*--Diary--*


会津西街道その4  2008/08/28(木)
判決  2007/07/19(木)
七夕  2007/07/10(火)
ウージの森  2007/06/26(火)
沖縄の歌  2007/06/25(月)
見えるもの見えないもの  2007/06/11(月)
税繁期終わる  2007/06/01(金)
論客を探してよ  2007/05/28(月)
無患子  2007/05/25(金)
リリース  2007/05/14(月)


会津西街道その4
会津若松から会津西街道に入り南に下る。
「会津西街道」というのは関東からの呼称で、
地元では「下野街道」あるいは「南山通り」というらしい。
実際、車で走っていると「会津西街道」という標示はなかったが、
「下野街道」という標示は幾つか見かけた。
会津西街道は江戸時代の物流ルートであり参勤交代のルートでもあった。
会津若松から会津田島を経て山王峠を越えて関東に入り、
鬼怒川を経て今市で日光街道に合流する約130kの街道である。
この街道沿いに「大内宿」がある。
現代では山の中の小さな村になっているが、
この街道が物流ルートとして機能していた江戸時代には宿場町として栄えたところだ。
当時の街並みが保存されていて、それを見にくる観光客で賑わっている。
実際、行ってみると時代劇に出てきそうな宿場町の趣きがある。
映画やドラマの撮影にも使えそうなところだ。
昔は参勤交代の行列がこの宿を通ったのである。
ここには「ねぎそば」という名物がある。
もともと蕎麦は南会津ではよく食べられていたわけで、
結婚式などの祝いの宴の最後には必ずこの「ねぎそば」が出たらしい。
箸を使わず一本そのままのネギを箸の代わりに使って蕎麦を食べたのだそうな。
どういうものかと注文してみると、
つまり蕎麦のどんぶりのうえにネギが一本そのまま乗っているのが出てきた。
一応、青い葉の部分は切り落としてあるが、ま、30cmくらいのネギ。
それがポンと蕎麦のどんぶりの上に乗っている。
ネギで食べられるかどうかやってみるがやはり食べにくい。
結局、普通に箸で食べながら時々ネギをかじる、そういう食べ方になる。
ネギ一本齧るのもなかなか辛いのだが、蕎麦は美味い。
食事のあとで大内宿の土産物屋をのぞきながら歩いた。
いろいろ売っているのだが、はっきり言って土産物には目を引くものはなかった。
そのなかで「さるぼぼ」を売っているのにはちょっと首を傾げた。
「さるぼぼ」は飛騨の民芸品である。なぜ南会津で「さるぼぼ」?
南会津・大内宿、そういう地域の特性を生かした商品を開発しないと、
これからの燃料高の時代、車での観光が減るかもしれない時代に生き残っていけるのか?
江戸時代の名残を残す街並みを歩きながらそんなことを思った。
大内宿から今日の宿泊地の湯野上温泉は車で走ればすぐである。

大内宿 http://homepage2.nifty.com/minamiaizu/Ouchi01.htm

Date: 2008/08/28(木)


判決
先月、東京高裁がブルドックソースの企業防衛策の差し止めを求める
アメリカの投資ファンド・スチールの訴えを退けた。
報道を読むと、裁判所はよくここまで判断を示したなという気がする。
「企業は株主だけのものではない、従業員・取引先などの関係者のものでもある。」
これ自体は私自身も以前から言ってきたことであり、
「よく言ってくれた」という気持ちなのである。
ただ、純粋に法律論として考えた場合はどうなのだろう?
「企業は株主だけのものではない」というのは、
企業経営の実態や、社会的存在としての企業のあるべき姿としては
当然のものであると思う。
しかし、それは法律論からも是認できるのであろうか?
どういう理論構成が可能なのだろう?
スチールは判決を不服として最高裁で争う。
最高裁はどういう法律判断をくだすのだろうか?
今日、村上ファンドの元代表である村上被告に実刑判決が出た。
投資と投機は違う。
資本家を名乗る投機家達の前に、
社会の良識が立ちはだかることを祈っている。
Date: 2007/07/19(木)


七夕
先週の土曜は七夕だった。
神奈川では平塚の七夕が有名である。
全国ネットでは仙台の七夕が有名だろうか。
ちなみに平塚の七夕は新暦(太陽暦)でおこなわれ、
仙台の七夕は旧暦(太陰暦)でおこなわれる。
平塚の七夕は戦後になってから「復興のお祭り」としてスタートしたらしい。
そのときに、他の七夕祭りは旧暦だったので、
うちは新暦でやろうということになったそうだ。
祭りをビジネスとして考えるならば、
他の七夕祭りが旧暦だからうちは新暦で、というのは
ひとつの差別化戦略である。
結局これは成功した。
成功はしたが、難しい決断だったのではないだろうか?
新暦の7月7日は梅雨の真っ只中である。
天候の影響もあるだろうし、旧暦でやれば8月で学校は休み。
8月の方が集客という点では利がある。
あくまでもビジネスとして七夕祭りを考えるならば8月の方が有利なはずである。
しかし、時代背景が平塚の新暦の七夕には幸運だったようである。
戦後、平塚の七夕祭りが始まった頃、
人々は遠くへの旅行はそうは出来なかった。
日本がまだ貧しい時代だったのだ。
そういう時代にあって、東京・横浜という大都会からの客を招くには
平塚は立地条件としては悪くなかったわけである。
8月でなくても祭りを週末にすれば客はきてくれたわけである。平塚はそういう立地にあった。
あるいは8月では、当時の人々の数少ない旅行でもあった「帰省」に
客を食われたかもしれない。
当時の祭りの企画者達はそこまで考えたのだろうか?
いずれにせよ、平塚の七夕は戦後起源の祭りとしては見事な成功例である。
その後、現在まで平塚の七夕は新暦でおこなわれている。
Date: 2007/07/10(火)


ウージの森
沖縄の歌がいつ頃から流行るようになったのかは知らないが、
あるいは「島唄」あたりからなのだろうか?
  デイゴの花が咲き風を呼び嵐が来た
  デイゴが咲き乱れ風を呼び嵐が来た
  くり返す悲しみは島渡る波のよう
  ウージの森であなたと出会い
  ウージの下で千代にさよなら
ちなみにこの「島唄」は沖縄発の歌ではない。
本土の人間が作った「沖縄の歌」である。
で、私はこの歌を聴くたびに妙な気分を感じるのである。
「ウージの森であなたと出会い
 ウージの下で千代にさよなら」
作詞者はどういう情景を思い浮かべたのだろう?
「ウージの森、ウージの下で」
この表現からはウージが枝を張った木で、それが森になっている感じがする。
「ウージ」とは沖縄の言葉で「さとうきび」である。
草であるさとうきびはいくら生えても森にはならないし枝を張ることもない。
この作詞者はウージを知っていたのだろうか?
たまたま聞いた「ウージ」という異国風な響きに惹かれて、
ウージが何かを知らないまま作詞したのではないのか?
「ウージの下で千代にさよなら」という歌詞からは、
アダンのようないかにも南国風な大きな実のなる木を、
作詞者が思い浮かべたような気がする。
しかし、この歌は広まった。
愛唱され、沖縄に人々の目を向けるのに一役かったかもしれない。
イメージとしての沖縄に思いを馳せるだけなら、
ウージが森になろうとたいしたことではないかもしれない。
しかし、それは欧米人が映画などでステレオタイプな東洋モノを
見て、東洋のイメージを膨らませるのと似ていないだろうか?
そういうものが他者への理解の前提にあるとしたら、
正しい理解につながるのだろうか?
「ウージの森で・・・ウージの下で・・・」
この歌詞を聴く度に、
「違う、それは沖縄ではない」
私はそう思うわけである。
Date: 2007/06/26(火)


沖縄の歌
最近、ストレス解消に事務所でたまに音楽を聞く。
その中に沖縄の歌のCDがある。
いろいろな歌手が歌っているのだが、それを聞いていて気がついた。
沖縄の歌手は明るく沖縄を歌い、
本土の歌手は暗く沖縄を歌う。
(「本土」という言い方にはいささかの疑問があるのだが、
とりあえずここでは便宜的に「本土」と言う)
そのCDに、森山良子の「さとうきび畑」が入っているのだが、
以前は好きな歌だったのだが、夏川りみ・BEGIN・ディアマンテス、
彼ら沖縄の歌手達と聞き比べると、なにかが違う。
思い入れ過多というのか、情感過剰というのか、
他の沖縄の歌手の歌を聞いてから、森山良子の「さとうきび畑」を聞くと、
そのくどさに参る。
同じCDに加藤登紀子の「島歌」も入っているのだが、
どうもこれも何かが違う。
やはり思い入れ過多な歌い方なのである。
本土の人が沖縄を歌うとき、「沖縄だから」というある種のパターンがあるのではないか?
戦争であまたの人が死んだ沖縄だから、そういう情感が自然に入るのかもしれない。
それは理解できないものではない。
しかし、ステレオタイプなフィルターを通してものを見ていないか?
そして、そういう対象への眼差しは、実は傲慢なものを潜めていないだろうか?
Date: 2007/06/25(月)


見えるもの見えないもの
二種類の人間がいる。
見えるものしか見ない人間と、
見えないものを見ようとする人間である。
なにか問題を解決しようとするとき、
表面には見えていない問題の本質に迫ることの出来る人間と、
そうでない人間とでは、解決の手法も結果もかなり変わってくるだろう。
ビジネスに携わる者にとって重要な部分である。
同時に、忘れてならないのは、
見えるものしか見ない人間には、
見えないものを見ようとする人間の物事の進め方が、
なかなか理解できないということである。
ときには、そこに軋轢やすれ違いが生じることもある。
そういうことにいかに対処してゆくか。
相手が自分と同じ思考様式を持っていると思い込むのは、
えてして失敗につながる。
これは、ビジネスの世界に限らず言えることであろう。
Date: 2007/06/11(月)


税繁期終わる
税繁期が終わった。
この業界では農繁期・農閑期をもじって、
12月から5月を税繁期、6月から11月を税閑期と呼ぶ。
12月から5月までは、年末調整に始まり、
法定調書、確定申告、法人の三月決算と、
多忙な時期が続くわけである。
で、6月から11月の税閑期であるが、
これがホントに閑かというとそうではない。
早い話、12月から5月までと比べれば閑だという話で、
比較の対象にしているのが生半可な忙しさではない時期だから、
ハッキリ言って、そういう時期と比べて閑だと言っても
あまり意味はない。
ま、比較すればそれでも余裕はある時期と言える。
いずれにせよ、ここで少し骨休めをしたい気分ではある。
勉強もしなければならない。
ただ...。
大抵、そういうときに限ってスポットの仕事が飛び込んで来る。
去年もそれでだいぶ振り回されたんだよな...。
今年はどんな仕事が飛び込んでくるか、怖いような楽しみなような(^^;
Date: 2007/06/01(金)


論客を探してよ
支部の広報部長から電話があった。
彼 「本会の会報に載せる論壇の原稿を頼みたいんだけど、OK?
  うちの支部から出さないといけないんだ。」
私 「本会の論壇って、税務・会計の論述研究だろ。俺、なんにも 研究してないよ。」
彼 「なんとか頼むよ。事例レポートの書き手も探さなきゃ
ならないんだ。」
私 「事例の方はそれなりに面白い事例も経験してるから書こう
と思えば書けるけど、論壇の方はふさわしい人を探して
もらった方がいいね。論客を探してよ。」
彼 「うん、それで支部長に電話したら、真っ先に先生の名前が
出たから電話してるわけ。」
私 「冗談じゃないよ〜! 本会の広報は押し付けるし論壇は
押し付けるし。本会の広報は毎月二日間はつぶれるんだぜ〜、
  この忙しいのにさ〜。そのうえ論壇を書け? 
  支部長俺になにか恨みでもあるんじゃないの〜(^^;」
彼 「アハハ! いや、別に恨みはないと思うよ。う〜ん、じゃ、  事例レポートの方だけお願い。」
まったく...。
事例レポートも論壇も3500字以内。この忙しいのに書いてなんかいられないよ。
第一、 俺は本会の広報でそういう原稿をまとめたりしている方だよ。
なんで、その俺が原稿を書くのよ。
支部には200人いるんだから、論客を探してちょうだい(^^;;

Date: 2007/05/28(月)


無患子
短歌結社の結社誌5月号の自分の歌を読んで、アレ?と思った。

   「これ食うか?」夕焼け空に無患子の枝はあまたの実を差し出だす

この歌の「無患子」に「むくるじ」というルビがついていた。
もちろん、「むくろじ」の誤植なのだが、確か出詠したときは
ルビはつけていなかったはず。
選者の先生が添削でルビをつけてくれたわけだが、
このルビは必要だったのだろうか?
通常、ルビをつけるのは複数の読み方がある場合、
もしくは読むのが難しい字である。
ただ、どうなのだろう、基本的に前者にはルビをつけた方が
いいと思うが、後者は必ずしもルビは必要ないのではないか?
かりにも短歌をやる者は、読めない字があれば調べるぐらいの
姿勢は欲しい。塚本邦雄などは、やたら難しい字を使いながら
ルビはあまりふっていない。
選者の先生には申し訳ないのだが、
余計なルビであるような気がするのである。
それともうひとつ、
「無患子」は読めない字なのだなというかすかな感慨のような
ものを感じた。無患子の実は正月の羽根突きの羽の黒い部分に
使われ、実の外皮からは石鹸が作られたわけである。
詳しくは知らないが薬にもなったらしい。
「無患子」という字もそこからきているらしい。
かっては、そういう生活に密着した植物の名は大抵の人が知って
いた時代があったのだろうが、
そうなのだ、今は正月の羽根突きも見かけないし、
石鹸も薬も店で売っている。
「無患子」は読めない字になり、
晩秋から冬にかけて無患子の実が枝に沢山なっていても
誰も見向きもしないのであろう。
Date: 2007/05/25(金)


リリース
昨日はアーチェリーの射会。
毎月第一日曜日が通っている射場の射会なのだが、
短歌結社の歌会と重なっていて、殆ど出席できない。
たまたま昨日は最初の予定の第一日曜が雨で延期になったため、久し振りの参加である。
ちなみに通常、アーチェリーの試合は雨天実施である。
霧で的が見えないとか、雷で危険という状況でない限り、
どんなに雨が降っても試合は実施する。
昨日の場合は、射会が終わってからバーベキューの予定だったので、
先週からの延期になったのである。
で、肝心な成績だが...。
四十肩が回復してきてからの久し振りの試合だったのだが、
点数はイマイチ(^^;
どうもおかしい。矢が狙っているところの下にゆく。
なぜ落ちるのか、自分の射を振り返ってみるのだが、
普段と同じように撃っているはずである。
おかしいおかしいと首を傾げていると、一緒に回っている仲間に指摘された。
「リリースがおかしくなってるよ。」
なるほど、引き手が矢を放つときのリリースがおかしかった。
いわゆる「前に向かえにいく」という程ではないのだが、
矢を放つとき後ろにスパッと引き手が引けていなかった。
試しにそこを気をつけて撃ってみたら、
50mの撃ち下ろしがビシバシと当たる。
おかしいと気付いたときに自分の射をひととおり検討しているのだが、
自分では自分の悪いところに気がつかないのである。
こういうところは短歌に似ている。
短歌も自分の歌の問題点にはなかなか気が付かない。
Date: 2007/05/14(月)


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