*--Diary--*


苅谷君代第四歌集『初めての〈青〉』批評会  2010/12/07(火)
捜索終了  2010/12/02(木)
捜索 発見  2010/11/30(火)
捜索 ザック発見  2010/11/29(月)
捜索 目撃情報  2010/11/27(土)
立川目陽子第一歌集『螺旋のつぼみ』批評会  2010/11/21(日)
捜索  2010/11/17(水)
法隆寺  2010/11/15(月)
信貴山縁起絵巻  2010/11/13(土)
東大寺  2010/11/09(火)


苅谷君代第四歌集『初めての〈青〉』批評会
遭難の捜索の間を縫うようにしてふたつの歌集の批評会があった。
ひとつは立川目陽子さんの『螺旋のつぼみ』。こちらについては既にこのブログに書いた。
もうひとつは苅谷君代さんの『初めての〈青〉』。
苅谷さんは私がホームグラウンドにしている横浜歌会の立ち上げのときからのメンバーである。
高校生の頃から歌をやっていたというから、かなり歌歴は長い。
『初めての<青>』は第四歌集である。
先天性緑内障と闘い続けた作者のひたむきな姿の伝わってくる歌集である。

  メスわれの眼球ねらひ降りてくるそののち乳白色の視界よ
  執心のあらはに鬼となるときのわれはかなしき目をしてをらむ
  遠くより布団を叩く音がする日翳りゆきて風の吹く日を
  夜の底に吸はれてゆけり竹群のそよぎも君が何か言ふこゑも
  小魚の群が化石となるまでの時間よどれも口あけしまま

この人の歌は巧い。歴史や古典への造詣も深く、
それに裏打ちされた細やかな歌もこの人の特色のひとつであろう。
批評会でもその辺の話が多く、古典を下敷きにした相聞歌についても語られた。
で、私も発言を求められたので、
目についた幾つかの問題点を指摘するとともに、
教師としての職業詠に良い歌がある旨コメントした。
そういう歌を幾つかあげてみる。

  寂寥のたへがたければ教室に白秋の盲ひゆく歌を語れり
  くちびるを「一」の形にひきむすび盲の少女が選ぶカチューシャ
  教室に語る李徴の顛末をいまはわからずともよし、君よ

補足するが苅谷さんは教師をしておられたが、
途中から盲学校で教鞭をとるようになられた。
苅谷さんの職業詠は過剰な思い入れがなく、それでいて対象への愛が感じられる。
いずれもいい歌である。
苅谷さんというと、周囲はことさらに相聞を言い立てるのだが、
正直言って私は苅谷さんの相聞はあまり好きではない。
そういう私の発言に、
批評会を歌集出版のお祝いのように思っている向きは驚いたかもしれないが、
私は歌集の批評会とは、
その歌集をよりよく鑑賞すると同時に、作者の今後の課題を考える場だと思っている。
出版記念パーティーと批評会は違うはずである。
だから遠慮なく言う。
苅谷さんの相聞は全体として抽象的で思いが強すぎ、恋に恋しているイメージである。
古典を下敷きにしたその艶やかさが印象的なので、
周囲は「苅谷さんの相聞」とことさらに言うのだが、
苅谷さんの歌の良さは、職業詠や飾らない自然詠、
あるいは自らの人生に凛として向かい合った歌にこそあるのであって、
相聞ではない。
最後に歌集の名前になった歌を紹介しよう。

  水晶体の濁りを砕きしのちの眸に映る空あり初めての〈青〉
  

Date: 2010/12/07(火)


捜索終了
昨日、警察が遺体を収容し、彼とほぼ断定したらしい。
最終的な確認のため、歯形とDNA検査をするということで、
それに時間がかかるので、遺族への遺体の引渡しは年明けになるという。
現場の状況から判断すれば、
彼は買出しのために御前山から大ブナ尾根を奥多摩湖へ降りていた。
そして、サス山手前ののっぺりとした尾根上で北に伸びている支尾根に迷い込み、
その支尾根から東のシダクラ沢の側に滑落した。
尾根の下、5mくらいのところの木にザックが引っ掛かっていて、その2m下にストック、
さらに20m下に帽子が落ちていた。おそらくそれより下まで滑落している。
発見を受けて会の捜索隊はそこから斜面を下降し、
シダクラ沢の支沢から本谷を捜索したが彼を発見できなかった。
シダクラ沢の本谷自体は以前にも捜索している。
シダクラ沢で発見できなかったという報告を受け、ならば上に行ったなと思った。
案の定、彼は上に登っていた。
滑落はしたが致命傷は負っておらず彼は斜面を這い登り支尾根に戻ったのである。
ザックを回収していないのは、
怪我のためかあるいはパニックになっていたのかもしれない。
彼はそのまま支尾根を降りようとしたはずだが、
あるいはそこから西側のサス沢に迷い込んだか、
パニックになって這い登りそのまま支尾根を横断してしまい、
反対のサス沢側に落ちたのかもしれない。
以前、上越の券機山の米子沢で同じような事例があった。
米子沢でルートを見失った登山者が道のない尾根をひたすら登り、
反対側の奥利根のダムまで自力で歩き保護されたという遭難である。
その遭難者は新潟側から奥利根側に渡るとき、稜線上の登山道を横断しているのである。
登山道をくだれば簡単に下山できるのに、パニックになった遭難者は登山道に気付かず、
わざわざ道のない奥利根側の困難な地域に入っていった。
パニックになった者はこういうことをするのである。
いずれにしろ彼は滑落した場所とは反対側のサス沢に入りそこで力尽きた。
サス沢は小さな沢であり沢を下降するのは困難ではなかったはずだ。
下降出来なかったのはかなりの怪我をしていたということだろう。
ザックの中には行動食とペットボトルの水が殆ど残っていたというので、
おそらく事故があったのは午前中。
すると不思議なのは先日の目撃情報である。
10月1日、彼は湯久保尾根から宮ケ谷戸に降りたという。
目撃した夫婦は我々の示した彼の写真を見て、
「間違いなくこの人です」と断言した。
しかし、彼のザックにも避難小屋に残された荷物にも下で買出ししたものは残されていない。
それに遭難現場の状況からして彼は大ブナ尾根を下山していた。
宮ケ谷戸に降り五日市に出て買出しをして奥多摩湖の側に回りこんで帰ろうとしたのなら、
上に登っていなければならない。状況が一致しない。
消費した食料から判断しても彼の遭難は9月30日か10月1日である。
するとその目撃情報はどういうことか?
会の仲間は、湯久保を降り藤倉にバスで行き、そこから陣場尾根を登り小河内峠を経て帰る
つもりだったのだろう、そして惣岳山で道を間違え大ブナ尾根に入ったのでは、と推測したが、
そのラウンドコースはやや不自然である。
ラウンドするなら宮ケ谷戸に下らず直接、藤倉に下りそうである。
それにそういう長時間の行動をしたのなら、
ザックに残っていた行動食や殆ど消費していない水はおかしい。
これは推測だが、
彼は10月1日、買出しのために大ブナ尾根を下っていた。湯久保尾根は下っていない。
宮ケ谷戸の目撃情報は彼ではなく別の登山者であろう。
時間からして御前山の避難小屋に泊まったはずで、
遭難した彼と30日の晩、小屋で話をしていたかもしれない。
その登山者は湯久保尾根を下り、宮ケ谷戸でその夫婦と話をした。
そのときに、避難小屋にこういう人がいたという話をしたのであろう。
目撃情報があったのは我々が捜索の打ち切りを話し合おうとしていた日で、
我々はその目撃情報に一抹の疑問を持ったのである。
「この通報の中身、チラシに書いてあることそのままだよな、どう思う?」
それでも通報があった以上、我々はそこに向かい聞き込みをし捜索した。
通報してくれた夫婦は、偽の通報をするような人達ではなかった。
おそらく記憶の変形。
通報してくれた夫婦は嘘などついておらず、10月1日、湯久保尾根を降りてきた登山者に会って
いるのである。そして、それから一ヶ月以上経ち、ふと遭難のチラシを目にしたとき、
あるいはあの人か? と思ったのであろう。
そして、そう言えばそんな話をしていた...、顔も似ている気がする。
それが日が経つにつれ確信に変わる。
そうやって記憶は変形していくのであり、別に不思議なことではない。
あの夫婦は善意の通報をしてくれたのである。
そう考えなければ、10月1日、彼の魂だけが湯久保尾根を下山してきたのかと
思わなければならなくなる。
いずれにせよ、まだ事後処理は残っているが、
一ヶ月半に亘った我々の捜索は終わった。
Date: 2010/12/02(木)


捜索 発見
先程、山岳会から知らせがあった。
警察の捜索隊が、ザックを発見した地点から尾根を乗り越して反対側にある
サス沢の沢床で遺体を発見した。
まだ確認はされていないらしいが、
所持品から警察は我々が探していた彼であろうと推定している。
会の捜索隊はそこから離れた尾根上にいるので遺体をまだ確認していないが、
これから下山して確認する。
先週の土曜、湯久保尾根を捜索していたとき、山の上を低く県警のヘリが飛んでいった。
「また遭難があったのか」と仲間と話していたのだが、
その新たな遭難を捜索していた青梅警察の山岳救助隊が彼を発見してくれたようだ。
滑落地点が特定できたことで、集中的に捜索すべく昨日から入山出来るメンバーが入り、
私も明後日の木曜、予定をあけて捜索に入るつもりだったが、
我々の捜索は終わったらしい。
Date: 2010/11/30(火)


捜索 ザック発見
週末二日間かけての湯久保尾根の捜索はなんの手掛かりも発見出来ずに終わった。
通報のあった集落からの登山道の他、その奥の尾根上にある集落からの登山道、
さらに谷の奥の藤倉からの登山道を捜索し、
滑落しそうなところはザイルで下降して斜面を調べたが、
何も発見出来なかった。
捜索を終えた日曜の夕方、青梅警察から会に連絡があった。
「大ブナ尾根でザックとストックを発見したので、本人のものかどうが確認して欲しい」
なに!?
大ブナ尾根は御前山の北東、奥多摩湖の側に伸びる尾根で、
通報のあった湯久保尾根とは正反対の場所にある。
なんで?
あるいはバスで五日市に出た彼は買出しをしたあと、
奥多摩側に回りこんでそちらから避難小屋に戻ろうとしたのか?
しかし、五日市から奥多摩へはバスは出ていないはずである。
途中乗り換えをしながら奥多摩側に行った?
そんなことがあるのか?
日曜の捜索を終えて帰宅途中だったメンバーが、連絡を受けて急遽引き返し、
青梅警察でそのザックとストックを確認した。
本人のものにほぼ間違いないという。
警察で発見場所についても詳細を聞いてきた。
大ブナ尾根の途中から北に伸びる支尾根の東側斜面、
根本の曲がった木にザックが引っかかっていて、
その2mぐらい下にストックが落ちていたという。
当然、警察の捜索隊は周囲を調べたが彼は発見できなかった。
おそらく滑落して、そのあと自力で動いているのだろう。
その支尾根には登山道はついていないが、入る人もいて踏み跡程度はついているらしい。
警察は月曜から周囲を徹底的に捜索するという。
山岳会からも出動できる人間を急遽派遣した。
Date: 2010/11/29(月)


捜索 目撃情報
25日、山岳会の集会で捜索の終了について話し合うつもりだった。
その日の昼、地元の人から目撃情報が寄せられた。
避難小屋のある御前山から東南に延びる湯久保尾根の末端、
宮ヶ谷戸に住む人からの情報提供である。
捜索開始と同時に写真入のチラシを作り、避難小屋、登山口、麓のバス停、
いろいろなところに掲示した。それを見ての連絡だった。
その通報を受け、週末、その地域に入った。
まず、通報してくれた人に会いに行く。
東京都のレンジャーもしていたという人で、山には詳しい人だった。
湯久保尾根の登山口の近くに住んでおられ、
朝、庭に出ていたら登山道を降りてきた人に話しかけられたという。
「この辺に、コンビニかスーパーはありませんか?」
そのあといろいろ話をして記憶に残っていたらしい。
日付は10月1日、天候は晴れ、時間は午前9時前。
写真を持っていって見てもらった。
「確かにこの人です」
彼は10月1日、買出しのために湯久保尾根を下った。そして、宮ヶ谷戸の集落に出た。
問題はその後である。
通報をしてくれた人はその集落内の店を教えたそうだ。
しかし、それらの店に行って聞いてみると、そういう人は来ていないという。
覚えていないということはあるだろうが、そのうちの一軒の酒屋の主は、
一度来た客の顔はかなり覚えている人であるらしく、記憶には自信があるようだったが、
「その日のその時間はもう店を開いていましたが、この人は来ていません」と
はっきり断言した。
通報者とその店の間にはバス停がある。
時間を見ると、五日市行きが9時3分、反対の谷の奥の方の藤倉行きが9時28分。
地図を見ると藤倉は結構大きい集落である。
あるいは藤倉に行けば店があるかと思いバスに乗ったかもしれないと思い、
藤倉に行ってみた。しかし、見たところ藤倉には店がない。
バス停の掃除をしていたおばあちゃんに聞いてみた。
「それは大変だねぇ〜、わたしゃこの上に住んでいるんだけど、この人はねぇ〜」
住んでいるその上というのを見上げてみてもただ急斜面に植林の木々があるだけである。
そういえば走ってくる途中、尾根の上の方に遠く人家が見え、
あんなところに人が住んでいるのかと驚いたが、あるいはそこのことか?
東京にも凄いところがある。そう思うしかない。
もし藤倉に来たとしても店がなければ再びバスに乗り引き返したはずだ。
通報者に教えてもらった酒屋には行っていない。奥の藤倉でもない。
すると一番考えられるのは、通報者と話したあとバスの走る道に出、
丁度9時3分の五日市行きのバスが来て、それに飛び乗ったことである。
彼は十月一日、買出しのために湯久保尾根を下り、その後、バスで五日市方面に向かった。
買出しが終わったあと、ベースにしている御前山の避難小屋にどうやって戻るか?
ルートを考えると、もっとも妥当なのは来た道を引き返す湯久保尾根コース。
もうひとつは五日市方面からバスで一番奥の藤倉に行き湯久保尾根に上がるコース。
このふたつである。
Date: 2010/11/27(土)


立川目陽子第一歌集『螺旋のつぼみ』批評会
山岳会の仲間の捜索の間を縫うようにして、
立川目陽子さんの第一歌集『螺旋のつぼみ』の批評会があった。
批評会に出るには、その歌集についてしっかり読んでいかなければならないのだが、
週末の度の捜索と仕事に追われて歌集を読み直すことが出来ず、
批評会の当日、机の下に歌集を隠して歌集をあらためて読んでいるという、
まったく怪しからぬ参加者であった。

  子への手紙小さき文字にうめゆけば筆圧つよきいちまいとなる
  ただひとり仰臥する人をみおろせりこの世の父を亡骸として
  雨止みてゆふさりの門にあさがほのつぼみの螺旋ふつくらとせり
  びつしりと岩手日報にくるまれて夫の故郷ゆりんご届きぬ

いい歌である。
家族への深い愛情が伝わってくる歌が多く、真摯な詠いぶりに好感がもてる歌集だ。
批評会でも肯定的な話が多かった。
フリーディスカッションで指名された私は、いい歌集であることに同意しつつ、
しかし、ひとつ気になることを指摘しなければならなかった。
「いいお母さん...という事が伝わってくるんですが...。
ただ、いいお母さんになってしまうところがあるようで、それが気にかかる」
そんな意味の発言をした。
なにやら曖昧な発言で、正直自分でも感じていることをうまく表現出来なかったのである。
少し日にちが経って、自分の感じていたことをもう少し整理することが出来てきた。
批評会の日、机の下に歌集を隠して読み直しながら、どうも気になることがあったのである。
他の人も指摘していたとおり、家族詠の多い歌集なのだが、
その家族詠から浮かんでくる家族の姿がいまひとつ平面的なのだ。
実際の家族というのはもっと凹凸のある存在なのではないか?
私はそれが気になっていた。
で、私は、パネラーのひとりが配った資料のなかの歌のひとつに目を止め、
それを何度も読み直していた。

  看取りするおのが傲慢意識しつつ病む母に強き物言ひなせり

この歌自体はいい歌である。しかし、私は結句が気になった。
自分ならどう詠うだろう。

  看取りするおのが傲慢意識しつつ病む母に強き物言ひをせり

こんなふうに詠う気がする。
「物言ひをせり」と詠ったとき、おのれの傲慢を意識し、
それをおのれの態度として受け止める作中主体がいる気がするのである。
それに対し、「物言ひなせり」という結句の丁寧さはどうだろう?
この丁寧さは歌集全体に共通したところで、立川目さんの歌の特徴でもある。
しかし、この歌ではその丁寧さが生きているのであろうか?
看取りをしているとき、実はおのれの心のなかに傲慢な意識が潜んでいる、そういう
人の心理の深いところをえぐるようなこの歌で、そういう丁寧な結句は効果を生むだろうか?
その丁寧さが歌の力を殺ぐような気がする。
立川目さんの歌の問題はここにあるのではないか?
丁寧過ぎるのである。
最後の最後でこの人はいい人になってしまう、いい母、いい妻、いい子になってしまう。
しかし、それで現実の家族の姿は浮かび上がるだろうか?
現実の家族の凹凸というのは、そういう、いい人の詠み振りで浮かび上がるだろうか?
人は憎しみも抱く、怒りも抱く嫉妬も抱く、醜い部分も内にひめているのが本当の人間であろう。
いい人はそれを表現出来るだろうか?
私が批評会の当日、言語化出来ないままに抱いていたのはこの疑問だった。
この丁寧さを捨てることが立川目さんのこれからの課題なのではないか?
今回の批評会では「今後の課題」という言葉が聞かれたことは聞かれたのだが、
ちょっと少なかった気がする。
そういう忌憚ないディスカッションがもっと出来れば良かったのだが、
その時間が少なかったのは、進行上やむをえないことではあったがちょっと残念だった。
Date: 2010/11/21(日)


捜索
山岳会の仲間の捜索、もう一ヶ月になるが続いている。
先々週の土曜日に奈良から帰ってきて翌日曜は早朝から奥多摩に向い捜索。
この日は御前山北面を捜索をした。
ここは東京都の体験の森になっていて、森の中に縦横に小道が続いている。
ここは既に調べているのだが、道の脇の草叢に倒れているかもしれないので、
道の左右の藪に分け入りながら歩く。谷に落ち込んでいるところはその谷を下る。
さらに御前山の避難小屋の水源の上にも登ってみた。
水源の様子を見に行って熊やスズメバチに襲われた可能性もあると思ったのだが、
水源の上の藪の斜面にも手掛かりはなく、
そのまま道のない支尾根を登って御前山の頂上に出た。
惣岳山にも行ってみたが、ここの頂上はあるいはガスで視界がないときは、
御前山に戻るつもりで十文字峠の道に入るかもしれない。
両方とも道の両側に植生保護のためのロープが張ってあるのだ。
通常ならルートを間違えることはないが、視界が悪いと勘違いすることもあるかもしれない。
人はこちらだと思い込むと確認しないものである。
あるいは惣岳沢は再度調べた方がいいかもしれない。
そして先週の日曜は、
御前山の五日市側の沢を下って登り、再び別の沢を下って登るという形で捜索した。
荒れた沢で歩きにくく、正直へばった。
地図に載っていない林道などがあったり、
人の入らない沢の中に昔の炭焼きの跡があったり、林業の架け小屋がふいに出てきたり、
山もこんなふうに歩くといろいろな発見をするものだと思った。
結局、手掛かりは何もない。
消えてしまったようにどこにも手掛かりがない。

そろそろ捜索を終わりにすることを考えるしかない。
我々が捜索で入っていくのは通常の登山道ではない。動物達の縄張りである。
実際、一連の捜索でイノシシとカモシカに会った。木にクマの爪痕もあった。
今月の15日から狩猟解禁、ハンターが入ってくる。
捜索エリアの殆どは狩猟区域である。
自分の意思で行く山行なら気にもとめないところだが、
誤射というような万一のことがあれば一大事である。
家族には申し訳ないが、そろそろ打ち切りにしなければならないだろう。
実際、この一ヶ月の捜索で会員達もみな疲れている。
Date: 2010/11/17(水)


法隆寺
法隆寺は世界最古の木造建築群。
奈良と京都を比較してみると、都として作られたのが約100年違うだけあって、
やはり奈良の方がなにかと古さが目に付くのだが、
法隆寺は飛鳥時代の創建だから、平城京が出来るよりもさらに前である。
ここもやはり広壮な敷地で、古代は土地がふんだんに使えたのだとつくづく感心する。
ここで最初に目にとまるのは中門の金剛力士像。
日本最古の阿吽の像である。
東大寺の阿吽の像は鎌倉時代に新しく作られているが、
ここの金剛力士像は、飛鳥時代に作られてからそのままである。
つまり1300年以上前のもの。
他の寺の阿吽と風合いが違うのは、ひとつには塑像だからであろう。
他の寺の阿吽はたいてい木像。
スタイルもちょっと違う、古代の力強さを感じる造形である。
東大寺の阿吽の像を作った運慶は奈良の生まれだから、
若い頃、この金剛力士像の前に来て日がな見上げてデッサンしていたかもしれない。
  阿形像→http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/e1027639d65117f78a6ce6b1d7aa0e00
  吽形像→http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/a2bffc34dbc03a5e1cc8ad4939ea21d7
歴史はこの傑作を作った古代の芸術家の名を記していない。
中に入ると五重の塔と金堂がある。
有名な法隆寺の壁画はこの金堂にあったのだが、修理中に焼失してしまった。
現在、その焼失した壁画はそのまま保存されている。
あるいは科学技術が進歩した未来、復元できるかもしれないということで、
そのとき燃えた木材などもそのまま保存されているという。
未来の技術を信じるこの姿勢が日本人として嬉しい。
2位じゃいけないんですか? という迷言を放った御仁なら、
その保存費用を事業仕訳で切り捨てようとするかもしれない(^^;
現在、金堂で見られるのは復元された壁画である。
その壁画に囲まれて本尊である釈迦三尊像があるが、
この古代の仏像は後世の日本の仏像とは趣きを異にしている。
大陸風とでもいうのだろうか、そういう感じ。
法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺であるという。
聖徳太子の斑鳩の宮のあとに建てられたとかいう話もあり、
聖徳太子自身、法隆寺に祀られている。
有名な百済観音や玉虫厨子があるのもこの寺であり、ゆっくり見ていると結構時間がかかる。
法隆寺だけでなく法起寺など近くの寺とからめて歩くと面白い。
参道で土産の奈良漬と柿の葉寿司を買って帰路に着く。
漬物屋のおじさんが、
「奈良漬は普通は三回漬けるんです。こっちが三回漬けたほう、それをもう二回漬けると、
こっちの色の濃いものになる。三回の方はまだ塩気があるでしょう。
五回漬けるとまろやかになるんです。」
と説明してくれたので、その五回漬けた方を買った。
確かにまろやかだが、ちょっと味が濃いかな。
法隆寺インターから高速に入ると、それがそのまま自動車専用道路である名阪国道に
つながっており、さらに東名阪の亀山インターまでつながっていた。
奈良に行くにはこの道が一番ストレートだった。
行きはこの道を知らなかったので、新名神の信楽でおりて山越えをしたのだった。
今度からこちらの道を使おう。
以前から見たかった正倉院展、子供との奈良旅行を終え、東名をひた走って横浜に帰った。
Date: 2010/11/15(月)


信貴山縁起絵巻
信貴山は奈良と大阪の境の生駒山系の南の端で、朝護孫子寺という寺がある。
この寺の中興の祖・命蓮上人にまつわる奇跡譚を描いたのが信貴山縁起絵巻である。
平安時代末に作られた絵巻物で、
「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」と並ぶ中世日本の絵巻物の傑作。
倉が空を飛んでいる絵や、空を駆ける剣鎧護法童子の絵などは
見たことのある人も多いはずである。
描写が写実的で当時の暮らしの様子などが窺われ、
平家の南都焼き討ちで消失する以前の東大寺の様子などを知ることのできる
貴重な資料でもある。国宝、作者は不詳。
「飛倉の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の三部からなり、私の好きなのは「飛倉の巻」。
托鉢の鉢で長者の倉を浮遊させ信貴山まで持ってきてしまうという、
なにやら平安時代のSFのような絵がとても面白い。
剣鎧護法童子の絵も良い。
今回泊まったのはその信貴山にあるホテルなのだが、
ま、ホテルとしてはこんなものだろうなという感じ(^^;
娘が温泉に泊まりたいと言っていたので、「奈良」「温泉」で探したのだが、
奈良の温泉というと十津川とか、だいぶ南の方に行ってしまうのである。
奈良の中心部を今回は見て歩きたかったので、そちらに近い温泉がこの信貴山の温泉だった。
信貴山のホテルなのだから、なにか信貴山縁起絵巻に関係あるものがあるかなと思ったら、
部屋の掛け軸がそれらしい絵だっただけで、他には何もなかった。
ビジネスマンの視点から言わせてもらえば、
中世日本の芸術の傑作であり、平安時代のSFとも言うべき異色の絵巻物、せっかくそういう
観光資源があるのだから、それをもっと利用するべきだと思うが、そういう努力が見られない。
それはそれとして信貴山縁起絵巻である。
探してみたら、ちょうどいい案内があった↓
http://www.town.heguri.nara.jp/manabu/bunkazai/bunkazai04_1.html
ああこう書くより、絵を見てもらった方が良い。
かなり長大な絵巻で見応えがある。
普段は奈良国立博物館にあるが、一年に一度、信貴山に里帰りするらしい。
奈良には見るに値するものが沢山ある。

Date: 2010/11/13(土)


東大寺
奈良国立博物館を出て右に行けば東大寺の参道に出る。
参道の右側は広い芝生の公園になっていて鹿が遊んでおり、その向こうには若草山が見える。
平城京の時代には春になるとあの山で若菜摘みをしたのであろう、有名な歌がある。

  春日野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり吾もこもれり

なにかこう、京都とも違う広やかな気分が奈良にはある。
なにが違うのかなと考えてみたら、ひとつには広さである。
東大寺、春日大社、奈良公園、興福寺、このあたり一帯は平坦な土地を実に贅沢に使っている。
奈良時代、日本の人口はまだ少なかったはずで、土地をふんだんに使えたのであろう。
京都も平安京造営と同時に作られた東寺などは広い敷地だが、
あとから作られた他の寺院はだんだん狭くなってくる。
人口が増え都市化が進むのだから当然と言えば当然のことなのだが、
この辺の違いが奈良と京都の雰囲気の違いにつながっている気がする。
さて、昼食時なのだが、お店は皆混んでいるし、メニューを見ると、
いかにも観光客相手の食事処という感じでろくなものがない。
先月、河野裕子さんを偲ぶ会で京都に行ったとき、学生時代に関西にいたという人に
「奈良に美味しいものはありますか?」と聞いたら、
柿の葉寿司を食べてみてくださいと言っていたのを思い出した。
参道の土産物屋でその柿の葉寿司を売っていたので、それを買って公園の芝生の上で食べた。
いわゆる関西の押し寿司だが、ひとつひとつ柿の葉で包まれている。
柿の葉には殺菌効果があるので、作って二日くらいは食べられるという。
翌日も他のところで柿の葉寿司を食べたのだが、今回の奈良旅行で一番美味しかったのは、
この東大寺の参道の土産物屋で買った柿の葉寿司だった。
なかなか旨くて満足したのだが、鹿が近寄ってきて柿の葉寿司の包みの紙や柿の葉をとって
食べようとするのには閉口した。
参道を行くと南大門がある。
ここの阿吽の像は立派である。
「うん、運慶だな...」と思って見ていてふと気が付いた。
運慶は鎌倉時代の人間であって奈良時代の人間ではない。
すると、運慶じゃない?
奈良時代からこういうのがあったんだ...なにやら鎌倉風な...。
そんなふうに思って帰ってから調べてみたら、東大寺はその後の兵火で何度か燃え、
南大門は鎌倉時代、大仏殿は江戸時代に再建されたものだった。
南大門の阿吽の像はやはり運慶だった。
門をくぐり大仏殿に入って、あれっ?と思った。
大仏って、もうすこし大きくなかったっけ?
中学の修学旅行で見たときはもっと大きく感じた。
15mくらいの高さがあるのだが、
中学生のときは体が小さいから今よりも大きく見えたということか...。
思ったほど大きくない大仏の造営だけだと、近頃言われているような
「奈良時代の国家的プロジェクト」というにはスケール上の疑問があるが、
大仏と同時にこの東大寺を作ったわけである。
七重の塔は高さが100mあったというし、
江戸時代に再建した大仏殿は最初の三分の二の大きさだという。
それらの伽藍すべてを完成させるのは大事業だったはずで、
確かに国家的プロジェクトだったのかもしれない。
しかし、この国家的プロジェクトはなにをもたらしたのであろう?
国の財政の悪化、それに伴う増税、そして反乱。
さらに、大仏造営に使われた大量の水銀は平城京に環境汚染をもたらしたのかもしれず、
当時の文書には都で起きた奇妙な病気の記録が残っている。
あるいは水銀中毒かもしれない。
聖武天皇の理想は後世に世界遺産は残したかもしれないが、
当時の人々に多くの苦しみをもたらし、
平城京が短期間で捨てられる遠因を作ったのかもしれない。
東大寺を出て、今日の宿泊の信貴山に向かう。
途中、朱雀門前という信号があり何気なく右の方を見ると、鮮やかな朱雀門があった。
そうだった。
遷都1300年ということで平城宮の跡地に大極殿と朱雀門が復元されている。
ちょうどその会場の前の信号で停まっていたのだ。
娘に入るかと聞くと、「復元でしょ、ここから見えるから入らなくていいよ」と言う。
なるほど、そういう考え方もあるか...(^^;
青空の下の朱雀門は鮮やかだった。
途中、薬師寺に立ち寄り、信貴山に向かった。
Date: 2010/11/09(火)


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