*--Diary--*


無料相談  2010/01/29(金)
湘南歌会  2010/01/26(火)
携帯メール  2010/01/20(水)
雪山  2010/01/14(木)
相対評価と絶対評価  2010/01/13(水)
射会  2010/01/12(火)
東京平日歌会  2010/01/08(金)
湯島天神その2  2010/01/07(木)
湯島天神  2010/01/06(水)
批評を聞き分ける  2010/01/05(火)


無料相談
税理士は税理士法により税務支援の義務を負っている。
委嘱者の経済的理由により無償または著しく低い対価により云々
という規定が税理士法にあり、
早い話、年金しか収入のない高齢者とか、収入の少ない給与所得者の医療費控除とか、
申告をしなければならないが、税理士に報酬を払うだけの余裕はないという人達のために、
確定申告の時期に2日ほど動員されて、無料相談の会場でそういう人達の申告の手伝いを
するわけである。
ボランティアをすることにやぶさかではないのだが、
ただでさえ忙しい確定申告の時期に動員されるのはやはり厳しい。
他の士業ではこういう支援義務というのは負っているのであろうか?
弁護士も無料法律相談というのをやるが、
弁護士会の会員の殆どを忙しい時期に集中的に動員してという話は聞かない。
医師も税理士と同じ無償独占の士業だが、
インフルエンザの季節に会員を動員して無料予防接種会をするというのは聞かない。
どうもこの税務支援の義務というのはおかしい気がしてならぬ。
昔、税理士という資格を作る時に、税務署が忙しい時に税理士に手伝わせようという、
その程度の感覚で作られた義務のような気がする。
役人に法律を作らせるからこういうことになるのであろう(^^;
なにはともあれ、税務支援で引っ張り出される二日間が、一昨日と昨日で終わった。
以前と比べれば無料相談もかなりマシになったかな〜。
以前は相談会場に来る人数もかなり多かった。会場が文字通り、人で溢れていた。
医療費控除が5万円以上から控除できたので、
給与所得者の少額の還付申告が多かったである。
それと、わけの分からないヤツが減った(^^;;
昔は、資料もなにももってこないで、それで申告書作れみたいなことを言うヤツが
大抵ひとりかふたりはいたのだが、最近そういうのはいない。
ただ、これは仕方ないことなのだが、
知らないがゆえに困らせてくれる相談者は相変わらずいる。
昨日も、30分かかってようやく申告書を完成させた御老人に、
「じゃ、あちらで申告書の受付していますから提出してください」と言ったら、
その御老人、おもむろにこう言った。
「お聞きしたいことがひとつあるんですが、いいでしょうか?」
「なんでしょう」
「昨年、妻をなくしまして、相続で私のものになった妻の土地を売ったのですが・・・」
「え!? 土地を売った! 」
「はい、売りました」
最初にそれを言ってよ...。分離課税だよ、計算違うじゃん。
耳の遠い御老人に大きな声で説明しながら30分かけて申告書作ったのはなんだったわけ?
御老人曰く。
「年金は年金で申告をして、土地は土地で申告すればいいんですよね?」
だから、そういう素人判断をするなってば(^^;;;
話すべきことは小出しにしないで、最初に全部話す。
税務相談にしろ法律相談にしろ、あとから「実は...」と言われても困るのである(^^
Date: 2010/01/29(金)


湘南歌会
日曜の湘南歌会は結社の選者派遣制度で選者の真中朋久さんが参加された。
結社の中心が京都なので、どうしても地方の歌会の人は選者の評などを聞く機会が
少ないということで、地方の支部歌会に一年に一度は選者が顔を出そうという取り組み。
20人くらいの出席で和気藹々と歌会を楽しみ、夜は懇親会。
選者の評だけでなく、選歌のときの苦労話なども聞けて有意義な一日だった。
さて、それはそれとして、湘南歌会の現在の会場が三月一杯で使えなくなるらしい。
一番最初に歌会を開いた市民会館を再び使うか、
あるいはもっと駅に近いところでいいところはないか、急いで探さねばならない。

湘南歌会を立ち上げるとき、吾が師匠の岡部史さんから、
「リーダーシップをとる人がいないとうまくいかない」と言われていたのだが、
正直言うと、
「仕事じゃないんだから、やりたいと言う人に任せておけば大丈夫だろう」と
たかをくくっていたのである。
それが認識不足だったことはすぐに分かった。
人と人との関係は信頼を前提とするべきものである。
しかし、組織やシステムを構築するときは違う。
組織なりシステムなりを構築するとき、
人間に対する信頼を前提にすれば失敗する。
健全なシステムは人間不信の上に成立する。
三権分立、監査制度、安全システムの二重構造、すべてそうである。
人は必ず失敗をする。時には暴走する。
人間への信頼を前提にシステムを構築すれば、
そういうとき、その組織あるいはシステムは危機に瀕する。
運営もしかりである。
人は信頼すべきだが、信頼をすべての前提にすることは危険であるということも、
ビジネスマンであれば当然分かっていなければならないことである。
実は今回の会場の問題は、
そういうことが分かっていながら、
「歌会だろう、仕事じゃないんだから」と
短歌の世界で性善説を信じてしまった私の失敗が遠因である。
問題に気付きつつ事の流れの中で任せた。
短歌という趣味の世界に仕事の場で見せるような姿勢を持ち込むことを躊躇った。
歌会立ち上げ時、自分がビジネスマンの感覚でリーダーシップをとっていれば、
その後の行き違いも起きなくてすんだのかもしれない。
そう思うと忸怩たるものがある。
Date: 2010/01/26(火)


携帯メール
夜、事務所でひとりで仕事をしていたら携帯にメールが入った。
「研修会つまらなかった。帰って正解」
「法定調書終わらないよ〜」
「法定調書あと何件?」
「あと○○件、決算は?」
「うちは○件、仕事頑張って」
しばし携帯で会話。
中学生や高校生が盛んに携帯でメールしているが、
彼等にとって大切なのは手軽とかどうとかいうことではなく、
人とつながっている、という安心感なのだろう。
確かに忙しい仕事の合間、つかのま知り合いと他愛ない会話をメールでしてみると、
彼らの「安心感」というヤツがほんの少し分かったような気がした。
しかし、「つながっている安心感」の根底にあるのは「寂しさ」であるような気もする。
時代そのものが個々の人間にとっては寂しい時代なのだろう。
格差社会は寂しい社会だ。
自分も周囲もいずれ勝者と敗者に分かれてゆく社会。
そういう社会に出ていくことを運命づけられた子供達が「つながっている安心感」を
求めるのも当然かもしれない。
つかのまの他愛ないメールの会話でそんなことを思った。
Date: 2010/01/20(水)


雪山
先日の雪で丹沢が白くなっている。
去年は雪が少なく殆ど白くならなかった。
家から見える丹沢の山々も雪のない時期は遠景のひとつでしかないが、
雪を纏うと見違えるように存在感を増す。
雪はひとつひとつの山襞をくきやかに浮かび上がらせ、
山という風景を鮮やかなものにする。
若い頃、今よりもはるかに多くの時間を山の中で過ごした。
雪山を見るとき、そこに青春の風景を重ねないではいられないのである。
よく晴れた日の雪山。
雪の斜面を一歩一歩おのれの身を高みに持ち上げてゆく。
その行為の末にあるのは、
あるときはたおやかな雪の稜線であり、
あるときは厳しい雪壁であり、
そしてあるときは孤独な頂だった。
もうかってのような登高をすることは出来ない。
山々は年々遠くなっていくような気がする。
しかし今でも、なにかに疲れたとき、
良く晴れた美しい雪山を眺めていると、
もう一度頑張ってみようという気になれる。

      駅前の楡の木陰に人を待つ雪の山襞くきやかに見え
          



Date: 2010/01/14(木)


相対評価と絶対評価
歌会のあとで和やかに飲んでいたら、
ある人に唐突に詰問された。
「なんで今日、講評をしたんですか? 講評というのは選者とかそういう人のすることですよ」
「は?」
言っていることが分からなかったのだが、
つまりその日の歌会で私が全部の詠草について講評をしていたと仰る。
「講評」という日本語は
「指導的立場にある人が理由を述べながら批評すること」という意味である。
歌会などにおいては、選者なり歌会の中心的な人が出席者の一通りの批評のあとで
指導的に評すること、というような意味だろうか。
講評をした覚えはないし、全部の詠草について発言した事実もないので聞いてみると、
その日の歌会で、私が選歌した歌について批評したとき
「今日の詠草は、正月の生活を詠ったものが多いですけど、読んで、ふーんという感じで
終わってしまう歌が多い気がします。作者の姿が見えてこない。それに対してこの歌には
作者の姿が感じられたので選びました」
と評したことを「講評」と言っているのであった。
歌会においてひとつの歌を批評するとき、他の歌との違いを述べることで評価点を明らか
にするのは一般的におこなわれていることで、
フツーの日本語ではそれを「講評」とは言わない。
そのあとその人と話をして分かったのは、
その人は歌会で私の選歌が少ないことに以前から疑問を持っていたということである。
その疑問が唐突な詰問につながったらしい。
その歌会では選歌をおこなっている。
出席者の出した無記名の詠草から良い歌と思ったものを3首ぐらい選ぶのだが、
私は3首選べと言われても、2首あるいは1首しか選ばないときがある。
というか、大抵そうである(^^;
評価には相対評価と絶対評価がある。
私は歌会での相対評価になじめないのである。
相対評価というのは、ひとつの集合のなかで相対的に評価することを言う。
例えば、入学試験で基準点は設けず上位10%の得点者を合格させるというのは相対評価。
一方、資格試験などで基準点を設け、その基準点に達した者は合格、達しない者は不合格、
それが絶対評価である。
運転免許の学科試験は絶対評価だし、学校での通信簿の付け方は以前は相対評価だった。
歌会の詠草を互いに比較して、これとこれを比べればこの歌の方がいい、そういう評価の仕方に
私はなじめないし、そういう評価をして意味があるのかという疑問も持っている。
一首の歌として鑑賞に耐えるだけのものを持っていること。
それが私の中での選歌の基準点であり、そうすると絶対評価にならざるを得ないのである。
だから選歌の数が少なくなってしまうのである。
その人はそれを問題視していたのであるが、
私が「私は相対評価になじめない、絶対評価をしているので選歌が少なくなってしまうんです」
と答えると、こう仰った。
「絶対ということを言えるのは選者だけです」
「は?」
ここで再び言っていることが分からなくなってしまったのだが、そのあとの話からすると、
その人は「絶対評価」の「絶対」を神がかり的な「絶対」と受け止めたらしい。
相対評価・絶対評価というのは社会のあちこちで当たり前におこなわれているものであり、
日本語としてもフツーの日本語である。
それを独自に新しい意味を持たせて発言されても困るとしか言いようがない(^^;;
第一、選者は絶対だみたいな言い方をすれば選者の方が驚くだろう。
本来、短歌のような文芸はそういう権威志向とはもっとも離れたところにあるはずのものだ。
私の選歌が少ないことに疑問をお持ちならば、堂々とそれを言って頂ければいいと思う。
そうではなく、意味のよく通らないことを言われても私は困惑するしかないのである。
「そのような話をされるような歌会には私は出たくない。」
という私の返答にその人はだいぶ不快を覚えたようであるが、
自分の言動に対する返答に不快を覚える前に、
自分がなにを言っていたのか考えて頂きたい。
歌会に出る者は皆、いい歌会をしたいと思って集まっている。
どうせ話をするならもっと内容のある話をしましょうよ。
少なくとも話がかみ合わないと疲れる。
ま、とかくこの世が住みにくいものだという事も知っているけどさ(^^;;;

Date: 2010/01/13(水)


射会
通っているアーチェリーの射場では毎月、射会を開いている。
大抵第一日曜なので歌会とぶつかってしまいあまり参加できないのだが、
先日は第二日曜だったので久し振りに参加できた。
成績の方は残念ながら不本意。
以前、チェックの項目が増えて130前後の点を続けて出したのだが、
同じようにチェックをしているつもりなのだが、点が落ち込んでしまった。
エイミングとリリースに課題は感じている。
当日は22人の参加だったが、正月疲れか正月ボケか、他の人達も全体的に点が低かった。
ちなみに先週148点という全日クラスの点を出し、喜び勇んでメールしてきたS氏は、
一週間たったら普通の人に戻っていた(^^;
これがアーチェリーの面白いところではある。
なにか体のリズムとか、そういうものもあるのかなあ...?
リズムといえば射会で一緒に回ったA氏とN氏。
A氏が打っているそばでN氏が言うわけである。
「いいねぇ!いいよ、フォームがほんとに良くなったよ! よっしゃあ!ナイスショット!」
・・・(3点だけど...)
「うん、うん、いいフォームだ! よっし、今のはゴールドに入ったろう!」
・ ・・(2点だけど...)
ま、傍らでフォームが良くなったことを褒めているのだが、
Aさんリズム乱されているよなと思いつつ聞いていたのである(^^;;
Date: 2010/01/12(火)


東京平日歌会
6日の東京平日歌会、今年最初の歌会だった。
東京平日歌会では選歌はおこなわず、詠草を出席者が二人一組で順番に批評し、
そのあと自由討論という形でやっている。
順番が回ってきた歌で、どうもなにかひっかかるところがあるのだが、
それをうまく批評として言語化できない歌があった。
どうも気になる、しかし、言葉でうまく説明できないというやつ。
誌面にまだ発表されていない歌なので、ここに出すわけにいかないのだが、
ビル陰に錆朱色のバラが師走の空に祈るように咲いている、という歌意の歌である。
問題点は幾つかあると思う。
「ビル陰」「錆朱色」「薔薇」「師走」「空」「祈り」。
ちょっと要素が多い気はするが、
私はそれ以上に初句の「ビル陰に」がひっかかったのである。
なにかひっかかるのだが、そのときはそれを説明できなかった。
歌会では、要素の多さと、下句の、師走の空に祈るようにというのが、
祈るというのは俯いている感じで違和感があるというコメントもあったが、
初句については問題は指摘されなかった。むしろ必要という話。
下句については私は違和感は感じなかった。
仏教徒やキリスト教徒のようにうなだれて祈るだけが祈る姿ではない。
人は悲しみを湛えながら空をふり仰いで祈ることもあるはずであり、
葉も少なく咲き残っている冬の薔薇、−私は茎にひとつだけ残っている冬薔薇を
思い浮かべたのだが−それはあるいは空を仰いで祈る姿に見えるかもしれない。
で、私がひっかかった初句である。
歌会では指摘されなかったが、やはり気になる。
まず、初句で場を設定する詠い方。
これ自体、気をつけないと失敗することが多い。
陥りやすいのは、どこそこで○○が○○して・・・みたいな感じで、
歌が状況の説明になりやすいということ。
あともうひとつ、
初句で場を設定するというのは、読者に情景を強制するようなところがある気がする。
一首を読んで読者は歌の情景を思い浮かべるわけだが、
この情景の立ち上げは自然かつスムーズであるのが良い。
歌を読んで自然にその歌の情景が立ち上がってくる歌は情景の立ち上げ力があるわけである。
初句で場を設定すると、読者に情景を指定する、強いる、どうもそういう感じがある。
さあ、こういう場面を思い浮かべてください・・・そうやって歌が始まるような...。
本来、読者はそういうふうに情景を思い浮かべるのではない。
歌の情景は歌の力で自然に立ち上がらなければならないのである。
初句での場の設定はそういう問題があるから、気をつけて一首を組み立てないと
歌が立ち上がらない気がするわけである。
で、「ビル陰に・・・」の歌だが、
やはり、どこそこで○○が○○している、という説明パターンにすっぽりはまっている。
一首としては綺麗にまとまっているのだが、パターンにはまってしまっていて歌が弱い。
手法としてパターンを使ったとしても、読者を引きつけるだけのものがあれば歌は立ち上がって
くるわけだが、この歌にはそれがない。つまり歌が弱いのである。
そしてもうひとつ...。
結局、初句の「ビル陰に」がそもそもいらないのではないだろうか?
歌会では「ビル陰に」は必要という意見が主だったようだが、どうもこれがいらない気がする。
ビルの陰で、都会の隅で、ひっそりと祈っている、あるいはひっそりと生きている。
人間性を反都会という形で表現しようという、1960年代あるいは70年代あたりの感覚。
そういう表現指向の古さをこの歌は感じさせてしまう。
初句の「ビル陰に」がこの歌をそういう歌にしてしまっているわけで、
なにもビル陰でなくてもいいわけである。
冬の薔薇が空を仰いで祈るように見える。
その情景だけを表現すれば、
そこから立ちのぼってくるものを読者は感じとることが出来るのではないか?

歌会の短い時間ではこういうことをなかなか言語化できないわけである。
なにか違う...なにかひっかかる・・・、そう思いつつそれを批評として言葉にすることが
出来ないもどかしさ。
おのれの力不足を思うのみである。
Date: 2010/01/08(金)


湯島天神その2
さて昼飯である。
神田の辺りだと、「明神下神田川」という有名な鰻屋があるが、
今日あたりは初詣から流れてくる客の予約で一杯だろうし、
そもそもひとりで昼飯を食うような場所ではない。
とりあえず「神田藪」に行ってみる。
蕎麦屋の大きな暖簾である藪蕎麦。
江戸時代、武士でありながら蕎麦打ちが好きで、とうとう家は養子に継がせ、
自分は武士の身分を捨てて蕎麦屋になったというかなりの変り種が初代である。
その後本流は相場に失敗して途絶え、
明治以降は神田藪が藪蕎麦の総本店という立場にあるらしい。
浅草の並木藪、上野の池之端藪とこの神田藪で藪蕎麦御三家というのだそうだ。
さすがに老舗で店の雰囲気はいい。
神田の一等地にありながら、空襲に焼け残った古い店のままで営業している。
昌平橋を渡り少し行ったところで左に入る。
角を曲がったところで、あ、ダメだ並んでるなと思った。
店の前に黒塗りの車が三台ほど停まっている。
行ってみると案の定、行列である。10人以上並んでいる。
雰囲気のある老舗なので昔からのファンが食べに来るわけである。
黒塗りの車で蕎麦を食いに来るなよと言いたくなるが仕方ない。
店の前を素通りして靖国通りの方に行く。
そこに「神田まつや」がある。
ここもなかなか旨い。
行ってみると2人並んでいた。
迷った。
どうせ食うなら旨いものを食いたいとは思う。されど行列してまで食いたいとも思わない。
しばし迷って並ぶ。
.....。
やめた(^^;
行列してまで飯を食おうなどというのは美学にもとる(^^;;
結局、一分も並ばずに靖国通りを歩き出す。
しばらく歩いて、そうだ「あさだ」に行こうと思った。
以前、浅草でうなぎを食いっぱぐれてそのまま浅草橋へ歩いたときに見つけた蕎麦屋。
割と美味しかった
靖国通りから秋葉原、そこから電車に乗って浅草橋。
ここから歌会の会場とは逆の方に少し行くと「あさだ」がある。
入ると混んではいるが席は空いている。
品書きを見て、中ジョッキと穴子天せいろを注文。
以前食べたとき十割かなと思ったが、あらためて品書きの案内を読むとやはり十割蕎麦である。
ビールを飲みながらのんびりする。
ま、神田藪は食えなかったが、またいつか行けばいい。
と言っても大抵並んでるけど...。
穴子天せいろが来た。
ビールのつまみに天ぷらを食う。ごま油を使っている。
うーん、好みの問題だがもう少しさっぱりした方がいいかな、ごま油の味がちょっと勝ってる。
蕎麦は十割なので歯ごたえがある。その分、のど越しはいまいち。
しかし、十割でこれならなかなかいい。
十割蕎麦は蕎麦の風味はあるが、つなぎを使わないので打つのが大変なのである。
味はいいのにぼそぼそしてるとか、蕎麦が短いとか、そういうのがままある。
「あさだ」の蕎麦は十割でありながら、ぼそぼそ感もないし、短いということもない。
うん、満足。
最後に蕎麦湯を飲んで勘定。
さて、ほどよくビールも飲んで歌会である。
Date: 2010/01/07(木)


湯島天神
今日は東京平日歌会、今年最初の歌会である。
歌会は昼からなので、午前中に湯島天神に行って来た。
言うまでもなく学問の神。
すこしは人の子の親らしいことをしようと思い立ったわけである。
上野御徒町から歩いて数分、不忍池の南側にある。
季節柄、受験生らしき若者とその親ぐらいの年代の人で溢れかえっている。
その親ぐらいの年代に混じってお守りを買う。
湯島といえば白梅が有名だがまだ梅の花は開いていない。
本殿の後ろの方に行ってみたら一本だけ咲いている梅があった。

 東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ

菅原道真を祀る社であれば梅はかかせない。
それにしても大宰府に流され怨霊となった道真を学問の神として祀る日本人は不思議である。
別に否定的な意味で言っているのではない。
むしろ日本人の懐の深さを思っている。
参道の出店で土産に甘酒を買った。
息子が、今年の正月は甘酒を飲まなかったなあ、と言っていたのを思い出したので買った。
甘酒を受け取って行こうとすると、
出店の親爺がぶっきらぼうに「待ってろ、これ飲んでいきな」と言う。
小さな紙コップにコンロで温めていた甘酒を入れてくれた。
「酒も砂糖も入ってないんだよ」と言う。
飲んでみるとしつこさのない甘さがあって旨い。
この辺は下町である。
下町の気取らない雰囲気がいい。
湯島天神の参道を抜けて南に向かう。
せっかくなので神田明神にも行ってみようと思っている。
参道を出てしばらく行くと左側に下る小さな坂がある。「実盛坂」である。
この坂の下に、源平の合戦で討ち死にした斉藤別当実盛の首を洗った井戸があるという
伝承があるわけだが、
実盛が討ち死にしたのは加賀での木曾義仲との戦いであるから、
文字通り伝承であって史実ではあるまい。
おそらく後世、この辺に住んでいた江戸の下町の連中が、
平家への恩を忘れず、恥をかかぬよう白髪を染めて戦陣に臨んだ斉藤実盛を讃えて、
そのような伝承を作り上げたのであろう。
平家の武将に東国の武士の戦い振りを問われた実盛は、
「親が死ねば親の屍を、子が死ねば子の屍を乗り越えて戦い・・・」と答えたという。
江戸の下町の連中が、斉藤実盛のように信義を尊び実直に生きた男を
賞賛したのも分かる気はする。
急な階段の実盛坂を下り、適当に南に下る。
しばらく行くと右に再び坂が見える。
神田明神の男坂である。
急な石段を上り境内に入る。
湯島天神とは明らかに参詣客が違う。
湯島は受験生とその親であるが、
この神田明神は神田・日本橋・大手町・丸の内・築地その辺りの町内会の総氏神。
いずれも今はビジネス街である。それだけに正月のこの時期、背広姿がぎっしり並んでいる。
たぶん背広姿の人達は仕事のことを祈っているのであろうが、
とりあえず仕事はさておき子供達の幸を祈る。
ちなみにこの神田明神の境内には銭形平次の碑がある。
銭形平次は架空の人物なので、架空の人物の碑があるというのもなんともいえない。
ここの参道を出て道を渡れば湯島聖堂である。
昔、昌平坂学問所があったところで、今も聖堂として孔子を祀っている。
ここは湯島天神とも神田明神ともちょっと雰囲気が違う。
八百万の神を祀ってきた民族の裔には、
儒教はどうも体質に合わないところがあるのかもしれない。
孔子の大きな像などもあるのだが、湯島や神田明神と比べて人は随分少ない。
さて、ひと通り歩いてきて昼飯である。今日は神田藪に行こうと思っている。
少し長くなった、続きは明日書こう。
Date: 2010/01/06(水)


批評を聞き分ける
さてさて、今年も仕事に短歌に山にアーチェリーに頑張っていきたい。
ちなみに昨日、アーチェリーの仲間からメールがあり、
今日148点を出したと自慢しておった(^^
だいたいもって、こちらはもう仕事始めで働いているというのに、
のんびり弓を射っているなどというのも呑気なヤツではある(^^;
ま、アーチェリーについては今度の日曜が射会なので、
そのときにでもこの日記に書こう。
とりあえず今日は、先月忙しくて書けなかったことをひとつ。

私の属している短歌結社では毎月結社誌を出している。
各選者の欄があり、その欄の頭と後が秀歌の部で、
それ以外の歌はその間に掲載されるような構成になっている。
で、12月号、私の歌は栗木京子さんの欄の秀歌の部に載っていたのだが、その中の一首。

   啼く声は朝空高くこだまして一途に渡るほととぎすあり

実はこの歌、去年8月の結社の全国大会に出した歌で、
そこではかなり評価の低かった歌なのである。
ちなみに出したときはこうだった。

   啼く声は青天高くこだまして一途に渡る不如帰あり

詠草を送ってから自分でも「青天」は固いよなと思った(^^;;
それはそれとして、この歌に対する全国大会の歌会での批評だが、
評者曰く「平明過ぎて何を言いたいのか分からない」。
私は苦笑した。
「平明過ぎて何を言いたいのか分からない」というのは明らかに日本語として矛盾を含んでいる
わけだが、私はその評者の言いたいことがよく分かった。
そのときの歌会では、歌に意味を求めようとする読みが目についていて、
その評者も、歌には何かもっと深い意味があるはずで、それを読み取ろうとしていたのだ。
別に意味などありはしない。
早朝まだ人気のない道を歩いていた時、啼く声をこだませて空を渡るほととぎすを見たのである。
それだけだ。
詠いあげられたその情景に読者が何を重ねるかは自由である。
啼いて血を吐くほととぎす。
そのほととぎすが啼きながら空を渡ってゆく情景におのれを重ねてもいいし、
なにか求道者にも似た孤独、そういうものを重ねてもいい。
一抹の寂しさを感じ取ることも出来るかもしれない。
どう読み、そこから何を感じ取るかはそれぞれの読者にかかっているのであり、
ことさら歌に何か意味を持たせてそれを伝えようとしているわけではない。
で、吉川宏志さんが総評をしたわけだが、
吉川さん曰く
「全くその通りですね。この歌、『一途に渡る』が強すぎるんです。それと『不如帰』が
漢字になっているでしょう。これも損をしています。」
歌会での批評というのは耳を傾けるべきものである。
しかし、それは批評を盲信するということではない。
耳を傾け、聞くべきは聞き、聞き流すべきは聞き流す。
歌会の批評はそういうふうに聞き分けていかなければならない。
なかにはおかしな批評もあるわけである。
もっとはっきり言えば、選者のような人でもたまには首を傾げることを言う。
そのときの吉川さんの批評だが、
「全くその通りですね」は私は聞き流した。
相手が選者だろうが聞いてしょうもない批評は聞き流すのである。
「『一途に渡る』が強すぎるんです」
確かに・・・、これは確かに強い、しかし、ここが眼目なんだよな・・・困ったな。
「『不如帰』が漢字になっているでしょう。これも損をしています。」
これは言う通り、確かに『不如帰』と漢字にするより『ほととぎす』と仮名にした方が
良い、さすがは吉川さん。
私は黙って聞きながら、聞き流す批評と聞くべき批評を聞き分けていた。
で、吉川さんの批評を踏まえて推敲したのが栗木さんの選歌欄に載った歌である。

歌会の批評は聞き分ける。
聞き分ける力をつけなければ歌会でなんとなく他人の批評を聞いていても仕方ない。
歌は結局、作者が作るのである。
歌会で、ここはこうした方が良いとか、これでは伝わらないとか批評されたとしても、
その批評が的を射ているとは限らないのである。
歌会とはおのれの器量を問われる場である。
おのれをさらけ出して歌を作り、
おのれの知力と感性で歌を読み、
他者の批評をおのれの力で聞き分ける。
そうやって力を養ってゆく場である。
だからこそ歌会というのは真剣勝負の場なのであろう。
今年も真剣勝負の歌会をしてゆきたい。
Date: 2010/01/05(火)


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