*--Diary--*


底運  2011/01/13(木)
峰の原  2011/01/12(水)
仕事始め  2011/01/05(水)
昇欄  2010/12/29(水)
鎌倉  2010/12/28(火)
御前山  2010/12/24(金)
餅つき  2010/12/20(月)
連作  2010/12/15(水)
大山豆腐 小川家  2010/12/13(月)
迷走  2010/12/09(木)


底運
底運というものを信じている。
最後の最後のところの運。言うならば土俵際の運である。
3億円のジャンボは当たったことないし、
目の覚めるような美人と縁があったこともない。
決して運がいい男ではないのだが、
最後の最後の底運はいいと自分で勝手に信じている。
正月の峰の原のスキー場、昼食をとりにレストランに行ったとき迷子がいた。
「お母さん! お母さん! どこにいるの〜!?」と小さな男の子が大声で泣いている。
周囲の大人達は気にはしつつも様子見をしている。
その辺に親はいるのだろうが、当の子供にとっては人生の重大事である。
周囲がみな様子見をしているので、仕方なくその子のところに行き話しかけ、
その子を連れて階下に降り、スキー場の職員のところに連れていった。
で、それが終わってレストランに戻ったとき、なにやら違和感があった。
歩いていておかしい。
見てみると、スキー靴の踵のあたりが壊れている。
もう長く使っているスキー靴なのでプラスチックが劣化して壊れたのである。
こうなるともうスキー板にスキー靴がフィットしなくなるわけで、
仕方なくレンタルショップに行って修理できないか聞いてみた。
「これはもうダメです。プラスチックが劣化していますから他の部分も危なくなってます。
このまま滑れば事故になりますよ。この前も滑っているときにいきなりスキー靴が割れた人が
救急車で運ばれてゆきました。お客さん、滑っているときでなくて運がいいですね」
なるほどそういうものか。
そう言えば数年前、雪山から降りて車に戻ったとき、
履いていたプラスチックシューズがいきなり壊れたことがあった。
冬山でも靴が凍らずに履けるということで一時期流行ったプラスチックシューズだが、
プラスチックの劣化による事故が問題になり、最近はあまり履かれなくなった。
あのとき、雪山のど真ん中で靴が壊れていたら、どうなったのだろう?
どうやって下山したのか?
峰の原のスキー場で迷子を連れて余計な階段の上り下りなどして歩き回っていなかったら、
そのままスキーを履いて、滑っているときに靴が壊れてぶっ飛んだのかもしれない。
そうなっていたら大怪我をしていただろう。
思い出してみると結構そういうことがある。
ロッククライミングをしていて、先行していた仲間が大きな石を落としたことがある。
ビレイしている手元を見ていたので、「ラク!」という声に、何も考えず咄嗟に右に避けた。
左側を大きな石が落ちていった。
左に避けていたら、頭を砕かれて死んでいただろう。
右が安全だと思って右に避けたのではない、咄嗟に体が動いたのである。
それと同じように、なにかに守られているようになぜか危ういところで助かっているような、
子供の頃からそういう類のことが幾つかある。
友人は「つまり、悪運が尽きないってことなんじゃないの」と言うのだが、
悪運ではない、土俵際の運、底運である。
普通の運はそれほどよくないが、最後の最後、土俵際の運だけはいい。
自分でそう勝手に信じている。
自分は運がいいと思っていると運に頼りそうだ。
たぶんそれはいい結果を生まない。
運は決してよくない。
だから頑張るしかない。
でも、底運はいい。
だから大丈夫だ、くよくよ心配することはない。
そういう気持ちというのは実はとても大切なことである気がするのだ。
Date: 2011/01/13(木)


峰の原
20日までの源泉事務に追われて今年に入ってあまり日記に書き込みしていない。
ぼちぼちと書いてゆこう。
正月は子供達とスキーに行った。もっとも、正確に言えばスキーは私だけで子供達はスノボー。
長野の菅平の隣に峰の原という小さなスキー場がある。
子供達が小さいときから、正月はそこにスキーに行っていた。
菅平が大きなスキー場なので、そのすぐ隣の峰の原は結構空いている。
日本でも有数のペンションヴィレッジがあるのだが、
ここに泊まって、滑るのは菅平という人も多いのかもしれない。
空いているのでリフト券も安い。正月も三が日を過ぎると平日扱いで一日券が2000円を切る。
それでいてそれなりの斜面もあるので、子供を連れて行くには丁度いいスキー場である。
子供達が小さいときから同じペンションに泊まっている。
最初は先代で、今はその息子夫婦が経営している。
食事がなかなか旨い。夜は洋風のコース料理で朝はパン。
夜のコースも旨いのだが、朝食の自家製パンが美味しい。
ごはん党で朝食がパンだとテンション下がるという娘が、
このペンションのパンだけは気に入っている。確かに旨い。
先代は関西の方に今は住んでいるのだが、正月は戻ってくる。
「もう何年になりますか?」
「上の子もまだ小学校入ってなかったから...、13年ぐらい経ってますかね?」
「どうりで、子供達が大きくなるわけですね」
久しぶりに会った先代とそんな話をしていた。
そうなのだ。もう13年くらい経つ。
最初は子供達はソリで遊んでいたが、そのうちスキーで滑るようになり、
上の子などは高校生のときには私よりうまく滑るようになった。
このスキー場のリフトの終点あたりからは北アルプスの山なみが綺麗に見える。
そろそろペンションに戻ろうかという夕方など、
スキー場の上から見る茜に染まった雪の山並みは見ていて悲しくなるくらい美しい。
あの山なみを歩いていた頃があった。
槍ヶ岳、鹿島槍、白馬、五竜、唐松、立山。
みな白銀に覆われている。あんな美しい山々を歩いていたのだ。
冬の五竜の東壁を登りにゆき吹雪で登れずに逃げ帰ってきたのはいつだったろうか。
若い頃、歩いた山なみ。
これから自分が社会のなかでどう身を立てていけばいいのか分からない、迷う。
青春とはそういう時代である。
そういう迷いを経て人は大人になってゆく。
そういう時代に歩いていた山々は、歳月を経てもなにか大きな存在のように聳えている。
青春は悔いだらけだが、青春の舞台に山を選んだこと自体は後悔していない。
遠い山なみを見ている私の横を息子が滑っていった。
今年初めてスノボーをやるというので、スクールに入れと言ったが、
そんなもの入らなくていいと言う強情者の倅である。
あの強情は誰に似たのか?(^^;
学業はいまひとつだが、子供のときから運動神経だけはいい。
誰に教えられたわけでもないのに、それらしく斜面をスノボーで滑ってゆく。
スノボーは初めてなのに木の葉ではなく一人前にターンをしている。
そのあとにつくように気持ちのいい斜面を滑った。
13年お世話になっているペンションを紹介しよう。
スキーでしか行っていないので夏は知らないのだが、
峰の原でもガーデンの美しさでは有名であるらしい↓

   http://www.janis.or.jp/users/v.yama/

Date: 2011/01/12(水)


仕事始め
あけましてあめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

今日から仕事始め。
この時期は源泉関係の事務、法定調書の提出など、税理士は多忙である。
あれやこれやとやっていると電話がなった。
「○○税務署法人4部門の○○です。先生が関与されている○○物産さんの税務調査に
 お伺いしたいのですが」
「ああ、あの会社売上が伸びているから調査が来るだろうと社長と話してましたよ」
「ええ、確かに売上がかなり伸びているので、お伺いしたいのですが、来週あたりは」
「20日までは源泉があるから無理。そのあとも法定調書があるし...。
 2月の頭にしてもらえると助かるんだけど」
「2月ですか...、そうですね、じゃ、頭の方だといつ頃が御都合いいでしょうか」
新年そうそうの電話が税務調査かい(^^;
ま、税務調査は税理士の花道、戦ってこその税理士と思っているから別にいいんだけど。
さてさて、今年はどんなバトルがあることか(^^;;
今年も頑張っていきましょう。
Date: 2011/01/05(水)


昇欄
藤沢での今年最後の歌会が終わって外に出たとき、
ある人に話しかけられた。
「おめでとう」
「え?」
「その1への昇欄」
「ああ...、昨日、昇欄証が届きました」
私の属している結社では、誌面の欄に月集・その1・その2という区分けがある。
選者以下、会員はそれぞれの欄に属している。
選者とベテラン会員のなかで選ばれた人達が月集。
結社に入るととりあえず皆その2の欄に入る。
その2の会員の中から、結社への在籍期間が7年以上で推薦された者がその1に移る。
横浜歌会の岡部史さんから昇欄の話は聞いていたので、
自分が結社に入って何年経っているのか調べてみた。
8年だった。7年と思っていたのだが、もう8年経っていた。
8年愚直に詠ってきたわけか...。
「なんで知ってるんですか?」
「編集の手伝いで京都に行ったの。その場に居た人には永田さんが直接、昇欄証を手渡してた」
「ああ、それで」
「河野裕子さんの遺志よ」
「えっ?」
「新樹集に採られていたでしょ」
「ああ...、そういう意味ですか...」
今年亡くなられた河野裕子さん。
現代日本の女流歌人の代表と言って過言でない人だった。
私の歌を結社誌の新樹集や百葉集に採ってくださった。
私の歌を最初に評価してくれたのは、
河野裕子さんと横浜歌会の岡部史さんだったのではないかと思う。
たぶん、私の歌は河野裕子さんの初期の歌に似ているのだ。
それで目に止めてくれたのだろう。
韻律の張った様式性豊かな美しい歌。
確かに私はそういう歌を指向している。
それこそが歌だと思っている。
ただ、現代の短歌の潮流からいえば主流ではない。
それでも、私はそういう歌が好きだ。
しかし、そういう歌を詠い続けることは難しい。
河野裕子さんも歌が変わっていった。
激しい時代を経て平明な境地に達したように、歌が変わっていった。
私も変わらざるを得ないのだろう。
もちろん、「河野裕子さんの遺志」というのは実際の話ではなく、
その人の励ましの言葉であろう。
しかし、それはそれとして、
私の歌を評価してくれた河野裕子さんに私は応えられるだろうか。
歌が作れないというのが今、口癖になっている。
河野裕子さんが聞いたら怒るのであろう。
詠い続けることは苦しい。
おのれの限界に挑み続けるということである。
しかし、そういう表現者であることを選択したのは自分である。
河野裕子さんも最後まで表現者として生きた。
そういう人生を選んだ以上、詠い続けたいと思う。

今年のこの日記への書き込みは今日で終わります。
日記を訪れてくださった方々に心から御礼申し上げます。
また来年、この日記にて。
それでは良い年をお迎えください。
Date: 2010/12/29(水)


鎌倉
26日の日曜は湘南歌会、今年最後の歌会である。
今年も終わりなので歌会の前に鶴岡八幡にお参りに行こうと思い、午前中から出かける。
大晦日の晩から三が日くらいの鎌倉は初詣の人波で大変なことになるのだが、
歳晩はいたって静かである。
若宮大路も普段より人通りが少なく、人力車の兄さん達が手持ち無沙汰にしている。
八幡の境内もあちこちで初詣の準備で囲いを作ったり、ケーブルを引っ張ったり、
いろいろやっている。全身黒ずくめの学生達が大勢いるが、たぶん、
初詣の整理のアルバイトの連中が打ち合わせかなにかで集まっているのだろう。
今年の春に倒れた大銀杏、倒れた跡の根からひこばえが出ていたが、
それが沢山の枝になって伸びている。
よく見ると、その枝の先には固い芽の原形のようなものがついている。
大銀杏は生きている。
鎌倉の歴史を見てきた大銀杏は確実に蘇ってきている。
そういえば、今年の5月の湘南歌会は鎌倉での吟行だった。
そのときにこんな歌を作ったのだった。

  やり直し出来る気がする明るさに大銀杏なき空間はあり

詞書がないと鶴岡八幡の大銀杏だと分からないと思い、詞書をつけて結社に出詠したが、
栗木京子さんの選歌欄の秀歌のところに、詞書を外されて載っていた。
詞書がなくても通じたのであろうか?
八幡から東に行き、荏柄天神の方に行く。
この辺りは昔、幕府があった辺りで文字通り鎌倉の中心だったところである。
途中、左の方に白幡神社がある。頼朝の墓のあるところなので、ちょっと立ち寄ってみる。
鎌倉幕府の登場は日本史上の重大なエポックだった。
この国が律令制を基本にした古代国家から、
開拓武装農民から生れた騎士階級の支配する封建体制の国に変わったのであり、
それは古代から中世への歴史的転換を意味する。
それにしてはその歴史的事件の主人公のひとりである頼朝の墓は質素である。
頼朝の生前から幕府の北の山裾に建てていた小さな持仏堂が頼朝の墓所になり、
それが現在の白幡神社である。
急な階段を登ると苔むした五重の供養塔が立っている。
白幡神社も小さな神社だが、この供養塔もそれ程大きくはない。
それが頼朝の墓である。
その質素さに鎌倉という時代を思う。
ここからさらに東に行き左に入ると荏柄天神。
ここの境内には大きな銀杏がある。倒れる前の鶴岡八幡の大銀杏と比べれば小振りだが、
ここの大銀杏もかなり古いものであろう。
天神は関東にもあちこちあるが、その中でも荏柄天神はかなり古い。
学問の神なので子供達のことを願う。
ふと横を見ると紅梅が咲いている。
もう咲いているのかと驚いて見ると「鎌倉一の早咲きの梅」という札がかかっていた。
うーん...。
綺麗な紅梅なのだが、やはり梅は年が明けてから見たい気はする。
もう一週間ぐらいこの梅は我慢できなかったのであろうか(^^;
人の都合で勝手にそんなことを思うが、梅は梅で凛と咲いている。なかなか綺麗だ。
ここから来た道を引き返し、途中で朝比奈に続く道の方に出る。
その道をしばらく行くと左が宝戒寺。
鎌倉幕府滅亡後、北条氏の邸跡に建てられた北条氏を弔うための寺である。
北条の裔の裔のそのまた裔あたりにつらなっている身としては、
年末に手ぐらい合わせに行ってもよかろう。
境内は人も少なく静かだった。水仙が咲いていた。
初詣の前の鎌倉は人が少なく静かで良い。
見上げると青空に鳶が飛んでいる。
京都あたりだと見上げた空に飛んでいるのは鴉だろうが、
鎌倉では鳶である。
この辺も京都と鎌倉の違いか。
さて、歌会である。
まだ時間があるので、久し振りに江ノ電で海を見ながら藤沢に行くことにする。
Date: 2010/12/28(火)


御前山
23日、奥多摩で遭難した会員の奥さんを仲間達と御前山に案内した。
夫が好きだった山と最後に過ごしていた避難小屋を見たいという奥さんの希望だった。
大ダワの駐車スペースに集合し尾根伝いに御前山に登る。
捜索で何度も歩いた尾根である。
気温は低いが幸い天気が良く風もそれ程強くない。
向こうの雲取のあたりにはうっすらと雪が積もっているが、
御前山のあたりに雪が積もるのは年が明けてからである。
葉が落ちてすっかり明るくなった木々のなかを避難小屋に登る。
途中、富士が白く綺麗だった。
歩き慣れていない奥さんのためにゆっくり時間をかけて登り、
11時過ぎくらいに避難小屋に着いた。
御前山の避難小屋はちょっとしたログハウスのような雰囲気で作られている。
「こんなに感じのいいところだったんですか、主人がここが気に入るわけですね」
と奥さんが感心していた。
奥さんは小屋のほとりで持ってきた線香とタバコに火をつけ、
夫婦で高野山に行ったときに買ってきたという般若心経のテープを流して供養をした。
小屋からは遠くに関東平野の広がりが見える。
夜景はさぞかし綺麗だろう。
その遠く霞んだ平野を見ながら般若心経を聞いた。
テープから流れてくる声がいいせいか般若心経が心地良く聞こえる。
なんとなく気持ちが落ち着く。
お経というのもいいもんだと思った。
昼食のあと、小屋から御前山の頂上に登った。
雪をまとい始めた遠くの山並みが美しい。
「気持ちのいいところですね」
と奥さんが仰っていた。
もうすぐこのあたりの山も雪に埋もれる。
その前に彼が見つかって良かった。
雪に埋もれて寒い思いをしなくてすむ。
思い出話などをしながらしばらく遠くの山を眺め、大ダワに下山した。
Date: 2010/12/24(金)


餅つき
先日の日曜は通っているアーチェリーの射場の納射会。
一年の射ち納めをして、そのあと餅つきをするのが恒例になっている。
餅つきといえば、山岳会のザイル祭を以前は丹沢の山小屋でやっていて、
そこで餅つきをしていた。
小さい子供が来ていたりすると、餅つきが珍しいのであろう、結構喜んでいた。
餅米を炊いて、最初、つく前に杵でしっかりこねないといけない。
これが結構力がいる。
最近は餅つきをすることもないので、
そういうことを知らない人も多いのであろう、
ザイル祭の餅つきで以前、炊いた餅米を臼に入れたら、いきなり杵でたたいた若い会員がいた。
餅米が飛び散って、本人、エッという顔をしていた。
つきたての餅は柔らかくてするすると食べられる。
餡、黄な粉、大根おろし、雑煮、どれも美味しい。
生活の中での季節感が希薄になってきた現代、
年に一回、こんなふうに餅つきが楽しめるのは嬉しい。
帰りは射場の畑の大根を一本抜いて帰ってきた。
普通の大根は100円、聖護院は200円。
自分で畑から抜いてきて、筒の中にお金を入れることになっている。
今年もなんとか無事に終わったかな、という気分で帰ってきた。
Date: 2010/12/20(月)


連作
今年の夏、大阪でふたりの幼い子供が母親に放置されて死ぬという事件があった。
あまりの痛ましさにしばらくそのニュースが意識に張り付いて離れなかった。
かわいそうなその子供達のことをせめて歌にしてやりたいと思った。
事件から日が経ち、人々の記憶から消えてゆく。
その子達も忘れ去られる。
その子達はなんのために生れてきたのか。
なんらかの形でその子達のことを残してやるのは表現者としての務めだと思った。
その事件をテーマにして作った連作が今月の結社誌に載った。

   鬼畜という言葉死語にあらざれば子殺しの被る深き夏帽
   道端の鉢に朝顔咲いており空から降りてきたような青
   炎天のホームの人と人の間に影絵のごとく鳩は動かず
   夕暮れの道のほとりの道祖神ふたり並びて母を待つがに
   倒れ伏す子供ふたりに見えてくる「母」という字の小さきふたつ
   母性をまだ信じている歌詠みの説諭のごとき批評を聞きぬ
   高層の街を夏雲去りゆきぬ昨日の命今日の群青

結社誌を開いて最初に読んだとき、違和感があった。
連作の中で重要と思っていた歌が落されていることに気付いた。
出詠したときには、「鬼畜・・・」の歌と「道端・・・」の歌の間にこの歌があった。

   放置され死にしふたりの子のニュース耳に張り付き庭草毟る

歌としては、「放置され」「死にし」「耳に張り付き」「毟る」という動詞のつながりに
問題がある。歌を説明的にしてしまっているだろう。
しかし、連作の中では必要だと思っていた。
選者の真中朋久さんは選歌後記に私の歌のひとつを取り上げこう書いている。

   道端の鉢に朝顔咲いており空から降りてきたような青

  「重い主題の一連で読み応えがあるが、こういったさりげない嘱目が
  さしはさまれることが、陰影を深くしている」

連作を作るとき、連作のテーマの歌ばかり並べれば失敗する。
ところどころにテーマと関係ない嘱目詠を入れ、場合によっては時系列も外す。
そういう工夫が連作を成功させる。
そう思っていたので、真中さんの指摘は嬉しかった。
しかし、落された「放置され・・・」の歌。
この歌は連作の中では必要な歌であり、
これがなくなると、連作の前半に嘱目詠が続いてしまう。
連作としての歌の配置に問題が生じる。
もちろん、「放置され・・・」の歌が落されたのが一首としての完成度を判断したゆえであろう、
ということは分かる。
ここにもうひとつ、より完成度の高い歌を入れなければならなかった、ということか...。

悲惨な事件を詩に昇華するには時間が必要だった。
さらに言えば詩に昇華する力。
残念ながら今の私に詠えたのはここまでである。
Date: 2010/12/15(水)


大山豆腐 小川家
首を突っ込んでいるNPOの懇親ハイキングで丹沢の大山に行ってきた。
蓑毛からヤビツ峠に登り、そこから大山、
打ち上げに大山の参道で名物の大山豆腐を食べようという計画。
日頃のおこないがいいので、絶好のハイキング日より。
蓑毛から谷のなかの道をてくてく歩く。
登るにつれてどうも違和感がある。
なんだろうと思っていてふと気がついた。
周りが植林になっている。
確か以前はもっと自然林があった。
たぶん、自然林を切って植林したので記憶のなかの風景と違っているのである。
ヤビツ峠と蓑毛の間を歩いたのはいつ頃だっただろうか?
大山川あたりをのぼってこちら側に下りてきて、
ヤビツ峠でバスを逃してしまったので蓑毛まで歩いたことがある。
もう20年以上前だ。
ヤビツ峠に着いてまた驚いた。
駐車場が舗装され大きなトイレも作られている。道の反対側には売店もある。
確か昔は砂利の駐車場があっただけのような気がする...。
山の風景もかく変わるものかと思いつつ大山に向かう。
1時間程で頂上着。ここは昔と変わっていない。
ただ、昔と違うのは山ガール。
山を登る女子が増えたそうで、かっての山では考えられなかったようなファッションで登ってくる。
スカートをはいてその下にズボンなのかタイツなのかそんなのをはいている。
そんな彼女達を最近は山ガールというらしく、結構あざやかだったりする。
で、そういう女子にくっついてくる男がいるわけで、彼等もなにやらファッショナブルである。
最近の低山はこういう山ガールと中高年登山者に占領されつつあるようで、
そのうち山ガールの遭難騒ぎとかも起きるのであろう。
頂上で昼飯を食べ阿夫利神社の下社へ下る。
この道は巨木の多い道である。
阿夫利神社の神域ということで木を伐らなかったのであろう。
昔の丹沢はどこもみなこういう巨木の森に覆われていたに違いない。
下社から男坂をくだって参道に出る。
紅葉の季節も終わり、観光客はちょっと少なめか。
さて、打ち上げである。
阿夫利神社に奉納された豆で豆腐を作ったのが大山豆腐の始まりらしく、
美味しい水が豊富にあるところなので、旨い豆腐ができ名物になった。
参道には豆腐料理の看板が沢山出ているのだが、今回は小川家に入った。
小奇麗な感じの門をくぐり、中に入ると店の玄関がある。
予約していなかったのだが、女将が出てきて20分ぐらいお待ち頂ければご案内できますという。
椅子に座って待つ。壷に活けられた山茶花が綺麗だ。
しばらくして広い座敷に案内され、とりあえずビールと湯豆腐。
ほんとは猪鍋が食べたかったのだが、今日は猪鍋は出来ないということだった。
ちょうどよく冷えたビールを飲んでいると、湯豆腐がきた。豆腐は綺麗な絹漉し。
湯豆腐は火にかけて豆腐が上に浮き上がってきたときに取って食べるのが、
美味しいのだそうだ。
鍋が浅くて浮き上がるほど湯が入っていないときは、
豆腐がふるふると震えだしたくらいが食べ頃だという。
豆腐の外側が暖かく内側が冷たいくらいで食べるのが美味しいのだそうだ。
湯豆腐というと豆腐の中までしっかり温めて食べる気がしていたので、ちょっと意外。
その通りに食べてみる。
確かに旨い。
外側が温かく内側が冷たい、それぐらいで食べる方が、
しっかりと豆腐の味がするような気がした。
なるほど、湯豆腐とはこういうふうに食べるものかと感心。
食べ方もあるのだろうが、豆腐そのものも確かに旨い。
酒のつまみに豆腐の味噌漬けを出してくれたが、これも美味しかった。
女将がひとつひとつ説明してくれて、感じが良い。
店内は広い座敷の他に個室も幾つかあり、なかなか品がいい。
勘定のとき、猪鍋が食べられなかったのが残念というと、
女将が、それは申し訳ありません、今度おいで頂いたときはお肉を増量させて頂きます、と言う。
なかなか商売上手な女将である。
出来るだけ予約してくださいとのことだった。
確かに繁盛しているので、予約しないと満席で入れないこともありそうだ。
店の外に出るともう夕暮れである。
旨かった。これからは大山に来たら小川家で食べようと仲間達と話しながら、
人通りの少なくなった参道をバス停にくだった。
思いがけず見つけたいい店、小川家はこちら↓
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ogawaya/index.html
Date: 2010/12/13(月)


迷走
政治については誰でも評論家になれるわけで、
こういうブログでとくとくと政治について書こうとは思わないし、
出来るだけ書かないようにしている。
しかし...。
まぁ、なんというか、ここまでひどいとは思わなかった(^^;
去年の衆議院選挙の前、このブログに、
「馬鹿者にこれ以上任せられないから今度は愚か者に任せてみようか?
 それを決める選挙のようだ」
と書いた。
ホントに愚か者だったようで、こういう予言が当たってもあまり嬉しくはない。

管総理は社民党との連携を打ち出したが、
鳩山政権が崩壊したのは現実離れした社民党の主張に振り回されたのが一因だった。
福島瑞穂という人は不思議だ。
なぜ、あれだけ現実から離れたところで生きていられるのか...。
政権に再接近して嬉しくなったらしい彼女が従来の主張をさらに先鋭化させているのを聞き、
私は連合赤軍のリンチ事件を思い出した。
学生運動が下火になり、
かってのように自分達の主張に耳を傾ける者がいなくなってきた状況下で、
一部のメンバーが武装闘争の準備に入り、
山の中で次々と仲間をリンチで殺していった異常な事件だった。

周囲の支持や理解を得られなくなったとき、
人は二通りの反応をするのかもしれない。
ひとつは、なぜ理解してもらえないのかを冷静に考え、それに対処しようとする外向的な反応。
もうひとつは、理解を得られない孤立の中で内向していく反応。
学校のいじめなどで起きるのはこの内向的な反応であろうが、
内向的な反応の結果のひとつとして、
おのれの思想や行動をさらに先鋭化させていくというのがある。
おそらくその根底には自己防衛がある。
連合赤軍のリンチ事件がそれだった。
彼等は山の中で先鋭化し組織の防衛と維持のために総括という殺人を繰り返した。

福島瑞穂を見ていて連合赤軍のリンチ事件を思い出すというのも、
なにやら突飛に思われるかもしれないが、
彼女が従来よりもさらに主張を先鋭化させ、かなりはしゃいでいる姿に、
周囲の支持や理解を失ったなかで思想や行動を先鋭化させていくという、
そういう自己防衛的な反応の姿を感じるのである。
今までの思想や行動の否定は彼女にとっては人生の否定に他ならないのだろう。
アメリカは早速懸念を表明した。
普天間の問題はふたたび迷走するのであろう。
管総理は衆議院での数合わせのために社民党との連携を選んだわけだが、
数合わせと引き換えに多くの民主党の支持者を失うだろう。
来春、統一地方選挙がある。
遅くとも来年には政権が変わる。
もし、変わらずに管総理が「たとえ支持率が1%になっても」と言ったとおりに
政権にしがみついていたならば、
それは彼の政権の延命と引き換えに日本がさらに沈んでいくということである。
いずれにせよ、迷走はもう沢山だ。
そろそろ、この国が良くなる方向に動いてくれないと、ホントにこの国は沈む。
Date: 2010/12/09(木)


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