*--Diary--*


魚沼 温泉  2010/05/01(土)
魚沼 コシヒカリ  2010/04/30(金)
魚沼 へぎそば  2010/04/29(木)
魚沼  2010/04/29(木)
デジカメ写真の復元  2010/04/27(火)
ウッドデッキパーティー  2010/04/26(月)
たけのこ  2010/04/23(金)
噴火  2010/04/19(月)
入学式  2010/04/16(金)
井上ひさし  2010/04/12(月)


魚沼 温泉
魚沼には温泉が沢山ある。
湯沢、六日町、浦佐、五十沢、湯之谷、大湯、守門、銀山平。他にも沢山あるはず。
学生時代から魚沼に通っているわけだが、
実は魚沼の温泉に泊まったことは数えるくらいしかない。
大抵、山の中でテント張っているか、麓のキャンプ場、あるいは山から降りてきて
無人駅の待合室で宴会やっていたりとか(^^;
ちゃんとした宿に泊まったのは、
友人とスキーに行って泊まったのが何回か、
あとは子供がまだ幼いときに六日町温泉に泊まったのと、
巻機に登りに行ったとき天気が悪く、麓の清水の集落の民宿に泊まったぐらい。
というわけで、どこの旅館の風呂がいいとかいうことは全然知らないのである。
魚沼には昔からの共同湯や銭湯、それと幾つかの日帰り温泉があって、
専ら、そういう温泉に入っていた。
越後湯沢の駅前には共同湯の江神温泉があったし、
六日町の駅の近くにもやはり古い共同湯がある。
山から降りてくるとそういう温泉で汗を流し、酒を飲んで帰っていたわけだが、
その中で一番好きなのは五十沢温泉(いかざわと読む)の旧館である。
 → http://www2b.biglobe.ne.jp/~kondo/onsen/chuetsu/c8/c8-10b.htm
一言で言ってしまえば、田んぼの中の共同湯。
村の人達が野良仕事のあとで汗を流しにくる、まさにそういう共同湯である。
建物はかなり古い、というかぼろい(^^;;
しかし、風呂はいい。
なんせ古い共同湯なので循環施設などあるはずもなく、当然、源泉かけ流しである。
硫黄の匂いがして、窓を開けると、田んぼの向こうに残雪の山々が見え、
とても気分が良かった。
ただし熱い。半端でなく熱い(^^;;;
源泉が熱いのだから仕方ないのだが、入るときは水を入れて少し冷まして入るか、
あるいはひたすら耐える。
子供達と五十沢のキャンプ場に行っていた頃はこの五十沢の温泉か、
あるいは六日町、塩沢の温泉に入った。
下の子にアトピーがあったのだが、
この辺の温泉に数日通っていると綺麗に消えた。
家に戻ってきてしばらくするとまた出てきていたが、
なにがしかの効能はあるのであろう。
春になると、またあの五十沢の田んぼの中の温泉に入りたくなるのである。
熱いのを我慢しながら、残雪の山々を眺めたくなるのだ。
Date: 2010/05/01(土)


魚沼 コシヒカリ
魚沼について書いているが、
実は、魚沼との係わりは自分でも気がつかない少年時代からあったらしい。
父方の先祖が長岡の出で、しばらく前まで墓も長岡にあった。
そういうわけで新潟との係わりがあったゆえかは知らないが、
我が家では魚沼の米屋から米を取り寄せていた。
いつ頃からそうしていたのかは知らないが、
割りと美味しい米は食っていたらしい。
別に家が金持ちであったわけではなく、贅沢をしていたわけでもない。
子供心にもむしろ質素な暮らしをしていた。
米だけは美味しいものを、ということだったのであろう。
子供達と五十沢のキャンプ場でキャンプするときは、
たまに塩沢の回転寿司に行った。
ここが結構美味しかったのである。
看板にコシヒカリと出ていたが、確かにシャリが旨く日本海のネタも良かった。
ある年行ったとき、味が落ちたことに気付いた。
シャリを変えたのがすぐに分かったが、
看板は相変わらず「コシヒカリ」と出ていたので、
たぶん、コシヒカリを使っていることには変わりないのであろう。
一口にコシヒカリと言ってもいろいろあるわけで、
「魚沼産コシヒカリ」として売っているものと、
「新潟産コシヒカリ」として売っているものはまるで違うのである。
先日、今年から下宿するようになった息子が「米を送ってくれ」と言ってきた。
そういう話をアーチェリーの射場でしたところ、
仲間のS氏曰く、
「子供のときからいい米を食べるのは不幸だよ。よそでなに食っても不味く思ってしまう」
うーん...。
そういうものか?(^^;
確かに私も、中学や高校の修学旅行で旅館の御飯を食べたとき、
違和感を抱いたことは覚えている。
しかし、よそでいろいろ食べているうちに、気にもせずに食べるようになり、
別に不幸だと思ったことはないのだが...(^^;;
美味しいものを知ることは幸せか不幸せか。
なにやら哲学的な問題のような、そうでもないような。
S氏が、その米屋を教えろというのでHPを教えた。
→ http://www.morocho.co.jp/
さて、美味しい米を食ってS氏は幸せになるのだろうか不幸せになるのだろうか。
ちなみに不幸せになっても責任はとらないのである(^^;;;
Date: 2010/04/30(金)


魚沼 へぎそば
雨で蓬峠には行けなかったので、
相棒を土樽の駅に送って、越後湯沢の温泉に行く。
とりあえず「駒子の湯」。
川端康成の「雪国」に出てくる駒子から名を取ったらしい。
越後湯沢には駅の中に近代的なスパがあるのだが、入る気になれず入ったこともない。
駅前に「江神温泉」という銭湯があり、
電車で魚沼に通っていた頃はもっぱらここを利用していた。
掘れば温泉が出るというところなので、銭湯と言っても立派に温泉である。
戦前からある風呂で雰囲気は決して悪くないのだが、ただ、ここは熱いのだ。やたら熱い。
それと銭湯なので露天風呂などはなく、壁に囲まれてやや閉塞感がある。
駒子の湯は露天風呂はないのだが、
壁の一面がガラス張りで外の景色が見え、閉塞感がない。
町の甍に雨が降っている。
越後湯沢の温泉街はちょっと寂れた感じがある。
ビジネスマンの視点から言わせてもらえば、
商店街がひとつの店だけ頑張っても無理があるように、
温泉街は温泉街全体で頑張らなければいけないのだ。
温泉街に客を歩かせる。
そういう戦略がなければ成功しない。
成功している例をあげれば城崎温泉である。
楽に歩ける範囲に外湯を幾つか作り温泉街を歩かせる。
歩く客は途中の店にも立ち寄る。立ち寄れば金を使う。
越後湯沢の温泉街も駒子の湯を含め幾つかを外湯と言って宣伝しているが、
それらはつなげて歩ける範囲にあるわけではない。
それと街全体での雰囲気作り。
これがこれからの観光には結構大事な要素であるはずだが、
それが分かっているのかどうか...。
若い頃歩きまわり愛してやまない魚沼だから気にかかるのである。
風呂を出てからへぎそばを食いにゆく。
へぎそば。
この地方独特の蕎麦。つなぎに海草の布海苔を使う蕎麦である。
つなぎに海草を使うだけあって、食べたときの食感はコシコシしていて喉越しがいい。
なんというか、つるりといく。すっきりとした食感がある。
それが、へぎそばである。
東京にも「へぎそば」の店があるがどうもいまいちである。
横浜歌会の忘年会をしている店がそういう「へぎそば」の店なのだが、
どうも、これがいまいち美味しくない。
予約していくと、何時間前に揚げたの?と聞きたくなるような冷えた天麩羅を食べさせられる
店なので、正直言って気にいっていないのだ。
我が師匠の岡部史さんがせっかく予約してくれるところだというのに、
あの冷えた天麩羅は許せん(^^;
それはそれとして、とりあえず、へぎそばである。
越後湯沢の駅の東口、駅を出て左の方にある中野屋に行く。
ここのへぎそばは美味しい。
以前、越後湯沢の駅前にも気の利いた感じのへぎそばの店があったのだが、
そこはうまくなかった。数年前にその店はなくなっていた。
あの辺り蕎麦屋は多いのだが、結構、当たり外れはある。
早めの昼食を終えて外に出るとまだ12時。
土産の笹だんごと四合4,078円の八海山を買い、
駅の隣の寺泊直送の海産物の店に行って刺身の貝とハタハタを買って帰る。
今夜の酒と肴である(^^
Date: 2010/04/29(木)


魚沼
早朝発で魚沼に行ってきた。
山岳会の仲間と久しぶりに山に行こうということで、
相棒は1日まで休めるので、蓬峠から清水峠、朝日を越えて券機、2泊3日のコース。
私は30日は仕事を休めないので日帰りで蓬峠まで一緒に行き、
そこから土樽に引き返すコース。
ま、蓬峠だけでは残雪のハイキングみたいな山歩きだが、
日帰りでしか行けないのだから仕方ない。
気象情報を見ていて不安だった。
29日の越後湯沢地方、午前中の降水確率90%(^^;
しかしまあ、相棒はもう私の車で行くつもりでいるし、
そもそも山の天気は現地に行ってみないと分からないというところがある。
行くと言ったんだから行けばいい、行って雨なら温泉入って笹だんご買って帰ってくればいい。
他のところだとそういう気分になれなかったかもしれない。
天気が悪いのが分かっていてわざわざ金をかけて遠くに行く気分になれなかっただろう。
しかし、魚沼は違う。
新潟の魚沼地方。
コシヒカリで有名なところだが、
越後と関東を分ける山脈の山懐で冬は雪に埋もれるところだ。
鈴木牧之が「北越雪譜」に描き、川端康成の「雪国」の舞台である。
若い頃から魚沼を歩いていた。
越後三山、谷川連峰北面の谷、たおやかな券機山、利根源流の山なみ。
年に数回は、魚沼の周辺の山や谷を歩いていた。
残雪の奥利根の山稜を歩き、野中の集落に下山すると、
桃も桜も辛夷もなにもかもが光るように咲いていた。
それはまるで桃源郷のように見えた。
都会では梅が咲き辛夷が咲き桜が咲く。春はゆっくり順番にやってくる。
雪国は違う。
雪国の春は一度にやってくる。
長い冬を越えて、ある日、それまで耐えていたなにかが終わったように、
梅も桃も桜も辛夷もなにもかも一度に咲くのだ。
子供ができてからは毎年ゴールデンウィークの時期、五十沢のキャンプ場で子供達と過ごした。
子供達と残雪の八海山や平標に登り、温泉で汗を流した。
裏券機の残雪を眺めながらキャンプ場で子供達とバーベキューをした。
そういう魚沼である。
だから、登れなくてもいいのだ。
この時期、魚沼に行ってみたいのだ。
結局、関越トンネルを越えて新潟に入ると雨だった。
蓬峠への林道に少し入ってみるが雨が結構降っている。
日帰りの予定なのでこの天気ではもう登れない。
とりあえず今日は土樽の駅(無人)で天気の様子を見るという相棒を駅に送り、
湯沢の駒子の湯に向かう。
温泉に入って笹だんご買って帰るしかない。
山はガスっていて見えないが、下の方はここ数年と比べれば残雪が多いようだ。
雪国はちょうどこの時期、桜が満開である。

   まんさくの群れ咲く尾根に登りきて振り向き見れば魚沼平野
Date: 2010/04/29(木)


デジカメ写真の復元
娘から電話がかかってきた。
「お父さん、ごめんなさい」
「なんだ?」
「デジカメいじってて、中の写真全部消しちゃった」
「えっ!? 仕事の写真も入ってるんだぞ! えっ、おい、おまえ、わ...、わかった」
「ゴメン」
まったく...(^^;
そんな話を先日のウッドデッキパーティーの場でしていると、
復元できるかもしれないという。
その辺の仕組みはよく分からないのだが、
デジカメの写真を一度消してしまっても、
それは目次を消しただけで、データは残っているという。
消してから別の写真を撮って上書きしたりしていなければ、
復元ソフトを使って復元できるのだそうな。
早速、試してみた。
ネットで検索して、フリーの復元ソフトを探しダウンロード。
それを使ってやってみる。
案外簡単に復元することが出来た。
ところが、SDに確かに写真は入っていて、PCでそれを見ることも出来るのだが、
そのSDをデジカメに入れると、「ファイルがありません」という表示が出て、
写真を見ることが出来ない。
なにか遣り方が違ったのだろう。
PC内に復元した写真は保存したので別に構わないのだが、
出来ると思ったことが出来ないというのは気になるもので、
なんとかデシガメでも写真を見られるようにならないかといろいろやってみた。
結果的に出来たことは出来た。
デジカメでも復元した写真を見ることが出来たのだが、
その手順が面倒で、数枚それをやったらもう面倒くさくなってやめた。
気がついたら夜の1時を回っている。
たぶん、本当はもっと簡単に出来るのだろうが、
マニュアルを読むのが面倒くさい人間なので、ぱっぱとやってしまい。
復元するときの手順になにか問題があったのだろう。
デジカメが普及して写真屋がだいぶつぶれた。
今、町の写真屋でやっていけているのは、
学校のアルバム等の仕事を請けているところぐらいであろう。
ただ、デジカメは便利なのだが、データ消失という怖さがある。
家族の思い出の写真があっという間に消えてしまうということもある。
バックアップしておけばいいのだろうが、
もし、なにかの拍子にデータを消してしまっても、
慌てていじくりまわさないことである。
物理的に壊れていたり上書きされていたりしない限り、
消えた写真を復元できる可能性はあるようだ。
Date: 2010/04/27(火)


ウッドデッキパーティー
先週の土曜は山岳会の仲間の家でウッドデッキパーティーを楽しんだ。
彼も昔はそこそこ登っていたのだが、
怪我などもあり山は登らなくなった。
その後いつ頃からか、山の仲間を呼んで彼の家のウッドデッキでバーベキューをするようになり、
今ではすっかりこの時期の恒例になっている。
都合で来られない者もいたが9人程集まり、昼間から酒を飲み肉を食べて楽しんだ。
当日参加できなかったOBからは、海老・烏賊・しゃこの差し入れがあり、
いずれも新鮮で美味しかった。
若い頃の話、山の話で夕方近くまで盛り上がった。
それにしても皆、酒の量は減ったものだ。
昔は酒が幾らあっても足りなかったが、今は皆、ほどほどに飲んでいる。
途中で彼が部屋から地球儀を持ってきて、
「こいつも一緒でないとな」と言いながらそれをウッドデッキの椅子の上に置いた。
四年前に山で遭難して死んだ仲間が、
彼の結婚式の時、お祝いにくれた地球儀である。
毎年一度そうやって、古い仲間と顔を合わせ、若い頃の山を語り合っている。
Date: 2010/04/26(月)


たけのこ
いつも通っているアーチェリーの射場には竹林があり、この季節、竹の子が採れる。
上手な人は3月のうちから地中の竹の子を見つけてくる。
その時期だと地表からは殆ど見えず、犬並みの嗅覚でもあるのかと思ってしまう。
4月に入ると、そろそろ地表に見えてくる。
地面がなんとなく盛り上がってきたりひびが入っていたりするのを見つけるのであるが、
言うは易くで、これがまた難しい。
中旬あたりからは、竹の子も大きくなってくるので見付けるのは簡単になるのだが、
そのかわり、鶏冠の黄色い美味しいヤツはすぐに採られてしまい、
射場の中での竹の子掘り競争は激化するのである(^^;
中にはアーチェリーそこのけで、ひたすら竹の子を掘っている人もいる(^^;;
竹の子の食べ方も、煮たり焼いたり竹の子御飯にしたりといろいろあるわけだが、
私が一番好きなのはバーベキュー。
一度煮てアクを取ってからスライスしてバーベキューにする。
これだと普段あまり竹の子を食べない子供達も美味しいと言って食べる。
もうしばらくすると孟宗の竹の子は終わり、真竹の竹の子が採れるようになる。
これは孟宗の竹の子と違って、
地表に出ている部分をポキッと折って採るので簡単に採れるのである。
山に行ったとき、真竹や破竹の竹の子を採って焚き火のそばに置いておく。
そのまま放っておけば皮の中で蒸し焼きの状態になるわけで、
頃合を見て食べるとほくほくして美味しい。
以前、射場の真竹を一度採ってきて、アルミホイルで包み、コンロの上で焼いてみたのだが、
あまり美味しくなかった。
たぶん、時間をかけて蒸し焼きにしないとダメなのだ。
自然の恵みを楽しみながら生きてゆく。
そういうことが出来るのは幸せなのだと思う。
Date: 2010/04/23(金)


噴火
西暦535年、地球に異変があった。
中国の史書には「西南の方角から大きな雷声が二度あった」と記されている。
翌年、中国は空前の飢饉に襲われる。
原因は夏に雪が降るというような異常気象がもたらした凶作である。
東ローマ帝国の歴史書も「日光は一年中、輝きを失って月のようだった」と記している。
日本書紀にも536年、次のような記載がある。
「食は天下の本である。黄金が万貫あっても飢えをいやすことは出来ない。真珠が千箱
あってもどうして凍えるものを救えようか」
地球規模の異常気象は空前の飢饉をもたらし、社会を大きく変動させた。
王朝の交替、民族の興亡があり、その後の歴史のひとつの転換点をもたらした。
原因には諸説ある。
巨大隕石の衝突説もあるのだが、有力なのは火山の噴火である。
現代のインドネシアのあたりで巨大な噴火があり、
成層圏にまで達した噴出物が地球を覆い日射を遮り、
「核の冬」をもたらしたという説である。
火山の噴火が気象に影響し人類社会に変動をもたらすというのは、
別に昔々の物語ではない。
フィリピンのピナツボ火山の噴火が日本に凶作をもたらし、
タイ米を緊急輸入する騒ぎがあったのはつい十数年前のことである。
アイスランドでの噴火で多くの旅行者が足止めされている。
旅行業界はゴールデンウィークを目前にして影響をうけるだろうし、
航空会社の経営にも影響するだろう。
あるいは、成層圏にまで達した噴塵が凶作をもたらすかもしれない。
ただでさえ世界の経済が密接につながっている現代、
遠い大西洋の真ん中での火山噴火も決して他人事ではない。
Date: 2010/04/19(月)


入学式
しばらく前のニュース。近頃は大学の入学式に親が出席するらしく、
スペースの関係で何回かに分けて入学式をするのだそうだ。
明治大学では何回かに分けた入学式のひとつに、
4000人の入学者と8000人の親が出席したらしい。
つまり、一人の生徒に二人の親がついてくるので、
入学者の3倍の収容能力が必要になるわけである。
大学の講堂では足らず、金をかけて広い会場を借りるのだそうだ。
ニュースの解説では、少子化で子沢山の時代よりもひとりの子供に親がかけられる時間が
多くなった結果、とかいうことを言っていたが、
そんな理由か?
保護者のために単位の取り方などを説明するガイダンスもあるらしく、
大勢の親が真剣に聞いている映像も流れていた。
入学式に親が出るのは中学まで、そういう時代に育った人間にはかなりの違和感がある。
近頃、大学の入学式ではみなスーツを着ていくらしい。
昔は私服だった。
私もジーパン穿いて入学式に出た。周囲もみな似たようなものだった。
入学式でスーツを着ていく理由は、
「社会に出るのだからスーツを着るのは当たり前」ということらしい。
大学に入って社会に出たつもりなのだろうか?
あるいはもう大人になったつもりなのだろうか?
いつ頃からだろうか、青春という言葉は恥ずかしいと言われるようになった。
青春などと言っていると青臭い子供のように思われ、青春は否定されるようになった。
花はいきなり咲くのではない。
芽を出し茎を伸ばし蕾をつけ、その蕾をさらにふくらませてようやく咲くのである。
人はいきなり大人になるのではない。
子供から大人になるにはしかるべき段階がある。
青春というのはそういう段階のひとつであり、
それを否定して人は大人になれるのだろうか?
青春はみっともないのだ。
実際、大人になって振り返ったとき、青春は恥多い時代である。
大人になろうとジタバタする時代。
それが青春であり、ジタバタしているのだからみっともないのは当たり前だ。
しかし、そういう時代を経ずに人は大人になれるのだろうか?
いつの時代でも子供じみた大人はいるわけだが、
大人になれない大人が増えてきた時期と青春が否定されるようになった時期は、
どうも重なるような気がする。
形だけ整えれば大人になるわけではあるまい。
子供が大人への階段を登ろうとするとき、親がいつまでも子供のそばにいていいのだろうか?
入学式でスーツを着込み両親と記念写真をとっている家族の姿に、
私は危ういものを感じるのである。
Date: 2010/04/16(金)


井上ひさし
井上ひさしが死んだ。
優れた小説家であり劇作家だった。
「吉里吉里人」が有名だが、他にもいい作品が沢山ある。
私が印象に残っているのは「不忠臣蔵」。
あれはたぶん初版の頃だったのだろう、若い頃、旅の途中に駅の売店で買った文庫版。
電車の中や夜寝る前などに読み耽った。
赤穂浪士の討ち入りに加わらなかった十数人について、
ひとりひとりを名人の語る古典落語を思わせるような粋な文章で描いていて、
言葉の力でしっかり組み立てられているという印象の作品である。
しかも、歴史や民俗への考察、豊かな語彙ともあいまって、
なるほど、こういう文章を書くには相当な時間がいるはずで、
井上ひさしが遅筆なのも当然とうなずけた。
明治の文豪で文章の上手といえば夏目漱石だろうが、
戦後の物書きで文章の上手はと聞かれれば、私は井上ひさしをあげる。
彼は東北の出身だが、それゆえか言葉に異様な執着があった。
それが幾つかの作品の背景にあるわけで、
テレビが日本全国に標準語を広めた現代では、
もう彼のように言葉に執着する作家は出ないのかもしれない。
私生活ではDVなどいろいろあったようだが、
戦後の文学界の異才だった。
私の中では、井上ひさしは出っ歯と丸眼鏡のさえないオジサンのままだったのだが、
もう75歳になっていたのか。
冥福を祈る。
Date: 2010/04/12(月)


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