*--Diary--*


歌会における作者自解  2009/05/09(土)
歌会における「読み」  2009/05/06(水)
批評の言語化  2009/05/04(月)
16連休  2009/04/30(木)
基本  2009/04/23(木)
蕎麦  2009/04/21(火)
八海山  2009/04/20(月)
変額年金保険  2009/04/10(金)
会務  2009/04/08(水)
ふたりのイチロー  2009/03/25(水)


歌会における作者自解
歌会の話をもうひとつ。
作者自解について考えてみたい。
作者自解とは、作者が自分の作品について説明をすることだが、
歌会ではそれは必要なのか?
当日の歌会では、ある出席者が意味の分かりにくい歌について、
「作者の話を聞きたい。歌会の最後にそういう時間をとったらどうか?」と発言した。
確かに作者の話を聞いて、さらにその歌についての理解が深まる、あるいは
深く味わうことが出来る、そういうこともあるだろう。
だから、作者の話を聞いてみたいという気持ちは分かる。
しかし、そういうことは歌会が終わってからすればいいのではないか?
歌会が歌を読むトレーニングの場である以上、
参加者はとりあえず、その31文字のみで歌を読む。
歌会はそういう場であり、そのために限られた時間をフルに使っている。
仮に歌会の最後に作者自解の時間をとれば、それだけ歌の批評に使える時間は少なくなる。
で、それをして、どれだけの意義があるかという話になるわけだが、
少なくとも、読みのトレーニングとしては、作者自解を聞いてもあまり意味はないだろう。
短歌というものは、必ずしも作者の意図したように読まれるわけではない。
作者の表現が通じないということもあるし、
意図したものが作者の独りよがりだったということもある。
作品は作者の手を離れれば一人歩きをするのである。
だから、どう読まれるか、意図したものが通じるか、そういうことを試すために
歌会に作品を出す。
作者の自解を聞いて、それが自分の読みと違っていたから自分の読みが間違っていた、
ということではないのである。
作者の表現が届かなかった、そういうことも往々にしてあるわけである。
歌を読んで、そこにどういう世界を感じることが出来るか、それが大切であって、
作者の表現したかったものをクイズの答えのように当てるのが歌を読む目的ではない。
だから、私は基本的には作者自解は求めないし、
私自身強いて求められでもしない限り自解しない。
人によっては、最後の作者発表のときに自解する人もいるが、
「こういうことを表現したかったんだけど・・・もう一回練り直します」という感じの話は、
なるほどと思いながら聞いているし、参考になる場合もあるのだが、
とくとくと自解する人の話はほとんど聞き流している。
というか、とくとくと自解する人の歌というのは、大抵それほどいい歌ではない(^^;
歌会の目的からすれば、作者自解はそれ程意味がなく、
どうしても作者自解を聴きたければ、歌会が終わってから個人的に聞けばいい。
ちなみに、その歌会で問題になった分かりにくい歌だが、
その作者(歌会当日は欠席だった)のホームページを読んでいたら、
「作者の話を聞きたい。歌会の最後にそういう時間をとったらどうか?」と発言した御仁、
わざわざ電話をして聞いたらしい。
そこまでして知りたかったのか、と感心すると同時に、
で、知ってどうするつもりなのだろう? なんか意味あんの? と思ったのである(^^;;


Date: 2009/05/09(土)


歌会における「読み」
その日の歌会ではもうひとつ興味深い話があった。
ある歌についての批評に対して、
作者と作中主体は同一でなければならないのか?という疑問が提示されたのである。
問題になった歌は、若しも叶うことであれば、神田の古書店街を
ゆっくり歩きたいという内容の歌である。
私はその歌を読んだとき、交通事故あるいは高齢等の理由で歩けなくなった作中主体が、
若しも叶ならば若い時のようにもう一度、神田の古書店街を歩きたいと思っている、
そういう歌だと思った。
ちなみにその歌会にはそういう条件に当てはまる人はいない。
何人かの評者は、その歌会にはそういう条件に当てはまる人がいないということで、
その歌に違和感を感じたらしい。批評もその線に沿ったものだった。
それにたいして、作者と作中主体は一致しなければならないのか?そういう
問題提示がなされた。
現代短歌は花鳥風月を詠う和歌から離れ、「吾」を詠うことで新しい世界を切り開いてきた。
そのため、「吾」=「作中主体」=「作者」であることが多く、
基本的にそういう前提で読まれるわけだが、
別にそう決められているわけでもない。
作者が第三者を作中主体にして歌を作ることもあるわけで、
実際、著名な歌人の歌にもそういう作品は結構ある。
作者が第三者になりきって表現するというのは小説などでは当たり前のことだが、
短歌でもそういう表現の可能性はあるわけである。
従って、この歌会の参加者の中にこの歌の作中主体のような人がいないから、というのは
その歌の評価には関係のないことである。提示された疑問は妥当なものであった。
というか話を聞きながら、それ以前の問題ではないか?と私は思ったのである。
歌会というのは歌の「読み」を訓練する場であり、自分の歌がどう読まれるかを試す場である。
そうである以上、歌会における歌の読みは、その31文字のみでなされなければならない。
その31文字の表現から何が読み取れるか、それが詩として成立しているか、人に伝わるか、
それを問うのが歌会であるはずだ。
誰の歌とか作者の背景とかは関係ない。
もちろん、歌会以外であれば話は別である。
歌集を読むときなどは、当然に読者は作者を知っており、
作者の背景等も知ったうえで歌を読んでいる。
そういうことを知ったうえで歌を読むことによって、それらの歌をさらに
深く味わうことも出来るはずである。
しかし、歌会は違う。
歌会は訓練の場である。だからそこに出された31文字のみで読む。
問題になった歌についても、その31文字のみで読めばいいだけのことだった。
しかるに、この作中主体のような人はこの歌会の中にはいないから、などというのは、
その31文字以外の要素を入れて歌を評価しようとしているのであって、
それは歌会における「読み」から外れたものである。
歌会とはそういう場であるということを、しっかり理解していたい。


Date: 2009/05/06(水)


批評の言語化
いつも参加している短歌結社の横浜歌会。
今回は気になることがいくつかあった。
ひとつひとつ書いてみる。
まずは歌の読みについて。
私が気になった歌は夫婦の歌で、夫が怒って何か言っているわけだが、
怒ってだんだん大きくなるその声が、妻には「サビシイサビシイ」と言っているように
聞えてきたという内容の歌である。
歌としてはうまい歌で、表現にもとりたてて言う程の瑕はない。
しかし、私はなにかひっかかった。
うまい歌であるが、いい歌と思えなかったのである。
うまい歌といい歌はもちろん違う。
うまくても、つまらない歌、良くない歌はあるし、
うまくなくても人の心に響いてくる良い歌はある。
何人かの人がその歌を選歌し、選歌しなかった人の間でも概ね好評であった。
しかし、何か私はひっかかった。
短歌の批評は、その歌を読んで感じたとこを言えばいいだけの話だが、
自分の感じたことを言語化するというのは、結構難しいことである。
歌を読み、心のなかに広がるイメージ、湧き上がる情感、
あるいはかすかに感じる違和感、そういうものを批評として言語化する。
それがうまく出来ず、言いたいことが正確に伝わらないと
いうことは間々あることである。
私もその日そういう気分だった。
一歩高いところから妻が夫を見ている、という言い方も出来るかもしれないが、
それとも違うなにか。そのなにかを感じているのだが、うまく言語化できない。
どうも、うまい歌なのだがいい歌と思えないので、他の読みも試してみた。
ひょっとしたら、「サビシイサビシイ」というのは、夫が怒ってホントにそういう言葉を
吐いているのかとも考えてみたが、そういう読みもやはりおかしい気がする。
ことさら「サビシイサビシイ」とカタカナで書いているのは、そこに作者の意図があるわけで、
妻がそう感じたと受け取るのが自然なのである。
どうも釈然としない。
釈然としないまま歌会を終え、近くのファミレスでいつものように参加者一同和気藹々と
話をしていたのだが、その歌について作者と選歌した人が
話をしているのを聞いていて気がついた。
「夫って、子供と同じなのよ、気がついたら自分の後にいるんだもん」
「夫婦って、そういうのが一番うまくいくのよ」
私がその歌に感じた微妙なひっかかり、それはこれだった。
ある種ステレオタイプな夫婦像。
妻が夫を一歩高いところから見ている、というのとも微妙に違い、
一首がかすかにではあれステレオタイプな夫婦像を感じさせてしまい、
それがさらに作者の対象への眼差しの安易さとして感じられてしまうのである。
試しに、その歌の「夫」を「子」に変えてもその歌は成立する。
パターンにはまるのである。
「いろいろ言っているのはさびしいのだ」
一首がそういうパターンを感じさせるのである。
人の営みというものは単純に類型化できるものではなく、
ステレオタイプなりパターンを感じさせてしまえば、
その一首は深みのないものになるはずだ。
「サビシイサビシイと聞えてきた」と表現したことにより、
作者はこの歌を深みのないものにしてしまったのだ。
作者はそれを違う言葉で表現するべきだったのではないか?
慣れ親しんだ眼差し、と言い換えることは出来るだろう。
慣れ親しんだ夫婦の間でのそれは自然な眼差しであるはずだが、
文字における表現においては、慣れ親しんだ感覚による表現が、
安易さとして読者に伝わってしまうということはあるはずだ。
念の為に書いておくが、「安易な眼差し」というのは、
短歌の表現上の問題について言っているのであって、
現実の作者夫婦のことを言っているのではない。作品と作者は別である。
これゆえに私はその歌を「うまい歌」とは感じても「いい歌」とは感じることが
出来なかったわけだが、私はそういうふうに感じたことを肝心な歌会のときには
批評として言語化することが出来なかったのである。
感じたことを言語化するというのはかく難しい。
歌会の場で自分の感じたことを的確に言語化出来るよう、さらに勉強してゆきたい。

Date: 2009/05/04(月)


16連休
今年のゴールデンウィークは12連休とか16連休が結構あるらしい。
特に製造業では生産調整のために会社を休みにするところが多い。
景気のいい時代のゴールデンウィークで12連休とか16連休であれば、
余裕のある会社、待遇の良い会社、という印象であったわけだが、
100年に一度の不況という中での長期休暇は従業員にとって、
決して嬉しいものではあるまい。
「うちの会社、大丈夫なのかな?」
そういう不安を抱きながらゴールデンウィークに入った人も多いのかもしれない。
おまけに新型インフルエンザの不安が高まっている。
旅行業界はゴールデンウィークを直撃されて痛手であろう。
あるいは、今後さらに感染が広がれば経済活動にも影響が出るかもしれない。
ま、しかし、せっかくの休暇である。
とりあえずはインフルエンザの心配のない辺りでリフレッシュするのがいい。
人間、苦しい時に考え込むとろくなことはない。
そういうときはえてしてマイナス思考にものを考える。
やまなかった雨はなく、終わらなかった冬はないのである。
いつか道は開ける。そう信じてとりあえずは羽を伸ばすのがいい。
Date: 2009/04/30(木)


基本
4月11日〜12日の週末で山梨に泊まりがけでアーチェリーの試合に行ってきた。
成績が絶不調でブログに書くのも恥ずかしいのだが、
92点というまるで初心者のような点を射ってきた。
さすがに沈み込んでいたのだが、
次の週の日曜は137点。
一週間で45点の点差、この点差はなんなのか?
基本的なことを全くやっていなかったことに気が付いた。
肩を入れ、肘を返し、胸を開いてしっかり弓を引く、狙いを定め矢を放つ。
当たり前にやるべき基本的なことなのだが、
そういう当たり前のことが、気が付くとなおざりになっているのである。
よく言えば楽に、はっきり言えば安易に射っている。
1月に140点を射って以来、「俺は出来る」という自信が安易な弓につながっていた。
あるいは仕事でもそうなのかもしれない。
基本をいつの間にか忘れ、楽に安易に遣り慣れた方法で人は物事を片付けようと
するのかもしれない。
基本をしっかり抑えて物事に対峙する。
そういう姿勢は仕事であれ何であれ、
遣り慣れれば遣り慣れるほど忘れてはいけないはずである。
ハーフラウンド92点という無様な成績、そしてその一週間後の137点。
45点の点差が意味するものをしっかり受けとめたい。
Date: 2009/04/23(木)


蕎麦
生まれは東京なのだが、江戸っ子という意識はない。
江戸っ子というのは東京の下町、それも厳密にはかなり限定された地域の
出身者を言うらしく、そういう意味では私は江戸っ子ではない。
ま、生まれ住んでいたところは狭い路地の下町のような街なので、
広義の江戸っ子には入れてもらえるのかもしれない。
その江戸っ子は蕎麦が好物なんだそうで、食べ方にも講釈がある。
蕎麦を汁に全部つけて食べるなどというのは、
江戸っ子の風上にも置けない無粋ということになる。
今日、午前中の仕事が思ったより長くかかり、午後の予定のところにそのまま直行。
昼飯も食えないかと思ったが、案外と道が空いていたので途中の蕎麦屋に入った。
品書きを見ながら、たまには蕎麦らしい蕎麦を食べてみようかと、天せいろを注文。
蕎麦は「せいろ」である。
ああだこうだ余計なもののついていない「せいろ」が一番蕎麦本来の味を味わえる。
しばらくして出てきた天せいろ、蕎麦の色あいは悪くない。
なにを隠そう、普段の私は蕎麦を汁にたっぷりつけて食べるという、
江戸っ子の風上にも置けないヤツなのである。
落語にも江戸っ子が死ぬときに、
「一度でいいから蕎麦を汁にたっぷりつけて食べてみたかった」と言うのがある。
色あいの悪くない蕎麦を見ているうちに、
たまには江戸っ子らしく蕎麦を食ってみるかという気になった。
まず蕎麦をほんの少し取って、汁につけずに食べてみて味を確かめる。
次に汁を少し口に含み、こちらの味も確認。
それが済んだらおもむろに蕎麦を取り汁に半分ほど付け、あとはズズッと啜りこむ。
最初に蕎麦と汁の味を確かめるのは、蕎麦を汁にどれくらいつけるかを判断するわけで、
汁の味が濃ければつけるのを少なくするし、薄ければ多くする。
下半分くらいしか汁につけないので、箸でつまんでいる方には汁がつかないわけだが、
ズズッと啜りこむので結局、口の中で一緒になるのである。
その一緒になる前に蕎麦本来の味を味わい、そのあと蕎麦と汁で食べるわけである。
そのために蕎麦はズズッと啜りこむ。
だから、蕎麦を食べるときにズズッと音をたてて啜りこむのが下品だなどというのは、
基本的に蕎麦という食文化を知らない人間の言うことなのである。
今日の蕎麦はどうしてどうして、なかなか悪くなかった。
ただ、一緒に出てきた天麩羅がちょっと甘い感じがしたのが残念。
もう少し衣が薄ければ素材の味が生きた天麩羅になりそうだが。
江戸っ子式の蕎麦の食べ方はいい蕎麦にあたれば確かに美味しい。
決して気取っているわけではなく、それなりに合理的な理由のある食べ方である。
ただ、最後にふと思った、
最後のひとつまみぐらいはたっぷり汁につけて食べようか、と(^^;
やはり江戸っ子の風上にも置けないヤツなのである。

Date: 2009/04/21(火)


八海山
八海山に登ってきた。越後三山のひとつ、近くに五十沢渓谷があり、
そこのキャンプ場は子供達が小さい頃から毎年ゴールデンウィークに
キャンプしていた場所である。
今年は残雪が少ない。
4月の中旬だが、例年で言えば残雪の少ないゴールデンウィークぐらいの雪の量。
今までにも残雪の少ない年というのはあったが、今年はかなりのもので、
このぶんでいくと大型台風でも来ない限り、夏は渇水になるのかもしれない。
六日町のあたりはちょうど桜が満開で、
八海山のスキー場も麓は桜、中腹にはタムシバの白い花が沢山咲いていた。
ロープウェイを降りて雪の稜線を登ってゆくとマンサクの黄色い花も咲いている。
妙高や北アルプスまで見渡せる好天で、後を振り向くと日本海の水平線が見える。
その水平線を追っていくと、かすかな起伏があることに気が付いた。
佐渡島か?
子供を連れて残雪の八海山には毎年のように登り、この風景も何度も見ているのだが、
水平線のかなたにある起伏に気が付いたのは初めてである。
それぐらいかすかな起伏であり、霞んでいれば気が付かなかっただろう。
女人堂の小屋で一休みし、頂上を目指す。広やかな雪の斜面を登りきると、
八海山の岩峰が姿を現す。
駒ケ岳、中の岳、その向こうに奥利根の山稜が白く連なっている。
頂上でしばし休憩して下山。
ロープウェイの係員に聞くと、やはり水平線のかなたの起伏は佐渡だった。

 荒海や佐渡に横たふ天河

春は霞で遠くが見えにくいが、空気の澄んだ季節。女人堂の小屋で
泊まれば佐渡に横たう天の川を見ることが出来るかもしれない。
Date: 2009/04/20(月)


変額年金保険
子供の学資保険が満期になったので郵便局に手続きに行った。
払い出しにしばらく時間がかかるということで椅子に座って待っていると、
局員がするすると近づいてきて「お客様、このようなものはいかがでしょう?」と
話しかけたきた。
郵便局も民営化されて営業的になってきたらしい。
渡されたパンフレットには「変額年金保険はゆうちょ銀行で」と書いてあった。
くだんの局員、一生懸命説明してくれる。
「お預かりした保険料を運用しますので、損をするときも得をするときもあります。
でも、損をしたときはうちの方で負担しますので、お客様は決して損はしません。」
あれ?
手渡されたパンフレットにははっきり書いてある。
「受取合計額がお払い込みいただいた保険料を下回ることがあります」
....?
これは、局員が自分のところで扱っている商品を理解しないで
誤った説明をしているのか?
あるいは、パンフレットに書いてあることは建て前で、
ゆうちょ銀行は契約者が変額年金保険で損した場合、
それをゆうちょ銀行が負担するということで売っているのか?
変額保険に関しては一部の税理士が金融機関とつながって販売し、
損をした顧客から訴えられたケースがあった。
民間になった郵便局員さん、営業に一生懸命なのだろうが、
ちょっと変額保険の説明にしては安易ではないのか...?
まだ金融マンとしての研鑽が足りないのか、あるいはホントに
ゆうちょ銀行は損を負担するのか?
しばし、パンフレットを手に考え込んでしまった(^^;
Date: 2009/04/10(金)


会務
税理士会での二年間の会務が終わり、先月の末、その部会の打ち上げをやった。
月に2〜3日はつぶされるという激務だったが、出産等の特別な事情を除き、
部員全員が殆ど皆勤に近いという精勤振りだった。
その仕事をしたからといって何か見返りがあるわけでもないのだが、
一度引き受けた仕事はやり抜く。
皆たいしたものである。
本会での仕事が終わりほっと一息ついたのも束の間、
4月からは支部の会務に出ることになった。
早速、その部会の顔合わせと懇親会。
ま、若い部員が元気にやってくれそうなので、それなりに楽しめるだろう。
それにしても、私のような子持ちの寡父税理士を会務に引っ張り出さないといけないと
いうのも、税理士会の人材不足の結果。
高齢化が進めば会務に協力出来る若い会員が減るわけで、
これから先どうなるものやら?
誰かがやってくれるだろうということで皆が参加しなければ、
どんな団体も成立しなくなる。
新入会員の積極的な会務参加を期待したい。
Date: 2009/04/08(水)


ふたりのイチロー
WBCで日本が優勝した。
決勝戦でのイチローの活躍は素晴らしかった。
彼は日本チームのリーダーだった。
決勝戦が始まるときマイクが拾った
「世界一を取りに行くぞっー!」
という彼の声はチームを奮い立たせたのかもしれない。

同じ日、もうひとりのイチローが涙を流した。
小沢一郎民主党代表。
政治資金をめぐる疑惑での記者会見。
最初の検察批判は影を潜め、支持者の方々から励ましの声を頂いたと涙ぐんだ。

リーダーはチームを引っ張らなければならない。
進むべき道を示し、チームを勇気付け奮い立たせなければならない。
政治家はときには鉄の意志が必要なはずだ。剛毅さも必要だろう。
小沢一郎の涙が本心か戦術かは知らない。
田中真紀子も涙を流したことがある。
しかし、いずれにせよ、
涙を流すリーダーは周囲を奮い立たせるリーダーではあり得ない。
昨日のふたりのイチロー。
それはリーダーの在り方を問うもののようだった。
Date: 2009/03/25(水)


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