
矢野正二郎さんの歌集『余滴』の批評会をやることになっていた。
で、急遽、歌集を送ってもらい、あらかじめ読んでからの出席。
近頃珍しい自然詠を中心とした歌集である。
短歌をはじめた頃というのは結構、自然詠を詠む人が多いと思うのだが、
だんだん作らなくなる。
なぜなら、自然詠は難しい。
山が綺麗でした、海が綺麗でした、それをそのまま31文字にすることは割りと簡単で、
だから最初は作るのだが、えてしてそれは情景の説明になってしまうのである。
しかし、情景を説明されても人は感動しないわけで、
そういう難しさに突き当たって、だんだん自然詠を詠まなくなる。
確かに、人事の歌や日常の歌の方が作りやすいという面はある。
しかし、自然詠はもっと詠われていいはずだと私は思っている。
人事の歌、日常の歌を詠むにしても、歌で大切なことのひとつとして、
一首を読んだときにすっと情景が立ち上がってくるかどうか、ということがある。
この情景立ち上げ力のある歌はいい歌である。
そういう、情景立ち上げ力のある歌を作れるようになるためにも、
私は自然詠を意識して詠んでいる。
自然詠は情景を説明するのではなく、情景を読者に手渡すのである。
手渡された情景が読者の眼前にまざまざと立ち上がったとき、
読者は作者と同じ位置に立ち、
作者が感じた何がしかのものを感じとる。
そのとき初めて読者は作者の存在を感じるのであり、
そういう歌は手触りのある歌になる。
ただ情景を説明しただけの歌は、作者の存在が感じられず、手触りのない歌になる。
批評会では、その辺を言いたかったのだが、
いかんせん、自分の中でもおぼろに感じている話で、正確には伝えられなかった気がする。
出席したひとりひとりが意見を述べ合い、いい批評会だった。
作者の方にはこれからもいい自然詠を詠い続けて欲しい。
批評会のあとは懇親会、いろいろ面白い話を聞かせてもらった。
牛タンを食いたいという私の我儘を聞いてくれて、二次会は牛タンを食べながら日本酒の浦霞。
誘われて三次会にも行ったようなのだが、
二次会で飲んだ浦霞がしっかりきいて殆ど記憶がなく、
誘ってくれた人に申し訳ない気分(^^;;
始めての仙台歌会、歌会の印象は、ちょっと大人しいかな、というものだったが、
感じの良い歌会である。
若い人達が頑張っている歌会には未来がある。そんな気がする。
いずれまた、機会があれば出席したい。
仙台の町は復興が少しずつ動き始めたということもあるのだろう、
八ヶ月前に大きな震災があったと思えないほど、明るく賑やかだった。
Date: 2011/11/19(土)


多賀城
3月の震災のあと一時通れなくなった東北道、
復旧してからも走っていて多少段差があるという話を聞いていたが、
その後の工事でだいぶもとに戻ったのかそれ程段差があるような感じはしなかった。
震災以後始めての東北である。
早朝、横浜を出て福島に入ったところで朝食、さらに北に向かう。曇っているのだが、
安達太良のあたりだろうか、丁度そこだけ陽が差したように明るいところがある。
周囲の田園と里山はちょうど紅葉の見頃。田圃はすでに収穫が済んでいるが、
原発の風評被害でかなり大変なのであろう。
宮城に入り、東北道から仙台南部道路・東部道路と乗り継ぐ。
仙台という町は高速道路が周囲を取り巻いている。
その東部道路が3月11日の津波を止めたわけだが、
南部道路から東部道路に入ると、道の海側がはるかかなたまで見通せる。
たぶん海岸に残った松林であろう、遠くに疎らな木々の列なりがあり、
そこまでただ何もない真平らな地面が広がっている。
そこにあった建物は津波に根こそぎにされたのであろう。
東部道路の海側がすべてそういう状態なのではなく、
しばらく走ると海側にも結構、建物が残っているのだが、
この南部道路から東部道路に入ったあたりの海側の情景はちょっとショッキングである。
仙台を迂回するようにして多賀城市に入る。
田園のなかの分かりにくい道をしばらく走ると多賀城跡があった。
横浜から5時間で到着。
多賀城。
大和の王権が東北経営のため8世紀に建設した拠点である。
城というが、戦国時代の城のイメージではない。
なだらかな丘陵に政庁や官吏の住居などを囲い込んでいて、むしろ中国の城のイメージに近い。
その後、陸奥の国府が置かれ、大和の王権と蝦夷の百年戦争の拠点となった。
周囲を3mから5mくらいの高さの柵で延々と囲っていたらしいから、
当時の目にはかなりの威容に見えたかもしれない。
伊治呰麻呂の乱で焼失したり貞観の大地震で崩れたりしているが10世紀半ばまで機能した。
アテルイと戦った坂上田村麻呂もここから北方に進出したわけである。
今は観光地になっているが、土産物屋があるわけでもなく、
多賀城跡として一応の整備がされて、建物や階段の跡が残っているだけである。
整備される前はなだらかな丘に点在する古代の廃墟であったわけで、
近くの農家の子供達の格好の遊び場になっていたのかもしれない。
それ程広くもない駐車場があるが係りの者などはいず、勝手に見ていってくれという感じである。
数人の観光客が歩いているだけで、人も少ない。
周囲は東北の農村。曇り空の下の紅葉が寂しくもある。
政庁の建物の跡などを見たが「遠の朝廷」と言われたわりにはそれ程大きなものではない。
政庁跡から古代の道の跡を下るようにしていくと南門の跡がある。
多賀城の柵の跡がどこかにないかと思ったが、それらしいものは見当たらなかった。
石を積んだものではなく木と築地で柵を作ったらしいから、あまり残らなかったのであろう。
多賀城から少し外れたところに条坊制で作られた町があった。
平安京と同じような都市プランで作られた町が古代の東北にあったわけである。
移民がそこに住み、非常時には城に逃げ込んだのかもしれない。
一方、蝦夷の側からすれば侵略者の拠点だったわけで、
この城を遠く望みながら軍馬を進めた蝦夷もいたはずである。
いずれにせよ、古代東北の歴史で大きな存在だった多賀城だが、
今は農村のなかの寂しい廃墟である。
ひととおり見て、泣き出しそうな空の下、仙台に戻る。
今日は午後から仙台歌会がある。宿泊するホテルに車を置き、会場に向かう。
Date: 2011/11/15(火)


成年後見支援センター
税理士会の成年後見支援センター、
今年9月から第一週〜第四週の水曜と金曜に相談室を開いているのだが、
いかんせん、一般への広報がまだ始まらないうちからのスタートだったので、
今までの相談実績は、税理士会館に来た税理士が立ち寄って、
「ここで何やってんの〜、成年後見? へぇ〜」という相談にもなににもならない
ようなのが一件あったとか。
その相談室に昨日一日詰めていて、同僚の相談員と二人、
どうせ相談などないだろうとたかをくくってお喋りしていたら目の前の電話がなった。
えっ!? 
電話をとって、「はい...、あ、成年後見支援センターです」
電話の向こうからは男性の声で「あの〜、成年後見について...」。
なんと一般の人からの相談。
開設してより二ヶ月、相談第一号、よりによって私がとってしまった(^^;
母親の成年後見についての相談で、内容的には難しいものではなかったのだが、
最後に「申し立ての書類が書けなかったら、作ってくれる人を紹介してくれますか?」
という質問、ここに電話してくれれば紹介しますと答えて相談を終える。
終えてから同僚と話す。
「税理士って、成年後見の申し立ての書類作れるの?」
「行政書士登録してれば出来るんじゃないの?」
「家庭裁判所だよ、裁判所に提出する書類の作成は司法書士の独占業務と違ったっけ?」
「...。」
そのあと二人でいろいろ調べ、かんかんがくがくの議論。
その日の相談時間終了まで調べて議論した結論は、
税理士は少なくとも法定後見の申し立ての書類の作成は出来ない、ということ。
本人以外で裁判所に提出する書類を作成するのは、有償無償を問わず司法書士の独占業務。
任意後見の場合は後見受任者として作成可能になる。
これって盲点だった。
家裁に後見人候補者の名簿を出しているが、それは他の者によって申し立てられた
法定後見の後見人に就任することを想定しているわけである。
法定後見の申立て書の作成を税理士がするということは想定していなかった。
しかし、考えてみれば成年後見で一番多いのは親族後見である。
一般の人を対象にした相談室を開いた場合、
子が親の後見人候補として法定後見の申し立てをしたいので、
申し立ての手続きだけして欲しい、
そういう相談がくるのはいたって自然な話なのてあった。
しかし、税理士は成年後見人にはなれても、
申し立ての書類作成や手続きは出来ないのである。
それをやれば司法書士法違反になる。
ちなみに、「反復継続しておこなう意思」の有無が判断の基準になる。
例えば、税理士が顧問先や知人にたまたま頼まれて年に一度だけ申し立ての書類を作成
したというのは、「反復継続しておこなう意思」がなければ司法書士法違反にはならない。
一方、ホームページ等で宣伝して年に一度、そういう仕事をした場合は宣伝までしている
以上、明らかに「反復継続しておこなう意思」があるので同じ年に一度でも違反になる。
支援センターの相談室も一般に広報しているわけだから、
そこで、税理士が法定後見の申し立ての書類を作成したりすれば、
司法書士法違反になるだろう。
今日の相談者がまた電話してきたら、司法書士を紹介すればいいだけのことなのだが、
気をつけないと思ってもいなかったところから業際問題が発生する。
相談委員の間でこの辺の認識は共有していないといけないだろう。
Date: 2011/11/12(土)


訃報
春の陽光の下、残雪の蓬峠への登高は心地良かった。
谷川の連峰は白く青空に隆起し、
谷には新緑が広がっていた。
峠の雪に腰をおろして休んでいると、
遠い斜面を音もなく小さな雪崩が落ちていった。
これからくだる斜面は白くなだらかに続いていた。
あれから三十年経った。
彼とはあのとき初めて共に登ったのだった。
先週の金曜、三十年来の山の仲間が癌で逝った。
癌という話は聞いていた。
手術をし、もう心配の必要はないのかと思っていた。
今年の六月、一緒に妙義の沢を登った。
そのときも元気だったが、
以前と違い疲れやすいようだった。
秋になって、今年一杯か持っても来年春、という話を聞いた。
こんなに早くくるとは思わなかった。
彼の早すぎた死。
笑うと少年のような笑顔だった。
焚き火の達人で、沢の野営の夜は必ず焚き火をした。
雨が降っているなかでも大きな焚き火を燃やせる男だった。
晩婚だったが良い人と結婚し、幸せな家庭を持った。
週末、短歌結社の吟行があったが、心は楽しんでいなかった。
霧のなかに立つみなとみらいのビル群を見ながら、歌を作ろうとしたが、
心は乗らなかった。
若い頃を共に過ごした仲間の死。
人はみな、いずれそういうものと向き合わねばならない時がくる。
分かっていても実際にそのときがくると、やはり気は沈む。
今は静かに冥福を祈るのみである。
Date: 2011/11/07(月)


東京平日歌会
東京平日歌会、気になった歌。
例によってここには出せないが、最近亡くなった北杜夫について、
北杜夫が死んでなんとなく寂しい、しだいに切に寂しい、
そんな歌意の歌である。
歌会では下句の「この世になしとおもへば」が、
北杜夫がこの世にないことはもう分かっていることで、
「この世になしとおもへば」とわざわざ言う必要はない、という意見だった。
選者の栗木京子さんも総評でそう言っていたのだが、
どうなのだろう?
私はこの部分についてはそれ程の疑問は感じなかった。
北杜夫がこの世にないことは分かっている。
しかし、作中主体は何かの折りにあらためて、
「ああ、そうだった、北杜夫はもういないのだなあ」と思ったのではないか?
事実としては知っていても、何かの折りにあらためてそのことの意味に気付く、
あわあわとした事実の認識がやがて深い悲しみに変わる、ということは人の
暮らしのなかで自然にあることではないだろうか。
そういう作中主体の心の動きを考えたとき、
この世にないのはもう分かっていることだからと切り捨てるものでもないと思った。
あるいは、違う表現でそれを出せるかである。
で、いい歌だと思ったのだが、ひとつ気になるところがあった。
「しだいに」。
この「しだいに」が一首の中で説明的な言葉になっている気がする。
芭蕉の句
       おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉
面白い、そのしばらくあとに来る悲しさ、その間をどうやって表現するか。
芭蕉は「やがて」を使い、この歌は「しだいに」を使っている。
しかし、その「しだいに」に私は説明的な響きを感じたのである。
歌会ではこの部分についてはまったく指摘されなかったが、
問題とするべきところではなかったのか?
なにかしら他の表現はないだろうか。
そう思いつつ私は指名されないまま黙って聞いていた。
この日の出席者は28人。
この人数になるとどうしても時間に追われる。
それが分かっているので、手を挙げての発言は遠慮することになる。
いいと思った歌の気になった部分について発言出来ないというのは、
ちょっと苦しいものがある。

東京平日歌会は今後、選者の栗木京子さんが恒常的に出席されるようで、
そうすると、花山多佳子、栗木京子、小林幸子、結社の女性選者三人揃い踏みである。
三年くらい前だろうか、私が始めて出席した頃は奥ゆかしい人達が多いのか批評が随分
おとなしくて、「なにこれ? マジ?」と思った平日歌会だが(^^;
これからは結社の関東の歌会の中で存在感を増してゆくかもしれない。
それはそれで大変結構なことなのだが、
ということは人数が増えるということであり、
人数が増えるということは、歌会の楽しみが減ってゆくということでもある。
うーん、世の中なかなかうまくいかない...(^^;;
Date: 2011/11/05(土)


谷中
2日の東京平日歌会、例によって午前中は東京の下町歩き。
今回は谷中。
谷中は寺の町である。
江戸時代、上野に寛永寺が出来てからその子院が谷中に建てられ、その後、明暦の大火の
あとで各地の寺院が移転してきたりして、寺の町になった。
寺の町ということは墓も多いわけで、谷中霊園は有名人が多く眠っている。
先月、根津界隈を歩いたのだが、今回も地下鉄を乗り継いで根津へ。
根津の駅から不忍通りを渡れば谷中の端っこである。
先月もそうだったが、この辺りは細い路地が多く、
そういう路地にふらふら入っていきたくなる。
路地の町は歩いているだけでいろいろな発見があり面白い。
道を右に左に曲がっていくと三浦坂に出る。坂の横に三浦志摩守の下屋敷があったので、
三浦坂と呼ばれるようになったらしい。
車一台通れるくらいの細い坂、これを登り、つき当たりを右に折れると、
その先の道が二股に岐れたところに大きなヒマラヤ杉が立っている。
その杉の木の下にみかどパン屋という古い店がある。
路地の向こうのこのヒマラヤ杉とその下のみかどパン屋はちょっと絵になる。
東京の下町案内の本なので、谷根千といわれる谷中・根津・千駄木、その辺の案内には
このヒマラヤ杉の写真が結構載っているのではないだろうか。こんな感じ↓
                       http://qppp3.exblog.jp/7707126
近所のおばさんが話に来ているらしく、みかどパン屋からは笑い声が聞こえていた。
しばし眺めてみかどパン屋の前の道を進む。
その先をまた右に行ったり左に行ったりを繰り返し、谷中霊園の横に出る。
ここの有名人の墓を訪ね歩く人もいるようだが、
墓を見物する趣味はないのでその先の三崎坂をくだる。
この坂の両側にも寺が沢山並んでいる。
坂を下りきったところで右へ、
千駄木の商店街でここら辺も古い東京の趣を残した商店街である。
ここをしばらく行くと右に谷中銀座の入り口。
平日だというのに、観光客らしい人達が結構歩いている。
別に観光客相手の商店街ではなく、
地元の商店街なので午前中だとまだ準備中の店も多いのだがそれでも活気がある。
小さな店が軒を並べている。
谷中銀座の日暮里側の終わりのところに「夕焼けだんだん」という階段があり、
階段の横に何人か座って絵を描いている。
その人たちの横に立って谷中銀座を振り向く。なるほど確かに絵になる。
戦後、路地の両側に小さな店が出来、それがそのまま商店街になったようなところだ。
今は午前中だが、この「夕焼けだんだん」から夕焼けの下の買物時の谷中銀座を眺めたら、
失われてしまった昭和の風景がまざまざとよみがえりそうな気がする。
映像探してみたが、実際の風景の方がノスタルジック↓
                http://humsum.cool.ne.jp/fuu-87.html
短歌の題材に出来るものを探しながら歩いているので、
風景をしっかり焼き付けて日暮里の駅へ。
ここから秋葉原を経て浅草橋。
久しぶりにあさだで十割蕎麦を食べ歌会に行く。


Date: 2011/11/04(金)


原稿
昨夜、短歌の結社に原稿を送り、ようやく、担当の一年間が終わった。
誌面には会員の歌の他に、評論や書評なども毎月、掲載されるわけだが、
この一年担当していたのは、その月の誌面を読んで時評を書くというもの。
二人で分担し隔月にそれぞれの月の誌面を読んで書くわけである。
誌面に書く内容がある月は楽なのだが、
そうでないときは結構苦しむ。
例えば、特集などがあると、それについて結構書けるので、
それで必要な字数が埋まるわけだが、
そういうのがない月などは、書く内容に考え込むわけである。
連載でアララギ歌人の共同研究というのがあり、何度か時評でも取り上げたのだが、
毎回そればかり書くわけにもいかず、ネタに困った月もある。
今年は1月に父が亡くなり、そのあとのいろいろばたばたしている時に、
風炎集と時評の原稿締め切りが重なったりして、
正直言って、その頃はちょっと気持ち的にはつらかった。
今回の誌面時評が終わり、当分、原稿の担当が回ってくることはないだろう。
それにしても、一年間原稿を書いてきて思ったのは、
自分のキャパシティーをもう少し広げなければならないということ。
以前の選歌欄評のときもそうだったが、原稿を書いているときは歌が作れなかった。
原稿だけで手一杯で歌を作っているひまがなかったのである。
しかし本来なら、歌も作り、評論も書く、それくらい出来なければ駄目なのだ。
まだまだ苦しみ方が足りないということだろう。
実力というのは、苦しまなければ決して伸びるものではない。
いい歌を作りたいし、いい文章も書きたい。
もう少し苦しんでみよう。
Date: 2011/11/01(火)


マスキ嵐沢
丹沢の中川川の支流、大滝沢のさらに支沢にマスキ嵐沢という沢がある。
なにやら昭和のプロレスラーのような名前であるが、
昔からあるれっきとした地名。
「マスキ嵐沢」の「嵐」は本来は「荒らし」であろう。
沢が急峻なので、雨が降るとすぐに沢が滝のようになる。水があたりを荒らすように流れる。
そういう急峻な沢という意味。
「マスキ」はよく分からないが、「ますき」という木でも沢山生えていたのだろうか?
隣に藤嵐沢という沢があり、これも小さいながら急峻な沢なのだが、
こちらは藤の木が沢山あったのかもしれない。
久し振りの山登りで、マスキ嵐を登りにゆく。
日頃のおこないが良いせいか、抜けるような青空。
大滝キャンプ場の入り口あたりに車を停め、林道に入る。
しばらく歩くと、先日の台風で林道の途中の橋のたもとが見事に崩れ落ちている。
30分程でマスキ嵐の出合。
ここで沢靴に履き替え、ハーネスを着ける。
あとから来た登山者達がそのまま一軒屋の避難小屋の方へ道を登ってゆく。
畦が丸に登るのだろう。
台風で沢が荒れているかと思ったが、
入ってみると、むしろ数年前に来たときよりも綺麗になっている。
仲間と写真を撮りながら登る。
西丹沢特有の花崗岩の岩盤の上を水が流れてゆくのだが、
数年前はこの辺りに倒木や石がかなり転がっていた。
台風でそういうものが下に流され綺麗になったのだろう。
一番最初にこの沢を登ったのは10年くらい前だが、その頃の美しい沢が戻っていて嬉しくなる。
楽しみながら滝を次々と越えてゆく。
他人のブログだが、ま、こんな感じで登る↓
http://gogoalps.style.coocan.jp/blog/2007/07/post_158.html
最後の滝はすこしかぶっているのだが、残置ハーケンにシュリンゲを通してそれを掴み、
えいやっという感じが乗り越える。こんなことをするのも久し振りだ。
このまま稜線に出て終わりにしてしまうのが勿体ないので、沢の中の日溜りで少し早い昼食。
丹沢のような低山の沢は早春か晩秋が一番登るのには適している。
木の葉が落ちて沢が明るくなるのだ。
鳥の鳴き声が聞こえて気持ちがいい。
のんびりしてから稜線に出て、西丹沢自然教室へ下る。
天然記念物の箒杉を眺めたりしながら大滝キャンプ場へ戻り、
帰りは紅葉の山を眺めながら温泉で汗を流す。
心地良い秋の一日だった。
Date: 2011/10/31(月)


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