*--Diary--*


東京平日歌会  2009/07/03(金)
浅草その2  2009/07/02(木)
浅草  2009/07/01(水)
紫陽花  2009/06/29(月)
歌会のあと  2009/06/24(水)
『今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド  2009/06/23(火)
世界難民の日  2009/06/20(土)
『空襲と文学』W.G.ゼーバルト  2009/06/19(金)
あれ!?  2009/06/17(水)
『他者が他者であること』宮城谷昌光  2009/06/15(月)


東京平日歌会
東京平日歌会は、花山多佳子さん、小林幸子さん、二人の選者のいらっしゃる歌会で、
さすがにお二人は納得のいく批評をされる。
成る程、と思う批評を聞かせてくれる。
選者でも意見の異なる時は当然にあるわけで、
そういうときお二人が短く意見を交わすのを、私などは聞き耳を立てている。
ただ、歌会全体としてはどうか、という話になると、
参加する前に抱いていたイメージと先月今月と二度参加した現在でのイメージは大分違う。
たぶん、私が勝手にイメージを膨らませていただけの話なのだが...(^^;
批評以前の感想や解釈だけで終わってしまうことが多いのは、
どこの歌会でも似たり寄ったりのことだと思うし、
自分も含めて大方の人はそういう時期を経てくるものだと思う。
ただ、せっかく良い批評をしていた評者が、
勢い余って歌の批評から作者の批評に流れてしまったのは頂けなかったし、
自分が批評出来ない歌を「短歌の題材になるようなものではない」と切り捨てるのも首を傾げた。
ちなみにその歌の題材は古来詠われてきたもので充分に歌の題材になるものであった。
自分の手に余るとき歌を否定することで批評に変えるべきではない。
歌会である以上、読む努力を放棄するべきではあるまい。
一番驚いたのは、質問付きの詠草があったことである。
司会の方が詠草を読んだあと、
「この歌には質問がついています」と幾つかの質問を読み上げた。
花山さんが答えておられたが、さすがに最後には、
「まだあるの? 部分的に聞いたってしょうがないよ、全体で見なきゃ」と仰っていた。
自分の歌について選者の意見を聞きたいという気持ちはよく分かるが、
歌会は多くの人に自分の歌を読んでもらい、どう読まれるかを試す場である。
一体なんのために歌会に歌を出しているのかと思ってしまう。
それこそ皆が皆、自分の詠草に質問を付けたら歌会は成立しなくなる。
ただ、ひとつだけ感心したことがある。
東京平日歌会は司会は司会に徹し、批評に加わらないのである。
司会は作者を知っているわけで、
あるいはそれは、作者を念頭に入れての批評を排除するためのものだろうか?
そうだとすれば、その姿勢は立派だと思う。
およそ、司会とか詠草取り纏め役とか、作者を知る立場の人が、
31文字ではなく作者をもとに選歌したり、
この歌はこの作者の歌だからこういうことを表現しているのだろう、などと31文字以外の
要素で批評をしたら、それはその歌会にとってかなり有害なことである。
そういう点で東京平日歌会の遣り方は立派だと思う。
司会は一年間それをやらないといけないのである。
批評に加わらず歌会のために仕事をする。
それは自己犠牲である。立派なものだ。
ちなみに横浜歌会は司会者の資質でその問題をクリアしている。
そういう点で横浜は人材に恵まれているのであろう。
いずれにせよ、
今のところ、参加したばかりでまだ様子が分からないので、
もともとおとなしい人間が借りてきた猫の状態になっているわけである。
だんだん様子も分かってきた。
借りてきた猫もたまにはニャーと鳴かねば欲求不満がたまる。
そのうち少しはニャーと鳴いてみようと思っている(^^;;




Date: 2009/07/03(金)


浅草その2
さて、昼飯である。
雷門を出てそのまましばらく行くと並木藪がある。
藪蕎麦の名で知られる老舗蕎麦屋の一軒。
店は周囲と協調するのを拒むごときレトロな建物である。
昭和30年代の一軒家と言った方が分かりやすい。
まだ12時前だったので空いていた。
外観も古いが中も古い。
座敷の縁は角が摺れて木が見事にまるくなっている。
余程の年季が入らないとこうはならない。
ビールと天ぷらそばを注文。
並木藪で天ぷらそばを注文すると、温かいのですか冷たいのですかと聞かれる。
ここでは、冷たい天ぷらそばが普通に言うところの天せいろである。
ビールを飲んでしばらく待つと、冷たい天ぷらそばがくる。
蕎麦の色はいい。
天麩羅は海老とししとう。
天麩羅を肴にビールを飲み、仕上げにずずっと蕎麦をすする。旨い。
天麩羅の味は普通、蕎麦は喉越しがいい、汁は鰹の香りがして調度いい。
もともと濃い目の汁が好きなのだが、前より薄くなったかな?
言わなくても蕎麦湯をもってきてくれる。
終わったらさっと勘定して出る。
蕎麦屋ではだらだらしない。
軽く飲んでさっと食べて出てくるのがいい。
外に出てふと気が付いた。
そう言えばこの辺に鰻屋の初小川があった。
今でもやってるんだろうか?
浅草は鰻屋が多い。たぶん、昔から参拝客に墨田川の鰻を出したのだろう。
確かこの辺...、見当をつけて路地に入ってみる。
下町と言うには道路が広い。
私の生まれ住んでいたところの方がよっぽど狭い路地だった。
たぶん、この辺も区画整理とかで多少道を広くしたのだろう。
あった...。
これも並木藪におとらぬ古色蒼然とした店だ。
鰻のいい匂いがしてくる。
バブルの時代には建て替えの話もあっただろうに。
まったく、並木藪といい初小川といい、
まるで昭和30年代そのままみたいな店を彼等は頑固に守っている。
店の外観で勝負してるんじゃない、うちは味で勝負してるんだ。
彼等に言わせれば、そんなところだろう。
こういう頑固な奴らが江戸の粋を守ってきたのだ。
頑固と頑迷は違う。
おのれの信念に頑固であることは誇っていいことであるはずだ。
初小川にも今度、食べに来てみよう。
さて、歌会に行かなければならん。
歌会は浅草橋。
別に地下鉄に乗らなくても江戸通りを南に30分もゆけば浅草橋である。
路地を抜けて江戸通りの方に行く。
浅草はもうすぐほおずき市だ。



Date: 2009/07/02(木)


浅草
今日は東京平日歌会である。
日程を調整して今日はフリーにしてある。
歌会は午後からだが、どうせなら一日楽しみたい。
久し振りに浅草に行ってみることにした。
まだ小学校に上がるか上がらないかの頃、東京に住んでいて、
たまに母に連れられて浅草に行っていた。
なにかの祈祷だと思うのだが、母に連れられ線香くさい建物の中に入り神妙な顔をしていた。
帰りに仲見世で煎餅を買ってくれた。
醤油味の煎餅だけてなく、
白い砂糖がかかった煎餅、抹茶入りの砂糖がかかった煎餅があった。
梅の味の砂糖のかかった煎餅もあった。
つまらない祈祷に連れて行かれるのも、
帰りにその煎餅を買ってもらえると思えば辛抱できた。
昭和30年代の終わり、もう40年以上前の話である。
成人して仕事をするようになってから何度か浅草には行ったが、
仲見世に入ることもお参りすることもなかった。
そこは子供の時に何度も行ったところで、わざわざ行くところではなかった。
東京平日歌会に出るようになって、久し振りの東京である。
浅草を歩いてみようという気になった。
新橋から地下鉄に乗り浅草に出る。
地下鉄の駅から地上に出たとたん、ぷーんと線香の匂いがしてきた。
そうだ、この匂いだ。
子供の頃に嗅いだ匂いだ。
雷門をくぐり、仲見世を通り浅草寺に行く。
昔の仲見世はもっと食べ物関係の店が多かった気がする。
今は外国からの観光客が多いせいだろう、いわゆる土産物屋が多い。
浅草寺は大規模営繕とかで工事中だった。
手を合わせて仲見世に戻るが、どうも釈然としない。こんな感じだったろうか?
仲見世を戻りながら、左右の店を探す。
浅草といえば雷おこしとか人形焼きが浮かぶのかもしれないが、
子供の頃に親しんだ浅草の煎餅を探した。
参詣の途中、二・三軒煎餅を売っている店はあったが、子供の頃の記憶にある煎餅ではない。
あった...。
えらく間口の小さい店、煎餅を売っていた。
ただ、昔は長方形の煎餅だったのだが、今は丸い煎餅である。
店に入ると、奥に座っていた五十がらみの女性の店員が「土産物ですか?」と聞いてきた。
煎餅を手に取り、「昔はこの煎餅、長方形だったよね」と言うと、
「ええ、昔は長方形のを売ってました。職人がいなくなってだんだん作れなくなったんですよ。
今は丸ですね。長方形のは作っていないですけど版はあるから、また作れるかもしれません」と言う。
やはり煎餅を売っている店は減ったらしい。
職人がいなくなったのだそうだ。たわいない煎餅のようだが、
下手な職人が作ると乾いたときに表面の砂糖が落ちてしまうのだそうだ。
いい仕事の出来る職人が減って日本の文化がだんだん消えていく。
五十がらみのその店員はそう言って嘆いていた。
子供の頃に母親に連れられて来ていたことを話すと、いろいろな話を聞かせてくれた。
今の浅草神社のあたりは結構木が鬱蒼と茂っていたこと。
その木々の間に祠が沢山あり、子供心に怖い場所だったこと。
その後、浅草寺の周囲が整備され、それらの祠が今の場所にまとめられたこと。
こういう話が出来るのはいい。
子供の頃のことを知っている人に会えるのは嬉しい。
その店には昔からの客が多く、「あんたはこんなに小さかったのにねぇ〜」と、
その店員もお客さんによくそう言われるらしい。
子供の頃、母に連れられてきていたのは浅草神社だったのかもしれない。
記憶の中にあるのは、木が生えていたこと、木の塀があったこと...。
「是非、また来てください」そう言う店員に挨拶して、
もう一度、寺の方に行ってみた。
浅草神社は浅草寺のすぐ横にある。
今は石の囲いで木の塀ではないが、あるいは当時は木の塀に囲まれていたのかもしれない。
境内には銀杏とえんじゅの木があった。
幼かったとき、母に手を引かれ、ここのどこかを確かに歩いていた。
そういう記憶のある場所というのは不思議な空間である。

Date: 2009/07/01(水)


紫陽花
六月の鎌倉は紫陽花の季節である。
この季節になると大勢の観光客が押し寄せる。
湘南歌会のついでに久し振りに鎌倉に紫陽花を見に行こうと思い立ったのだが、
とりあえず明月院はパスすることにした。
紫陽花寺の名で有名な明月院はこの時期、観光客でかなり混む。
由比ガ浜に近い成就院ならそこからしばらく歩けば海に出られる。
海沿いには江ノ電が走っており、適当なところから乗れば午後から歌会をやる藤沢である。
歌会の日、横須賀線で鎌倉に向かうと北鎌倉で大勢の人が降りる。
電車の窓から見ていると案の定、駅から明月院に傘の列である。
これでは紫陽花を見に行くのか傘を見に行くのか分からぬ。
鎌倉から江ノ電で長谷に向かう。
江ノ電は緑に黄色の車体に変わっていた。
以前は緑単色の車体で、初めて見たときは「クレヨンみたいな色だな」と思ったものである。
単線の路面電車で、民家の軒先を走ってゆくような電車である。
鉄道ファンに人気があり、昔は走って来る電車を線路に入り込んで撮っているファンがいて、
運転手が必死に警笛を鳴らしたりしていたものだが、
いまでもそういう馬鹿なファンはいるのだろうか?
成就院に行くのなら極楽寺で降りた方が近いのだが、
観光客と一緒にぞろぞろ歩くのも嫌なのでひとつ手前の長谷で降りる。
ここから極楽寺の切通しに行けばそこに成就院がある。
成就院の縁起は知らないが、
切通しにあるということは寺であると同時に有事の際の軍事拠点であったはずである。
鎌倉は幾つもの切通しで外部とつながった街で、
新田義貞の鎌倉攻めの折りにはそれぞれの切通しで激しい戦闘がおこなわれた。
成就院もそのときに焼けてその後再建されたらしい。
長谷の方向から行くと裏から成就院に入ることになる。
成就院の墓域に入り、切通しの縁につけられた坂を登ると本堂がある。
成就院は明月院のように庭園に紫陽花が咲いているのではなく、
この坂の両側に紫陽花が咲いている。
坂からは由比ガ浜の海が見える。
本堂で手を合わせたあと、稲村ガ崎に向かう。
鎌倉の街は、明月院や成就院に限らずあちこちに紫陽花が咲いている。
その紫陽花を眺めながら歩いてゆくと、
ところどころに「○○上人」とか「△△塚」というのがある。
偉い上人が説法したところとか、戦で大勢死んだ場所とか、
そういう「場」が今でも日常の中に当たり前にある。
鎌倉はそういう街である。
海に出ると、沖の方にヨットの帆がたくさん固まっていた。
たぶん、レースをしているのだろう。
右の方には江ノ島が見える。
ここから海岸沿いに歩き、適当なところで江ノ電に乗れば藤沢である。



Date: 2009/06/29(月)


歌会のあと
ここしばらくこのブログで本の紹介をした。
『他者が他者であること』宮城谷昌光
『空襲と文学』W・G・ゼーバルト
『今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド
実はこれらの本は、先月の湘南歌会のあと藤沢の駅の近くの有隣堂で
まとめ買いしたものである。
大抵、歌会のあとというのは、お茶でも飲みに行きましょうということになる。
お茶を飲みながら、歌会の時には聞けなかった話などで盛り上がるわけで、
それはそれで楽しい。
私がホームグランドにしている横浜歌会では歌会のあと、近くのファミレスに行く。
そこでわいわいがやがやとそういう話をするわけである。
そのあと、帰る人は帰るし、飲みに行く人は飲みに行く。
今月から参加するようになった東京平日歌会は、
歌会のあと特段そういうことはしていないらしい。
というか、歌会が終わって三々五々帰る人達がいるので私もその中に混じってさっさと
帰ってきたのであるが、東京平日歌会は歌会の後の懇親はなくても、
歌会前、午前中にあの辺の街を歩けるのが楽しい。
上野・浅草・両国・深川、あの辺りは歩いていて楽しい街で、なにより風情がある。
上野の山で展覧会などやっていれば、午前中それを見て午後は歌会という楽しみ方が出来る。
で、湘南歌会なのだが、横浜歌会の有志が集まって立ち上げた歌会なので、
横浜式に歌会のあとお茶を飲みに行く。
それはいいのだが、
最近、お茶というより飲み屋直行になっているのが気になる。
ま、歌会をやっているビルの地下に飲み屋があり、
酒を飲まない人もそこで食事したり出来るわけだから、別にいいと言えばいいのだろうが、
どうも、いきなり飲み屋直行というのが私は嫌なのだ。
というか、歌会の最中に歌会後の飲み屋への出欠を問うのが随分無粋なことをしているようで、
最近は付き合わないようにしている。
ま、全員が入れるところが近くに見当たらなければ予約しておこうという話にもなるわけで、
それはそれで理解出来るのだが...。
歌会に参加する人は主婦の方も多く、
歌会が終わったらすぐに帰って家の用事という人もいるだろう。
食事は家に帰って家族と一緒にという人もいるはずだ。
初めて参加する人の中には、いきなり飲み屋への出欠を問われて戸惑う人もいるかもしれない。
だいたい、歌会の最中に飲み屋の予約する歌会って他にあるんだろうか?(^^;
初参加の人には歌会が終わってから、
お茶飲みに行きますがいかがですか? ぐらいがいい。
飲み屋の予約どうのこうのということをしていると、
人によっては断るのも失礼だしと思う向きもあるかもしれず、
そういうことでせっかく新しく参加した人の足が遠のく、ということもあるのかもしれぬ。
どうも、していることが無粋な気がしてしょうがないので、
最近は湘南歌会のアフター5は付き合わないようにしている。
終わったらさっさと帰り、駅の近くの有隣堂で本を探す。
探すというより背表紙だけ見て適当に何冊か買うのである。
そういう買い方をするのは、読んで買っていると、
どうしても似たような傾向・分野の本ばかり買ってしまうので、
背表紙だけ見てパッパと買うことにしている。
なかには買って損したと思う本もあるが、思わぬ拾い物をすることもある。
短歌に限らず表現するということはひとつのアウトプットである。
良いアウトプットをするためには良いインプットが必要なのだ。
だから、歌会のついでに街を歩く、あるいは本を買う。
無粋に飲むよりそちらの方がよっぽどいい。
インプットすることを忘れればいずれ枯れてゆく。
それは短歌でも仕事でも同じことである。
Date: 2009/06/24(水)


『今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド
ニューメキシコ州に暮らす詩人であり小説家であるナンシー・ウッドの、
長年に渡るプエブロ・インディアンとの交流から生まれた詩集。
ネイティブ・アメリカンの口承詩の伝統を受け継いだ詩集である。
彼らの死生観は欧米のそれとは明らかに異なる。
死は同時に再生でもある。
万物は一度死ぬことによって生を取り戻す。
1974年に出版されて以来読み継がれ、
ユダヤ経やキリスト経のミサでも朗読されたりするようになった。

  今日は死ぬのにもってこいの日だ。
  生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
  すべての声が、わたしの中で合唱している。
  すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやってきた。
  あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
  今日は死ぬのにもってこいの日だ。
  わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
  わたしの家は、笑い声に満ちている。
  子どもたちは、うちに帰ってきた。
  そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

死は必ずいつか訪れる。
それは終わりではなく再生への一歩。
このネイティブ・アメリカンの詩は、ことさらに救いを求めようとしていない。
この死生観は彼らが伝統的に持っていたものなのか、
あるいは、西部開拓以来の彼らの置かれた過酷な状況から生まれたものなのか、
それは定かではない。
いずれにせよ、その輪廻転生的な死生観は東洋のそれに通じるところがあるが、
かなりアメリカナイズした日本人には新鮮に思えるかもしれない。



Date: 2009/06/23(火)


世界難民の日
6月20日は世界難民の日です。
20世紀は難民の世紀でした。
戦争による難民、迫害を逃れてきた難民、政治難民、
21世紀、我々は遠からず環境難民を見ることになるでしょう。

 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)からのニュースを一部抜粋して転載します。
UNHCRはあまり知られていなかったかもしれませんが、
最近はドラマにも登場したりして知られるようになってきました。
このニュースは転載可のものです。



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2. 【世界で4,200万人が家を追われている:
   UNHCR、年次報告書を発表】
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紛争や迫害により、避難を余儀なくされている人々
の数は2008年末の時点で、全世界で4,200万人におよ
び、帰還の停滞や長引く紛争により問題の長期化を
もたらしています。6月16日に発表されたUNHCRの年
次報告書『グローバル・トレンド(Global Trends)』
によると、そのうち1,600万人が難民や庇護申請者で
あり、2,600万人が国内避難民とされています。
▼詳しくはこちら
http://www.unhcr.or.jp/news/press/pr090617.html


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3. 【「世界難民の日」 キャンペーンサイト 公開中!】
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「世界難民の日」にちなんで、国連UNHCR協会では
「NO HOME YES HOPE」をスローガンにキャンペーン
サイトを公開しています。
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=432&m=24&v=542cfcca

難民問題や「世界難民の日」について分かりやすく説明
すると共に、難民ひとりひとりの生の声や各界
からのコメントなど、普段は遠い問題と思いがちな
難民問題をより身近なものとするコンテンツを掲載
しています。ぜひご覧ください。


◎難民の声〜イラク難民ミュージシャン、CDを発表

2009年6月、イラク難民のミュージシャン3人組が
CDアルバム『Transition(移り変わり)』を発表
しました。
イラクの惨禍を逃れ、シリアのダマスカスで
出会った3人は、難民としての生活をもとに楽曲を
制作しました。
このアルバムはiTuneやAmazonなどの音楽サイトで
販売され、収益は経済的に困窮するイラク人の
ために活用されます。
▼イラク難民ミュージシャンのメッセージはこちら
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=433&m=24&v=4304980a


---------------------------------------------
あなたもキャンペーンに参加してみませんか?
オリジナルブログパーツ配布中!
---------------------------------------------

難民の人たちも、私たちも、希望をもって生きて
います。ひとりひとりが思い思いの「HOPE」を
トラックバックで繋ぐことで、ブロガーみんな、
そして難民の人たちがひとつになれる、そんな
ブログパーツも公開しています。
ぜひ設置してください。
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=434&m=24&v=26dda64a

---------------------------------------------
世界難民の日 登録イベントも募集中!
---------------------------------------------

国連UNHCR協会では、2009年「世界難民の日」を
記念して、4月中旬から7月にかけて全国各地で
関連イベントを主催してくださる方・団体を募集し、
こちらで紹介しています。
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=435&m=24&v=31f5c28a
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=436&m=24&v=088d6fca

難民問題について考える一歩として、仲間や友達と
一緒に参加してみませんか?
ご登録いただいたイベントは、上記のページで紹介
いたします。
▼詳細はこちらから
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=437&m=24&v=1fa50b0a

▼申込みはこちらから
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=438&m=24&v=c33f134a


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4. 【国連UNHCR協会 オフィシャルチャンネル公開中】
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国連UNHCR協会のオフィシャルチャンネルでは、
ここでしか見られないオリジナルビデオやメッセージを
公開しています。ぜひご覧ください!
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=439&m=24&v=d417778a


◎ヴァイオリニスト 川井郁子さん
ウガンダ難民居住地でのふれあい 

川井郁子さんは2007年に「川井郁子Mother Hand基金」
を設立し、音楽を通じて難民の子どもたちと交流する
独自の支援活動を続けてくださっています。

▼川井さんが2008年11月にウガンダの難民居住地を
訪問した際の映像はこちら
https://krs.bz/j4unhcr/c?c=440&m=24&v=0cc5ade4


Date: 2009/06/20(土)


『空襲と文学』W.G.ゼーバルト
著者のヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルトはドイツで生まれ育ち、
その後イギリスに移住した作家である。
ベルリン文学賞・ハイネ賞・全米批評家協会賞などを受賞し、
将来のノーベル賞候補と目されていたが交通事故で亡くなった。
彼の著した『空襲と文学』は、第二次大戦におけるドイツ諸都市の凄まじい破壊と滅亡が、
戦後のドイツ文学界において表現されることがなかったことについての検証である。
1999年に『空襲と文学』が発表されて以降、
ドイツでは<「空襲と文学」論争>が巻き起こった。
彼の検証を是とするものと非とするものの論争である。
それは結局、埋もれていたドイツの戦後文学を掘り起こすという役割を果たすことにもなった。
なぜ、戦後のドイツでは第二次大戦による凄まじいまでの国土の破壊について
語られなかったのか?
終戦後、荒野の中を走る汽車の中でドイツの人々は窓の外を見ようとしなかったという。
窓の外にあるのは延々と続く廃墟と瓦礫の山である。
多くの人が、すべてはなかったもののように振舞った。
廃墟も瓦礫の山もそこにないように、多くのドイツ人は振舞った。
救いのない苦痛に向き合うにはそうするしかなかったからであろう。
ドイツの蒙った凄まじい破壊について戦後の文学も沈黙したという。
誰もが目をそむけたかった、そういうことであろうか?
日本も第二次大戦により凄まじい被害を受けた。
しかし、ドイツと日本を単純に比較することは出来ないだろう。
ドイツは国土の多くが戦場になり荒廃した。
諸都市は廃墟となり、東側のソ連占領地域では凄まじい略奪・殺人・強姦がおこなわれ、
200万人の子供達が強姦の結果として生まれた。
戦後、旧ドイツ領から追放されたドイツ人は1200万人とも1500万人ともいわれ、
そのうち200万人が殺された。
これは戦争が終わってからの話である。
1950年になっても140万人のドイツ兵捕虜が未帰還であり、
結局、そのうち100万人以上が帰らなかった。
大戦末期から戦後にかけておこなわれたドイツ人の虐殺はユダヤ人の虐殺に匹敵する
ものだったが、なぜか戦後の世界はそのことに触れない。
まるで1945年5月、ヒトラーが死んだあとのヨーロッパには
平和の小鳥が囀っていたかのように言う。
事実は違う、その囀りの下で数百万のドイツ人が殺された。
そのドイツも凄まじいことをした。
数百万のユダヤ人を殺し、ロシアの数千という町と村を廃墟にした。
やりきれない話である。
人は惨禍に冷静な目を向けられるようになるまでには多くの時間を必要とする。
なぜ、人々は凄まじい破壊と滅亡に目を向けなかったのか、
なぜ、目を向けられなかったのか、
なぜ、文学は沈黙したのか、
この著作が引き起こした論争の中で当然に異論も出されているわけだが、
そういう論争を通して惨禍に目を向けることは重要なことである。
ふりかえって、我々日本人はどうなのだろう?
じっくり考えてみたい。
Date: 2009/06/19(金)


あれ!?
会社から送られてきた残高証明を見て、あれ!?と首を傾げた。
今回の申告から関与することになった新しい顧問先。
以前頼んでいた税理士さんがお亡くなりになって、うちで引き受けることになった。
既に申告書は出来上がっていて、
還付金の振込先も、前の税理士さんが作った昨年の申告書を見て、
その預金明細から口座番号を記入した。
ところが、送られてきた残高証明を見ると口座番号が違う。
つまり、以前の税理士さんが間違えた口座番号を申告書に書いていたのだ。
以前の税理士さんは受取利息の源泉還付をなぜかやっていないので、
間違えた口座番号を記載したままでも問題は発生しなかったということか...。
お亡くなりになった税理士さんの仕事をいろいろ言うのは嫌なので、
社長さんにはあまり言わなかったが、
過年度の申告書を見ると、なぜ、こういう処理を?というものが散見された。
申告書の内訳書には社長の住所を書くところがあるが、
それも違う住所が書いてあったりした。
その税理士さんに限ったことではない。
以前、他の顧問先でこんなことがあった。
頼んでいた税理士さんが決算のときしか来てくれないということで、
うちで引き受けることになったのだが、
過年度の申告書を見て驚いた。
消費税の簡易課税の事業区分を間違えていて、余計に税金を払っている。
長年関与していたらしいので、最初からの分を合計すると、
おそらく数百万あるいは一千万くらい、余計に消費税を払っている。
職務上、知らん顔も出来ないので、社長にその旨説明すると、唖然としていた。
訴訟も考えたようだが、結局、弁護士に頼めばまた金がかかるとか、
仕事も忙しいということで、うやむやになった。
消費税を余計に払ったことで節税効果が生じ、
三分の一くらいはそれで取り戻していると説明したのだが、
そのくらいは取り戻しているということもうやむやになった理由のひとつであるらしい。
その税理士は私に感謝していいはずだ。
規制緩和の結果は玉石混交。
医者も弁護士も税理士もそれは同じだ。
医者の資格を持っていればみな同じ能力のある医者、というふうには大抵の人は
思わないだろう。名医もいれば藪医者もいる。弁護士もしかり。
税理士も同じなのだ。
特に、税法のように毎年改正される法律を相手にするという性格上、
税理士の仕事は、研鑽を怠ればすぐについていけなくなる。
だから、税法を知らない税理士というのは現実に沢山いる。
医者のように命を預けるわけでもなし、申告書はどの税理士が作っても同じだろうと考えて、
報酬だけを税理士選びの基準にすれば失敗するだろう。
税理士を探している人はその辺は充分頭に入れた方がいい。
Date: 2009/06/17(水)


『他者が他者であること』宮城谷昌光
司馬遼太郎なきあと、読み応えのある歴史小説が書けるのは宮城谷昌光くらいしか
いないわけだが、その宮城谷昌光のエッセイである。
念の為に補足すると、歴史小説と時代小説は違う。
場の設定をしかるべき時代に求め、
史実に拘束されずにストーリーを展開していくのが時代小説であり、
それに対し、歴史上の事実にテーマを求め、
史実に従いながら、そこに生きた人間の姿を浮かび上がらせるのが歴史小説である。
歴史小説の世界で司馬遼太郎の存在は隔絶していたと言っていい。
いわゆる「司馬史観」に支えられたその作品群は、
戦後の高度成長期の日本人に勇気を与えたと言って過言であるまい。
彼の後に続く者は見当たらない。宮城谷昌光を挙げられるくらいだろう。
一時期、池宮彰一郎がマスコミではかなり評価されていたが、
彼の『島津はしる』を読んで、現代の経済論を皮相的に持ち込んだその歴史解釈に失笑した。
およそ歴史小説というものは底の浅い歴史観が透けて見えてしまっては話にならない。
結局、彼は司馬遼太郎の文章を剽窃した疑いを持たれ姿を消した。
さて、『他者が他者であること』であるが、
中国史をテーマに執筆していた頃のエッセイなど、肩の力の抜けた良い文章である。
彼の無名時代の話なども共感を誘う。
しかし、実は本の中で私の目を一番引いたのはカメラに関係した一連のエッセイである。
彼はアマチュアカメラマンとしてかなりの腕の持ち主らしい。
「シャッターを押すというのはどういうことか」「写真を寝かせる」「自然にとる」、
それらの話は短歌の創作にも通じるところがあり、ひとつひとつが合点のいくものである。
短歌の指南書として読んでも通用する気がする。
そういえば以前、所属している短歌結社の誌面に、
主宰が写真家にインタビューする特別記事があったような気がする。
写真と短歌には、一瞬をいかに切り取るかなど幾つかの共通点があるのだろう。
歌人の書くものはえてして小難しくていけないのだが、
宮城谷昌光の文章は一般の読者を対象にしていることもあって、
読んでいてとても分かりやすい。
基本的な歌論書を求めている向きには一読を勧めたい。


Date: 2009/06/15(月)


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