*--Diary--*


ナイルレストラン  2011/07/08(金)
築地  2011/07/07(木)
ヤマモモ  2011/07/01(金)
京都・宇治その4  2011/06/24(金)
京都・宇治その3  2011/06/23(木)
京都・宇治その2  2011/06/22(水)
京都・宇治  2011/06/20(月)
震災詠  2011/06/17(金)
高速道路休日1000円廃止  2011/06/14(火)
浮世絵  2011/06/13(月)


ナイルレストラン
本題に入る前に、
昨日の築地についての書き込みのなかで、
「築地の市場は一般人は入れない」と書きましたが、
私のブログを読んでいるというT氏よりメールを頂き、
築地の市場は一般人も入れて、中に美味しい寿司屋もあるそうです。
今まで一般人は市場には入れず場外市場までとひとりで勝手に思い込んでいました。
Tさん、教えてくれてありがとうございます。

さて、本題。
今回は銀座で行きたいところがあった。
暑い日差しの中、築地から銀座へ歩く。
銀座四丁目の三越の近く、大きな道路沿い、ここら辺のはず...。
あった。
ビルに挟まれて申し訳なさそうに立っている二階建ての古い店がある。
ナイルレストラン。
ナイルといってもエジプト料理ではない、インド料理店。
判りやすく言えばカレー屋である。
先月だっただろうか、通っているアーチェリーの射場で、
この次の射会のとき、カレーパーティーをやろうという話になった。
射会の昼飯にカレーを作って食べようというわけだが、
その話から、東京のどこかにあるはずのカレー屋を思い出したのである。
確か、中学から高校のあたりだっただろうか、
読売新聞に「昭和史の天皇」というかなり長期間の連載があった。
父がそれを切り抜いて集めていたので、なんとなく私も読んでいた。
昭和という時代を考察した連載で、
その後、本にもなったが30巻くらいの大作である。
そのなかに、インド独立運動の志士、チャンドラ・ボースと彼を支援した在日インド人の
話があり、その在日インド人は戦後、東京でカレー屋を始めていたはずである。
射会のカレーパーティーの話から、
カレー → インド → チャンドラ・ボース → 在日インド人のカレー屋と、
連鎖反応的に学生の頃読んでいた「昭和史の天皇」のなかのエポックのひとつを
思い出したわけである。
こういう連鎖反応を起こすヤツというのも少し変わっているかもしれないが、
ま、その辺はどうでもいい(^^;
調べてみたらあった→ http://www.ginza-nair.co.jp/index.html
このナイルレストランの創業者A・M・ナイルが私の記憶のなかの在日インド人である。
ホームページを見ると回想録も出しているようだ。
若くしてインド独立運動に身を投じ、そのために亡命せざるをえなくなり、
兄のいた日本に留学、その後、ビハリ・ボースらと独立運動を続け、
太平洋戦争が起きると、マレー戦線で投降したインド兵を組織してインド国民軍を結成。
このインド国民軍はドイツから潜水艦で日本に渡ったチャンドラ・ボースに引き継がれ、
その後、インパール作戦に参加する。
戦後、このインド国民軍に参加した兵士をイギリスは見せしめのために反逆罪で裁こうと
するわけだが、むしろこの裁判がインド国民の独立への機運に火をつける。
ちなみに、日本人のなかにはインドの独立はガンジーの非暴力主義によって
成し遂げられたと思う向きもあるようだが、これは間違いである。
インドの独立については、
大英帝国の解体というアメリカの世界戦略を無視して考察することは出来ないし、
チャンドラ・ボースやA・M・ナイルが組織したインド国民軍の働きも無視できない。
現在、インドの国会にはガンジーやネールとともにチャンドラ・ボースの写真が
飾られているらしい。
ま、そんなことをカレーパティーの話から思い出して、
そのナイルレストランに行ってみようと思い立ったのである。
それにしても思ったよりよっぽど小さい店だ。
中に入ると一階はもう満席で二階に案内される。
20人も入れば一杯になりそうな二階、いわゆるインドらしい音楽が流れている。
ここはムルギーランチというのが有名であるらしいので、とりあえずそれとビールを頼む。
冷えたビールを飲んでいると次々と客がやって来る。
もう少し遅かったら入れなかったかもしれない。
ムルギーランチがきた。
ムルギーというのは鶏肉のことであるらしい。
よく煮込まれた鶏の腿肉が乗っているカレーを思い浮かべてもらえばいい。
腿肉はその場ですぐにナイフで骨を外して切り分けてくれる。
それとカレーと野菜とライスをよく混ぜて食べる。
日本人向けにアレンジしているのか思ったほどにはスパイシーでなく、
まろやかな味なのだが美味い。
少なくとも、いわゆる日本式のカレーとはちょっと味が違う。
正直言って子供の頃からカレーは別段好きでも嫌いでもなかったのだが、
あらためてこうやって食べてみるとなかなか美味い食べ物である。
大リーグのイチローが毎朝カレーを食べていた時期があったそうで、
健康にもいいらしい。
うん、美味い、満足して食べ終える。
店の隅には創業者のA・M・ナイルの写真がさりげなく飾ってある。
さらに客が入ってきたので席をあけた。かなり繁盛している。
平日の昼休みの時間、客はこの辺りのサラリーマンだが、
彼等はこの店がインド独立運動の志士が開いた店だということを知っているのだろうか。
それにしても美味かった。今度、自分でスパイスを調合してカレーを作ってみようか。
そういうのも面白そうだ。
アーチェリーの射会のカレーパーティーの話はなぜかその後、
ホットドッグに変わってしまったのだが、
是非、そのうちカレーパーティーをやってもらいたいものである。
カレーパーティーと銘打つぐらいだから、
まさかバーモントカレーやジャワカレーではあるまい。
スパイスを調合して作った本物のカレーを食べさせてくれるに違いない。
楽しみにしている(^^
Date: 2011/07/08(金)


築地
東京平日歌会のついでの下町歩き、今回は築地を歩いてきた。
厳密に言えば下町ではないが、その辺はどうでもいい。
新橋から地下鉄を乗り継いで築地、駅を出て少し行けば築地場外市場である。
海産物の店や食い物屋が所狭しとならんでいて活気がある。
平日だというのに、観光客もそれなりに歩いていて、
あちこちで、牡蠣を焼いたり魚や肉の串焼きなどを売っている。
休日はもっと凄いのだろう。店員達も威勢がいい。
ちょっと横の方に入ると昔ながらの狭い路地があり、
なにやら懐かしい気分になる。
小学校1年まで、そういう狭い路地の街に住んでいた。
だから、こういうところに来ると妙に懐かしくなるのである。
築地というのはもともとは「埋立地」という意味の普通名詞だった。
明暦の大火で浅草の本願寺が焼け、佃島の門徒達がその移転先にここの海を埋め立てた。
作った築地(埋立地)の地名をそのまま「築地」にしてしまうところが江戸っ子らしい。
江戸っ子にはそういう即物的というか単純なところがある。
寿司屋も沢山あり、覗くと午前中だというのに、鮨をつまんで飲んでいるのがいる。
美味しい寿司屋がたくさんありそうで、
この次は築地で鮨を食べて一杯ひっかけてから歌会に行きたいものだが、
それをやると歌会の会場に着いたときには出来上がってしまっているかもしれない(^^;
それにしてもこの辺のサラリーマンは幸せである。毎日美味しい鮨や魚の定食が食えそうだ。
店をのぞくと、にぎり1000円とか、刺身定食850円とか、
メニューはかなり豊富である。
活気があり猥雑。古い東京の匂いがするような、場外市場のあたりはそういう一角だ。
場外市場から太い道を渡ると築地本願寺。
築地本願寺は異形の寺である。
正面から見たとき、これが日本の寺かと思う。
関東大震災のあと、浄土真宗本願寺派の法主大谷光瑞が、建築家の伊東忠太に依頼して
作った当時としても珍しい鉄筋コンクリート造りの寺院。
古代インドの仏教建築を模したという建物で、
両側に立っている塔はあきらかにストゥーパ(仏舎利塔)を意識している。
狛犬も翼のあるライオンである。
中に入ると大きな講堂のようになっていて、仏像などは置いていない。
ここで僧侶が仏法の話などをするのであろう。
仏像を拝むのではなく、僧侶が信徒と向き合うことを前提にした作りである。
見るとパイプオルガンもあり、キリスト経の教会のようにさえ見える。
大谷光瑞は西域の探検などもやっていて、ちょっと面白い人物であるが、
この異形の寺を見ると、日本的な伝統とかにとらわれない人間だったのかと思えてくる。
彼についてはいずれもう少し詳しく調べてみたい。
さて、本願寺を出て銀座へ歩く。
実は今日は銀座で行きたいところがあり、そのついでに築地に立ち寄ったのだ。
暑い日差しのもと銀座四丁目に向かった。
Date: 2011/07/07(木)


ヤマモモ
家の近くの公園にヤマモモの木がある。
ちょうど今の時期、沢山の実がなっている。
毎朝、ゴールデンレトリバーのさくらを散歩させるのだが、
公園に行くと下に落ちたヤマモモの実を夢中になって食べている。
試しにひとつ食べてみると甘酸っぱい味がする。
誰も見向きもしないが、ジャムにすると美味しいのである。
犬にとっても美味しいのか?
そういえば確かに、地面に散らばっている小粒のドッグフードに見えないことはない。
中に種があるのだが、種を吐き出している様子はないので、
まるごと飲み込んでしまうのであろう。
半端な木など噛み砕いてしまうさくらである、ヤマモモの種などなんでもないのであろう。
今日は7月1日、今年ももう半分終わった。
震災があり、
すべてが変わってしまった気がした。
実際、変わったものもあり、変わらなかったものもある。
これから変わるものもあるのだろう。
震災のあった年、2011年もあと半年。
これから、どういう年になるのであろう。
それにしても極楽ポンチのさくら、むしゃむしゃとヤマモモを食っている。
Date: 2011/07/01(金)


京都・宇治その4
朝、うっすらと川霧の流れる宇治川を渡り、宇治上神社に行ってみた。
昨日見た木霊の宿っているような大欅はひと気のない境内に静かに立っている。
幹に苔が生えていてかなり古い木である。
古代、この列島の人々はアニミズムを信仰していた。
精霊崇拝。森羅万象すべてに精霊が宿っており、人々はそれを八百万の神と呼んだ。
時代を経てそれは神道になり、明治以降は国家神道として奇形化する。
敗戦とともに国家神道が滅びたとき、神主達が集まり、
これからは近代的な宗教としてやっていこうという話があったらしい。
で、教義はどうするという話になったとき、皆沈黙してしまったという。
当たり前である。アニミズムに教義などあるはずがない。必要ないのである。
大いなる自然と向き合い、そこに人智を超えた存在を感じ、畏怖の心を抱く。
それがアニミズムの淵源であり、教義などというさかしらなものは無用である。
人から宗教を問われると返事に困る。
寺に行けば手を合わせるが仏教徒ではない。
教会の十字には敬意を表するがクリスチャンではない。
無神論者かといえばそうでもない。
山に登り、夕空のなかに遠い頂を見たとき、
深い森のなかで木々と静かに向かい合ったとき、
大いなるものの存在を感じることがある。
試しにそれを神と呼ぶなら神と呼んでもいい。
これはたぶん、古代の伝統を継いだアニミズムである。
別に私が特殊なのではなく、
無意識のうちにこれに近い感覚を持っている日本人は多いのではないか?
近代国家でアニミズムの伝統を社会のなかに残しているのは日本くらいかもしれない。
木霊の宿ったような宇治上神社の森を見上げながら、そんなことを思った。
宿に戻り朝食を済ませ、今日は宇治から東山に行く。
車で30分も走れば東山である。
清水の駐車場はもう一杯であろうから、適当な時間貸しの駐車場に入れて歩く。
この辺は何度か訪れてなんとなく土地勘がついてきている。
震災と原発の関係で関西への修学旅行が増えているのであろう、清水坂は修学旅行生で
一杯だった。その間をぬって土産屋に入り、土産を送る。
東山界隈が好きでこの辺を歩きに来たのだが、
ここまできたのだから清水寺もお参りしていく。
ここ三年ほど毎年来てる気もするが、まあいい。
清水の舞台は相変わらずの人だかりだが、これも原発のゆえか、
いつも聞こえる中国語があまり聞こえない。
お参りを済ませ、ここは竹下通りかと思うほどの清水坂を引き返し、
八坂の塔を眺めながら車に戻り帰路に着いた。
Date: 2011/06/24(金)


京都・宇治その3
宇治川の鵜飼は今年は6月18日から9月25日まで行われる。
鵜飼といえば長良川が有名で、そちらの方は1300年ぐらい続いているらしい。
宇治川も平安時代に鵜飼がおこなわれていたらしいが、
平等院が出来て宇治川は殺生禁止ということで魚が採れなくなり、鵜飼も姿を消した。
その後、大正の時代になって復活したという。
鵜飼というのも考えてみれば面白い漁法である。
夕方、宇治川沿いを歩いていたら野生の川鵜が飛んでいたから、
昔からこの辺に川鵜はたくさんいたのであろう。
最初はニワトリみたいに卵を取ったり育てて肉を食うために川鵜を捕らえて飼育したのかも
しれない。飼育していた川鵜がたまたま鮎を呑み込むのを見て、
首に縄をつけて鮎を取らせることを思いついたのか...。
そういうプロセスで鵜飼が始まったとしたら、あるいは最初にやったのは子供かもしれない。
古代の岸辺で遊び半分に家で飼っている川鵜の首に縄をつけ、さあ、鮎を取って来い。
採れた採れた呑み込むな、その鮎は俺のものだ、あと一匹採ったらそれはおまえにやる。
そんなふうに鵜飼は始まったのかもしれないなどと空想してみるのも面白い。
平等院あたりの宇治川は流れが速く、鵜飼にはあまり向いていないような気がするのだが、
中州があって、西岸と中州の間の水路状のところが鵜飼のエリアになる。たいして広くはない。
舟に乗らなくても堤防から見えるだろうと思い7時半頃に宿を出て行ってみる。
案の定、ちょうど鵜飼が始まった。
鵜飼の舟は一艘だけ、篝火を焚いている。
観光客達の乗った舟が水路の両側に並んでいる間を、
その鵜飼の舟が行ったり来たりして鮎を採る。
観光客の舟からは鵜飼が近くに見えるのだろうが、
どうも、端で見ているとあまり風情はない。
なにやら鵜飼舟の業者だけで囲い込んで小さなショーをやっているという感じ。
鵜飼の舟をもう一艘増やし、篝火を焚いて水路をゆっくり上下しながら鵜飼をして、
夜の川面に浮かぶその情景を楽しむ方が古代の漁を再現するようで、
風情がありそうな気がする。
それにその方が、川端の旅館や桟敷にも客が入るだろう。
全体としての客が多くなれば、舟に乗ろうという客も増えるはず。
どうも、そういうふうにビジネスを成功させようという感覚がないのかな...。
ま、それはそれとして、川岸から夜の川面の篝火と影として浮かぶ鵜をしばらく眺め、
雨も降ってきたので川端の桟敷で晩飯を食べて宿に帰った。
鵜飼がああいう遣り方だから、
今日から鵜飼が始まったというのに桟敷には他に一組客がいるだけ。
うん、宇治川の鵜飼、もう少しビジネス感覚を磨いた方がいいかも(^^;
Date: 2011/06/23(木)


京都・宇治その2
王朝の時代、宇治は貴族達の別荘の地だった。
源氏物語の宇治十帖もそういう背景のもとに書かれている。
平等院ももとは別荘である。
光源氏のモデルであったらしい源融の別荘として作られ、
その後、藤原道長の別荘になり、その子頼道のときに寺になった。
平等院と言えば鳥が翼を広げたような姿が浮かぶ。
鳳凰堂を中心として両側に翼堂があり、
池を前に配したその姿は日本の古代建築としてはちょっと異色である。
で、その異色な平等院、実際に目の当たりに見てみると、かなり痛んでいる。
おそらく朱に塗られていたであろう柱は色が完全に落ちているし、
壁の漆喰もところどころ剥がれている。
なにか全体的にカビに侵されつつあるような感じがする。
これはあるいは池を配しているため、その湿気が影響しているのかもしれない。
宇治川を渡ったときに感じたのだが、
水があることでやはり多少なりとも涼しさがあるのである。
別荘であった時代の平等院はあるいは夏の避暑の地として使われたのかもしれぬ。
夏の京都は暑い。まわりに池を配した浄土式庭園は、
水を配することによるなにがしかの冷却効果も期待したのかもしれない。
眺めていて気になったのは翼堂である。
階段がついていないことに気がついた。
壁のない二階があり、普通ならその空間を使いそうだが、階段がついていない。
つまりそのままでは使えない二階なのである。
あるいは別荘であった時代は階段があり、庭を眺めながら客がそこで宴に興じたか、
管弦を奏でる者達がそこに並んだのかもしれない。
寺に改装されたときに外されたのか?
かって源氏物語の時代、この別荘はどういう姿であったのであろう?
当然、今のような枯れた姿ではなく、鮮やかな朱の殿堂であったはずである。
そんなことを思いつつ、鳳凰堂と翼堂を眺めた。
いずれにせよ、大規模な修理が必要になりそうだ。
そうしなければ、古代から残る貴重な文化遺産が失われる。
道長の時代からでも千年。
千年という歳月が具体の姿としてそこにある。
京都や奈良は、千年・数百年という歳月を具体で見ることの出来る空間である。
Date: 2011/06/22(水)


京都・宇治
京都の宇治に行ってきた。
以前、短歌結社の全国大会で京都に行き夕暮れの東山界隈を歩いて以来、
京都にはまっていて、一年に一度は京都に行っている。
19日で高速道路の休日1000円が廃止になるので、その前にということで行ってきた。
いつもの通り早朝に出て、東名・伊勢湾岸・東名阪と乗り継いで走っていくのだが、
やはり休日1000円最後の週末である。四日市の先で渋滞にはまり、
宇治に着いたのは10時過ぎだった。
紫陽花で有名な三室戸寺に立ち寄り、そのあと源氏物語ミュージーアムを訪ね、
そこに車を置いたまま早蕨の道を歩いて宇治上神社・宇治神社と歩き、
宇治川を渡って平等院を見る。
三室戸寺以外はみな歩いて行ける範囲にある。
宇治といえば浮かぶのは平等院と源氏物語の宇治十帖。
源氏物語ミュージーアムは映像を主体としたミュージーアムで、
美しい源氏物語の世界が立ち上がってくる。
世界最古の小説のひとつである源氏物語、その最後の部分が宇治十帖であるが、
正直言うと読んだことはない。
いろいろな人が現代語訳を書いているが、
読むのなら原文で読みたいし、それにかなり長いイメージがある。
覚悟を決めてからでないと読めなさそうな気がする。
ミュージーアムを出て宇治上神社に続く早蕨の道を歩く。
この早蕨の道は緑に覆われた雰囲気のいい道である。
新緑や紅葉の季節も美しいだろう。
源氏物語、読んでみるかなと思いつつ歩いていくと世界遺産の宇治上神社に出る。
決して大きくはないが、かなり古い神社であるらしい。
一説によると900年代の創建というから、1100年以上経っていることになる。
もっとも、現代建っている拝殿等は鎌倉時代の建物。
境内の隅に大きな欅が立っているのだが、いかにも木霊が宿っていそうな欅で、
周囲の緑も鬱蒼としており、
アニミズムの時代から受け継がれた森のなかの神社という趣きがある。
ここから宇治神社を経て宇治川を渡れば平等院である。
Date: 2011/06/20(月)


震災詠
短歌結社の結社誌6月号が届いた。
毎月の出詠が誌面に載るのは三ヶ月後、
6月号に載っているのは3月に出した詠草である。
つまり、東日本大震災のあとで出した詠草。
結社誌には新樹集という欄がある。
その月の出詠のなかで一連として優れている10編が載せられる。
6月号の新樹集は10人のうち6人が震災の被災者だった。
そして、その6人のうち5人が女性である。
確かに短歌人口としては女性の方が多いのであるが、
それにしても今回の新樹集10人のうち5人が震災の被災者の女性というのは多い。
歌の一部を紹介してみよう。

   甥つ子を二階の窓より投げて受けて山を上へと駆けのぼりたり
   地獄図絵と言ひてそののちおとうとの携帯電話は繋がらざりき
   半身を水に漬かりて斜めなるベッドの上のつつがなき祖母
                           /梶原さい子
   鎖されたる駅舎を過ぎて難民と呼ばれる寡黙な群れに従きゆく
   バッテリー足りなくなりたる携帯電話を破れし護符のごとく握りて
   ことごとく投げだされたる本のなか防災頭巾の娘が眠る
                           /沼尻つた子
   はじまりは命だけはなど思わざりテレビを押えて死んだかもしれず
   七日目の朝のトイレの貯水槽に満々と湛うる水がゆれたり
                           /三浦こうこ
   震度6に怯えて逃げし石田さんの犬いまどこを逃げてゐるのか
   子らを逃がし老親と家に残る友しづかな家だと被災地を言ふ
                           /小林真代
   モップ洗う水が流れて水たまりを作りてゆきぬ音のせぬまま
   上履きを脱いで作業すここよりは生活の場となる体育館
                           /中村明美
   
いずれも実感に裏打ちされた良い歌である。
それにしても出詠の締め切りは20日、3月11日に地震があり、
そののち一週間程度で彼女達はこの稀有の体験を詠ったのである。
これは驚くべきことだ。
実際、私は震災のあと、まともに歌を詠えなかった。
表現することの無力をまざまざと思い知らされたのである。
しかし、彼女達はわずか一週間でこういう歌を詠っている。
この違いはなんだろうか...。
あるいは性差ということもあるかもしれない。
男はこういう場合、物事を大きな視点でまず把握しようとする。
今、何が起きているのか。
これからどうなるのか。
どう対処したらいいか。
そういうことをまず把握しようとする。
大袈裟に言えば、危機にあって天下国家を思うわけである。
しかし、そういう大きな視点での把握は短歌では成功しない。
女性達は違う。
1000年に一度の大津波を経験してなお、
半身を水に漬かりながらベッドの上でつつがない祖母に目を向け、
余震で溢れそうなトイレの水に目をやるのである。
そういう身めぐりに向けられた視点が彼女達の歌を成功させている。
それと、これは世間でもよく言われていることだが、
男性は女性より繊細だということもありそうな気がする。
女性は原始の時代から出産という命がけの営みを担ってきたわけで、
決してやわではない。強がったところで実は男の方がよほどデリケートである。
東北にも結社の男性の会員はいるが、
そのうちの一人は6月号の私の歌に共感したといって葉書をくれた。
こういう歌である。

   原発のニュースに疲れ歌を詠む歌詠むことを恥じる心に

その人もやはり震災以後、歌を詠えないという。
「歌詠むことを恥じる心に」、それに共感したという。
繊細で女性達ほど強くもない(体力的な強弱ではない)男達が今回の震災を詠うには、
時間が必要だということであろう。
Date: 2011/06/17(金)


高速道路休日1000円廃止
今日の新聞にNEXCO東日本の広告が出ていた。
東日本大震災の復興資金に充てるために廃止されることになった
高速道路の休日1000円。
今月の19日までで廃止しますという案内である。
廃止が決まったのは4月だった。そのときは6月末ということだった。
その後、5月になってシステム変更のめどがついたので、
前倒しで6月中旬をめどに廃止ということになった。
震災復興資金に充てるために廃止されることには反対しない。
むしろ賛成である。
ただ、なぜアナウンスがこんなに遅かったのだろう?
6月中旬をめどに、というのは漠然とした言い方である。
消費者にしてみれば、旅行の予定等は前もって立てるのであって、
いつ廃止になるのかがはっきりしないと困るという人もいただろう。
観光業界も同じである。
休日1000円の恩恵を受けていたところは観光客の減少が予想され、
当然、なにかしらの対策を立てる。
それを宣伝するにしても、いつから廃止かはっきりしないと困る。
結局、6月19日までで廃止という小さな記事が新聞に出たのは6月1日だった。
そして、NEXCO東日本の広告が出たのは今日、廃止まであと5日になってである。
利用者の利便を考えるなら、もっと早く周知しなければならないはずである。
NEXCO東日本はもとの道路公団であり、民営化されたといっても株主は国である。
民間企業というには程遠い状態にあり、経営陣も社員も実質は官僚のままである。
彼らは「情報を周知する」ということの必要性がよく分かっていないのではないか?
原発事故もそうだが、情報を周知しないから無用な憶測を呼んだり、
混乱を招いたりするのである。
政治家も官僚もそろそろその辺に気付いてもらわないと困る。

ちなみに、廃止されるのは休日特別割引の「上限1000円」。
情報の周知が重要だということを知らない政治家と官僚が多いおかげで、
20日以降は以前のように休日も平日と同じ料金になると思っている人も多いようだが、
休日特別割引自体は廃止されないので、休日は平日の半額ということになる。
ついでに言えば、
被災者の高速道路無料化については、
罹災証明書を提示すればOKということになっているので、
罹災証明書を闇で売り買いするケースも出てくるのであろう。
そういう輩が多少出てくるとしても、
これは他に被災者を識別する方法がない以上、仕方ないのかもしれない。
Date: 2011/06/14(火)


浮世絵
先日、上野に写楽を見にいったが、
展示室を出たところでいろいろなグッズを売っていて、
そのなかに復刻版の浮世絵があった。
写楽、北斎、広重、値段を見ると額縁付きで26000円ほど。
復刻版というのは印刷ではない。
江戸時代と同じ技法で現代の浮世絵師達が作った模写である。
模写とはいえ鮮やかな色でなかなかいい。
子供の頃、永谷園のお茶漬けの袋に、
手のひらに乗るサイズの浮世絵を印刷したカードが入っていた。
北斎の富嶽三十六景や広重の東海道五十三次などがあり、
それが好きで集めていた。
神奈川沖浪裏の大胆な構図や庄野白雨の雨を線で描く手法。
子供心にもその美しさに惹かれたのだった。
今でこそ浮世絵は人気があるが、
私が子供の頃は、浮世絵などというのは古臭いもので、
19世紀のヨーロッパの画家達に影響を与えたということも殆ど言われていなかった。
その頃に北斎や広重の風景画に惹かれていたというのは、
たぶん、風変わりな子供だったのであろう(^^;
今、事務所には新潟のトミオカホワイト美術館で買った富岡惣一郎の
茜に染まる槍ヶ岳の版画が飾ってある。
別に高いものではなく、たしか2万くらいのものだったが、
そのシンプルな構成と色の美しさに惚れて買ったのだった。
絵は、有名無名を問わず自分でいいと思った絵を買って飾るのがいい。
世間での評価に左右されず自分で気にいった絵を飾る。
それ自体、ひとつの自己表現である。
うーん、子供の頃、永谷園のお茶漬けのおまけのカードで眺めていた北斎や広重。
大人買いしてしまおうか...(^^;;
出店していた会社をネットで調べてみた→http://www.adachi-hanga.com/index2.cgi
機会があれば見に行ってみようと思っている。
Date: 2011/06/13(月)


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