*--Diary--*


四国 道後温泉から金比羅さんへ  2010/08/27(金)
四国 全国大会  2010/08/26(木)
四国 しまなみ海道  2010/08/25(水)
河野裕子さん その2  2010/08/19(木)
河野裕子さん  2010/08/13(金)
優勝  2010/08/10(火)
東京平日歌会  2010/08/06(金)
無題  2010/08/04(水)
笹子川滝子沢  2010/08/02(月)
湘南歌会  2010/07/28(水)


四国 道後温泉から金比羅さんへ
初日のスケジュールが終わって、
会場から宿泊先の温泉まで河村壽仁さんと話をしながら歩いた。
河村さんという方はなかなか面白い人で、ユニークな歌を詠む。
歌会は無記名でやるわけだが、この人の歌はユニークなので、
すぐに河村さんの歌と分かってしまう。
もう少し現実との接点を失わないように作れば、
もっと読者に伝わるように独特な世界を立ち上げられそうな気はするのだが、
その辺はその人その人で表現したい世界があるのであろう。
大会の方はこのあとホテルで懇親会をやり、明日は歌会・全体歌会となるわけだが、
私は家族旅行を兼ねているので、初日だけの参加。
今日は別のところに泊まり、明日は金比羅さんを詣でて鳴門に向かう。
とぼけて懇親会に紛れ込んでも分からないでしょうと河村さんに言われたが、
子供達を置いてゆくわけにもいかず、ホテルの前で別れた。
翌朝、まだ早いうちに道後温泉本館に入りにゆく。
本館の手前で見覚えのある人が来るなぁと思ったら、花山多佳子さんだった。
朝の散歩をしていたのだろう、私に気付き会釈しながら笑っている。
歌会でいつも歌の瑕を厳しく言い立てている私が、
浴衣姿でひょこひょこ歩いていて可笑しかったのであろう(^^;
道後温泉本館は夏目漱石の『坊っちゃん』にも出てくる有名な協同湯である。
築100年以上、国の重要文化財である。
朝早くからもう入浴客が結構来ている。
入浴券を買って中に入ると廊下に昔の写真やここで撮られた映画の写真などが飾られている。
かなり旧い建物だが天井は高く圧迫感はない。
二階に上り案内されながら順番に風呂に入ってゆく。全部で三つある。
小説の中で坊ちゃんが泳ぐシーンがあったので大きいのかと思ったら、
案外ひとつひとつの風呂は小さい。
東北や北海道で野趣ある大きな露天風呂に入り慣れていると、
なんだこの程度の風呂かという気分にはなるのだが、確かに体は温まる。
風呂に入り終わってから二階の座敷でお茶とお菓子が出て休憩する。
窓側に座ると風通しが良くて気持ちがいい。何人か観光客がこちらにカメラを向けている。
重要文化財の建物で風呂に入り浴衣で休憩できるというのもなかなか気分がいいものである。
食事後、ホテルをチェックアウトして琴平に向かう。
ポリシーとしてカーナビは使わないのだが、高速道路から下り田圃の中の田舎道を見当つけて
走っていたら金比羅宮の表示が出てきて、案外すんなりと着いた。
カーナビを使わないと地図を読み周囲を見、頭を使う。
道具が便利になり過ぎると頭を使わなくなるのでバカが増える。
だからポリシーでカーナビを車に付けていない。
聞いてはいたが、金比羅さんは階段が凄い。
以前、山形の山寺に行ったときも階段は凄かったのだが、別に腹は立たなかった。
今回は登っていて腹が立ってきた。
どういうつもりでこれだけ階段を登らなきゃならんところに神社を作る?
そういう気分(^^;;
たぶん、酷暑のせいである。
山寺に行ったのは晩秋だった。今回の金比羅さんは酷暑の夏の真昼間。
腹も立とうというものである(^^;;;
金比羅さんというのは十二神将のひとり宮比羅大将から名前が来ている。
水運の神である。
この近くの塩飽水軍に深く信奉された。
この山自体が海上から目印になった山なのであろう、その山に水運の神を祀ったわけである。
海の上から目印になるような山だけあって、
これだけの階段を登らなければ神様のところに辿り着けないわけである。
汗だくになって本宮に着いたところで、子供がもうここまででいいと言い出した。
本当はこの上に奥社があり、そこまではさらに500段くらいの階段を登るらしいのだが、
そちらに登りに行く者は誰もいない。
他の参拝客も皆、本宮がゴールであると了解しているようである。
我等も素直にそれに従う。
本宮ともうひとつの建物が長い廊下で繋がっているようで面白い構造をしている。
本宮の脇の楠が大きく、トトロが出てきそうだと子供が言っていた。
讃岐平野が見渡せて讃岐富士が印象的な形で見える。
参拝してしばらく周囲を眺めてから再び長い階段を下り、
参道の店に入りかき氷でしばらく体をさましてから、昼食に名物の讃岐うどんを食べる。
走ってくる途中にもいかにも地元の人だけが入るような讃岐うどんの店が幾つかあったが、
そういう店だと注文の仕方が観光客には分からない。
「ひやひや」とか「ひやあつ」とかなんのこっちゃ?という感じなのだが、
さすがにこの参道の店は観光客相手なので「ぶっかけ」とか「かけ」くらいで、
それ程、注文に戸惑わない。
あったかいかけにじゃこ天を載せて食べてみる。
汁もほどよく美味しかったし、麺も旨かった。
なるほど天下の讃岐うどんである。しかも安い。
ちなみに、うどんを食べたのはこの店↓
   http://www.nakanoya.net/tentekomai/index.html
ここからさらに鳴門に向かう。
今日は渦潮を見て鳴門のホテルに泊まることにしている。
Date: 2010/08/27(金)


四国 全国大会
今年の全国大会、初日は道後温泉の子規記念博物館で、
講演、歌合、シンポジウムのスケジュール。
とりあえず昼食である。道後温泉本館の近くの店に入り、
子供達とこの辺りの名物の鯛めしを食べる。
普通の御飯と鯛の刺身が出てきて、その刺身を御飯の上に乗せてタレをかけて食べる。
ちょっとタレが甘い。
関東ならもう少しタレを辛くするだろうなと思いつつ食べるが、それでも美味しい。
このあと子供達はホテルのチェックインの時間まで自由行動、
私は会場の子規記念博物館へ。
会場でまずは、久し振りに会った何人かの人と挨拶をする。
自分から進んで顔を売る方ではないので、挨拶するのもほんの数人の知り合いだけ。
あとは顔は知っていても、先方から話しかけられなければ特段話しかけもしない。
全国大会は滅多に会えない会員同士の親睦を深める場、というのが第一義であるらしいが、
それよりも、いい歌に触れいい話を聞きたいと思っているので、
親睦の方はどうでもいいと思っている(^^;
講演は博物館の竹田美喜館長の正岡子規についての話だったが、
語り口が巧みで、内容よりもそちらの方に聞き惚れてしまった(^^;;
教師をずっとやってきた人であるらしく、話すのはお手の物なのであろう。
結社の全国大会恒例の歌合は毎回のことだが、
いいコメント、苦しいコメントがあって、聞いていて楽しい。
ともかく自分のチームの歌はどんな歌であっても褒めなければならず、
相手の歌はどんなにいい歌でも問題点を指摘しなければならない。
相手の歌の方がいい歌だなと心の中で思っていても、
自軍の歌を褒め、相手の歌をけなさなければならないわけで、
なかにはエッ!と思うような迷コメントもあるわけだが、
その辺はお互いに承知の上でやっているので結構笑える。
一人当たりの発言時間の制限があり、
肝心なところを言おうとしてチーンと鐘が鳴ってしまうことが何度もあった。
発言している方は尻切れトンボになってしまって、うーん、という感じなのだろうが、
聞いている方は、こういうことを言いたかったんだろうなとニヤニヤしながら
聞いているわけである。
それはそれとして、両者の発言機会の公平を保つためにも
発言の時間制限はやはり必要であろう。
しばらく前、横浜歌会でも歌合をしたのだが、
時間制限をしなかったため、その辺の公平は確保できていなかった。
歌合の中でひとつ面白い歌があった。
中国の西域の方の都市、そこの泉のほとりにザックをおろした息子を見て、
息子のはらわたはまだ乾くのか、という歌意の歌。
私は最初、親子で一緒に旅行していて、
泉のほとりで休憩して水を飲んでいる息子を見て詠っているのか、
と思った。上句がいかにもそういう感じだったのだ。
上句の表現には問題を感じたが、
下句の、息子のはらわたはまだ乾くのか、という表現は面白いと思った。
最初の会場での判定のとき、私はその歌の方に札を挙げた。
瑕はあるがいいところのある歌の方を採った。
会場の大部分は相手側の歌の方に札を挙げていた。
そのあとの評者達の批評。
「息子がこうやって世界を放浪している。そういう息子の精神の乾きをうまく表現している」
その評を聞いてハッとした。
そうなのだ、作者は息子と一緒に旅をしているわけではないのだ。
この歌の情景は、息子が旅先から送ってきた写真を見ているのだ。
西域の都市、そこの泉のほとりにザックをおろしている息子の写真。
息子はまだ世界を歩き回らなければ気がすまないのか、息子のはらわたはまだ乾くのか。
写真を見つめる愛情と素朴な心配の入り混じった親の気持ち。
そういう歌だったのだ。
ああ、読めていなかった、と思った。
ただ問題はやはり上句である。
この上句では、一緒に旅をしているという印象が出てしまう。
その辺を推敲すればこの歌はいい歌になる、そう思った。
最後の判定で再びその歌に札を挙げた。
会場の判定は圧倒的に相手方の歌だったのだが、
私の前に座っていた江戸雪さん、横の方に座っていた澤村斉美さんも、
私と同じ歌の方に挙げていて、
分かる人には分かるのだと、ひとりで勝手に納得したのである(^^;;;
最後のシンポジウムはちょっとイマイチだったかな..。
もっとも、テーマが「よい歌とは」といういかにも抽象的なテーマなので仕方ないのではある。
ただ、例にあげられた歌のひとつひとつの評については、
もう少し深い評を聞きたかった気はする。
横浜歌会で岡部史さんのもとで学ばせてもらい、
岡部さんの、深いところから一首を読んでくる批評、
一首のよって立っている根底のあたりから歌を批評するような...、そういう批評。
もちろん、いわゆる深読みとはまったく違う、そういう批評を聞いて勉強してきた者には、
ちょっと表面的な評に思えた。
そんなこんなの初日のプログラムだったが、なかなか面白く参加して良かったと思った。
最後に挨拶をした花山多佳子さんが、亡くなられた河野裕子さんのことに触れたとき、
少し言葉をつまらせたのが印象的だった。
Date: 2010/08/26(木)


四国 しまなみ海道
本州の尾道から四国の今治へ、
芸予諸島の島々を縫うようにして「しまなみ海道」が瀬戸内海を渡っている。
ちなみに、「街道」の誤記ではなく「海道」である。
実際に走ってみると、幾つもの橋で島と島を繋ぎ海を渡っていく道は確かに海の道、
「海道」であると実感できる。
所属している短歌結社の全国大会が今年は愛媛の道後温泉。
大会の方は初日の一般公開のプログラムだけの参加にして、
家族旅行を兼ね四国を旅して来た。
金曜の夜に車で出発、東名から伊勢湾岸・東名阪・新名神と高速道路をひた走る。
途中、新名神の土山SAで車を止め仮眠。夏に車で仮眠する場合、暑さが問題なわけで、
エンジンをまわしてエアコンをつけてないと暑くて寝られなかったりするのだが、
幸いその夜は比較的しのぎやすい気温だった。
翌早朝、というか夜の明けないうちに出発。
高速道路をさらに西へ走り途中のSAで朝食、8時にはしまなみ海道に入った。
四国も車で行けば夜出て翌朝には着ける。
ただし、この日の睡眠時間は土山SAでの仮眠2時間半だけ。
ま、その辺は辛抱である(^^;
しまなみ海道に入る前に、しまなみ海道が通る島のひとつ伯方島に住んでいる歌友に
メールした。同じ短歌結社の人で私と前後して入会した人である。
入会前にしばらく短歌のMLで歌を作っていたのだが、そこからの知り合い。
彼女はなんでも昔この辺りで活躍した村上水軍の末裔であるらしい。
村上水軍というのは南北朝の時代から戦国末期まで活躍した瀬戸内海の海賊である。
海賊というとパイレーツみたいな略奪ばかりしている連中が浮かびそうだが、
村上水軍はパイレーツではない。
今回、しまなみ海道を走ってみて気が付いたのだが、
海道から見える範囲では途中の島に水田がなかった。
平地が少なく気候的にも雨が少ないこの辺りの島では昔から水田はあまり作れなかっただろう。
もともと農耕に不向きな島であり、不作で飢えたとき、
目の前の瀬戸を通る船を見て一斉に漕ぎ出し、
「通りたければ金を出せ、出さないなら荷物を置いてけ」というのが、
瀬戸内海の海賊の始まりだったのだろうが、
彼等はやがて海の領主へと変質していく。
帆別銭という通行料を取るかわりに域内の安全通行を保証した。
船主の方にしてみれば安全のために兵士を雇っていくよりも、
帆別銭を払って安全を保証してもらう方が安くすむので、需要と供給が一致し、
海賊による安全保障のシステムが機能したわけである。
言うならば、中世日本の瀬戸内海にはパクスロマーナならぬパクス海賊という平和があった。
彼等は周囲の戦国大名に雇われて働き、木津川の河口で信長の鉄甲船と戦ったりもしている。
しかし、戦国の世の終わりとともに海賊の時代も終わる。
海賊ではなく、秀吉、次いで徳川幕府により瀬戸内海の航行の安全が保証されることになり、
海賊達は帆別銭という収入源を失い、海の領主としての水軍は姿を消す。
もっとも、戦いで滅ぼされたわけではないので、水軍の子孫はその後も瀬戸内海で海運や
漁業で身を立てたのであろう。幕末、咸臨丸が太平洋を渡ったとき、
その乗組員の大部分は瀬戸内の塩飽諸島の出身者だった。
水軍の血は脈々と流れていたわけである。
大島のインターを降りたところで彼女と落ち合い、村上水軍博物館まで案内してもらう。
博物館の駐車場で挨拶し手土産をもらう。
蜜柑と彼女の家の畑で作ったレモン、地元のお菓子と白石一郎の『海狼伝』であった。
『海狼伝』は村上水軍を題材にした小説である。
あとでゆっくり読ませてもらおう。
滅多に会えない歌友なのでほんとはもっとゆっくり話がしたかったのだが、
家にお子さん達が帰省しているとのことで、簡単な挨拶だけで別れた。
いずれまた会う機会があればゆっくり話をしたい。
短歌の友人は長く会っていなくても歌という共通の話題がある。
博物館を見たあと、再びしまなみ海道に入り今治から道後温泉に向かう。
道後温泉までは一時間ほど、昼前に到着した。
Date: 2010/08/25(水)


河野裕子さん その2
私の属している短歌結社の結社誌には百葉集と新樹集という欄がある。
百葉集はその月のもっとも優れた作品20首(一首単位)の特選欄、
新樹集はその月のもっとも優れた作品10編(一連単位)の特選欄であり、
永田和宏主宰と河野裕子さんがその選をしていた。
お二人は通常の選歌欄を受け持っておらず、
他の選者の選んだ歌の中から百葉集と新樹集に載せる歌をお二人が再び選をするわけで、
毎月、膨大な数の歌を読んで選歌をする作業は大変なものであろう。
選歌で命を削ったという歌人の話も聞いたことがあるくらいである。
いずれにせよ、そういう選歌の仕組みになっているので、
私が河野裕子さんとの接点を感じることが出来るのは百葉集と新樹集だけだったわけである。
もちろん、河野さんと永田さんはすべての詠草に目を通すので、
私の毎月の詠草は読んで下さっていたはずであるが。
河野裕子さんがお亡くなりになり、
過去の結社誌を引っ張り出してみた。
私の歌が誌面に出るようになったのは平成15年からである。
で、初めて百葉集に載ったのはその年の6月号であった。

  ほの暗き夜に浮かべる病棟へ吾子を背負いて坂下りゆく

この歌が河野裕子さんが始めて認めてくれた私の歌だったわけである。
新樹集の方は初めての掲載は18年の11月号だった。
今回調べてみて初めて気がついたのだが、
初めて新樹集に出るまで3年と11ヶ月かかっているわけで、
人によってはもっと早くそういうところに名前が出るのだが、
私は河野裕子さんにとって不肖の弟子だったわけである。

  開拓の跡地に続く林道の中程にあり首括りの木
  開拓の跡地に咲ける山百合の花重たげにやや傾きぬ
  蚋多く外に出られず佝僂病になりし子の家崩れてありぬ
  満蒙より帰り荒地に入植し荒地に消えし戦後なりけり
  案内の老人ぼそりと吾に告ぐ「役人はいい土地だと言った」
  荒地には棄民の歴史刻まれて人佇つごとき山百合の群れ

その後の数年間、百葉集・新樹集に載るときはいつも河野裕子さんの選だった。
永田和宏さんには採って頂けなかった。
おそらく歌の志向の違いだろうと思った。
河野裕子さんの歌は最近こそ自然に日常を詠った歌が多かったが、
若い頃のそれは、韻律の張った様式性豊かな美しい歌である。
言うならば「立つ歌」が多かった。
私の志向するのがどちらかと言えばそういう「立つ歌」なので、
河野裕子さんはそれで私の歌を理解してくださったのかもしれない。
「立つ歌」は今難しい。
現代の短歌の世界では主流ではあるまい。
主流は肩肘はらずに日常を詠う歌、言うならば「寝る歌」である。
選歌は選者からのメッセージ、ということを言った人がいた。
なぜ、その歌を採ったか、
なぜ、他の歌は採らなかったか、
そこに選者から作者へのメッセージがあるという。
河野裕子さんに幾つかの歌を選んで頂いた。
なぜ選んだのか、そこにメッセージがあるはずである。
そのメッセージを心に刻み、自分の歌を詠い続けていきたいと思う。

結社誌を見ると、先生は今年の6月号まで選をなされている。
既に癌で体はぼろぼろだったはずだ。
その体で最後まで選歌をされていた。
最後まで短歌のために働き続けた。
先生、御苦労様でした。
ゆっくりお休みください。
Date: 2010/08/19(木)


河野裕子さん
歌人の河野裕子さんが亡くなられた。
現代日本の女流歌人の代表と言っていい人である。
結社の全国大会で講演や批評などを何度か聴いてはいるが、
直接話をしたことはない。
私の歌を何度か結社誌の新樹集に採ってくださった。
癌が再発し、具合が悪いという話は聞いていた。
一度はご挨拶したいと思っていた。
全国大会などで、ひょこひょこと前の方に行き「はじめまして」と挨拶すれば
いいだけの話だったのだが、
なにやら自己顕示的な挨拶のようで、自分から進んではそういうことをしない人間である。
いずれ機会があると思っていた。
そうこうしているうちに、病状がかなり悪いという話が聞こえてきた。
結局、ご挨拶する機会がないままに先生は逝かれた。
申し訳ないような気分でいる。
今は、歌を作ることが先生に応えることだと思っている。


  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

  わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり

  ブラウスの中まで明かるき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり

  まがなしくいのち二つとなりし身を泉のごとき夜の湯に浸す

  しんしんとひとすじ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ

  たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

  さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり


心よりご冥福をお祈りいたします。
Date: 2010/08/13(金)


優勝
先日の日曜日は通っているアーチェリーの射場で月に一度開いている射会。
今までは大抵、月の第一日曜で横浜歌会とぶつかっていたのだが、
この頃、第二日曜になることが多くなり出られるようになった。
先月も出られたのだが、かなり不本意な成績。
どうもしばらく低迷が続いていて、先週も撃っていて矢が狙いより下に落ちる。
おかしいと思ったらレストが下を向いていた。
ちなみにレストとは、弓に矢をつがえるとき、矢の先の方を載せる小さな部品。
これがないと自分の指とかに矢を載せて構えないといけない。和弓はそのスタイル。
ああ、これが原因かと思ってレストに触ってみるとポッキリ折れた。
一緒にいた仲間が使っていないレストをくれたのだが、
今まで使っていたのとは違う形のもの。
レストを変えると飛び方が変わるので調整が必要になる。
違う形のものであればなおさら。
しかし、その辺は大雑把な性格しているので、
たいして気にもせず射会の前の夜に付けてみた。
矢を載せる部分が割りと小さくて大丈夫かと思ったが、
とりあえず射会当日、練習場で撃ってみると、
的の七時三点のあたりにみな飛んでゆく。
「そのレストは矢が跳ねないから飛びが落ちるかもしれない」とは聞いていたのだが、
確かに撃った矢が狙ったところよりも左下に落ちる。
うう〜ん。
左に行くのはプランジャーで調整すればいいのだろうが、
プランジャーは固定してしまっていて、もう試合はスタートである。
ならば、狙いより左下に落ちることを考えて一時三点のあたりを
狙っていけばスポットに入るか?
時間もないのでそれでいく。
で、その結果はファースト129点、セカンド130点。
あとはハンデに助けられて久し振りの優勝だった。
しばらく低迷していたので、優勝よりも久し振りにまともな点が撃てたのが嬉しかった。
左に行くのはあるいは押し手の問題だったのか、途中から必ずしも左に行かなくなったのだが、
狙いより下に落ちるのは変わらず、一本一本その辺を意識して撃っていないと、
やはり下に落ちてしまった。
そうやって一本一本意識して撃っていたのが、結果としては良かったのかもしれない。
普段だと最初はしっかり撃っていてもそのうち集中力が途切れてなんとなく撃っている。
今回は最後まで意識して撃っていた。
それと、新しいレストは矢が跳ねないので飛びは落ちるのだが、
そのかわり、矢が散らばらない気がする。
それにしても小さなレストひとつでかなり変わるものである。
楽しめればいいという感覚で道具には無頓着なのだが、
やはりアーチェリーは道具にもう少し気をつけないといけない。
久し振りの優勝の賞品は商品券5000円。
コンビニでも使える券だったので、
子供達に2000円ずつ小遣いにあげてすぐに消えてしまった。
Date: 2010/08/10(火)


東京平日歌会
人はなんらかの欠落感を抱いたとき、それを埋め合わせようとする。
悲しみや苦しみを抱いたとき、人は心のうちの重いものを吐き出そうとする。
文学も芸術も多くの表現はそういう人の心の表出である。
悲しみや苦しみがあるから歌を詠う。
短歌とはそういう不幸せ者の文芸であり、
そして、吐き出すことで人は救われる。
そういう救いの文芸でもある。

東京平日歌会。
私が出したのは大阪で母に放置され死んだふたりの子を題材にした歌である。
悲しい事件を心の中に置いておくのは苦しい。
だからそれを歌として表出する。

おそらく結句が反発を買うだろうと思った。
母性というものに嘘を感じた、
そんな意味の結句である。
母性本能というのはおそらく嘘であろう。
母性は後天的に備わるものである気がする。
母性は愛されることで備わる。おそらく父性もそうだろう。
母だから当然に子供を愛するはずだ、それ自体が実は大きな誤りである気がする。
母性を前提にして母にすべてを押し付けることも、
母性を前提にして女性は太陽であるとする論も、
母性という虚構の上に成立しているものであるような気がする。
しかし、短い時間ではそういうものを表現するほど歌を練ることは出来ないし、
そもそも一首では無理だ。連作にするしかない。
で、案の定、歌会ではその結句が問題になった。
結句で一般化してしまっている。自分の解釈を歌にしている。
そういう批評。
「嘘」が強すぎる、という批評が本当は一番多かったのだが、
正直言って、それはそれぞれの許容できる範囲の違いという気がした。
大胆な表現を怖れない者にはそれほどの瑕ではない。
で、改作案も出され、ここ二日程その改作案を考えてみた。
しかし、やはりダメだ。
その改作案ではダメだ。
確かに形としてはまとまる。
しかし、その改作案では歌が優等生のような歌になってしまう気がする。
歌は優等生ではダメなのだ。
それでは人の心に響かない。

もう少し時間をかけよう。
あの不幸な子供達のために、
彼等が生きていたことを歌にして残してやりたい。
それは表現を人生の営みに選んだ者の務めである気がするのだ。
Date: 2010/08/06(金)


無題
今日は東京平日歌会だった。
平日歌会のときは一日休みにして午前中に東京の下町を歩いたり、
上野で展覧会を見たりしている。
今日も上野に行ってそれから歌会に行った。
ただ、そのことについて書くのはあとにする。
心が晴れないのだ。
大阪でふたりの子供が母親に放置されて死んだ。
そのニュースを聞いてから心が晴れない。
今日も上野に行って中国文明の展覧会を見ていたのだが、いまひとつ楽しめなかった。
歌会に行く前に昼飯は何を食おうか、
グルメ趣味はないがどうせなら旨いものを食いたいとは思う。
水曜は藪蕎麦は休みだし、上野ならトンカツかあるいは、と考えるのだが、
放置されて死んだふたりの子供のことを思うと、
そういう気にもなれず上野公園から戻ってそのまま上野駅の二階で不味い蕎麦を食った。

このブログは税理士の事務所のブログである。
そういうブログにあまりこういう話がふさわしくないということは分かっている。
しかし、やはり書くことにした。
短歌は不幸せ者の文芸、それは私の口癖である。
人は欠落感を抱いたとき、それをなんとかして埋め合わせようとする。
幸せは人に語ることで倍になり、不幸せは人に語ることで半減する。
吐き出すことは救いなのだ。
吐き出せず、自分の中に抱え込んでしまう者は欝になるかもしれない。
吐き出せる者はそうならない。
短歌とは、不幸せ者の文芸であり、救いの文芸である。
だからこそ短歌は万葉の昔から千数百年の時を経て日本人の心をつかんできた。

一歳と三歳の姉弟が母親に放置されて死んだ。
なぜ自分の子供を放置できるのだろう。
私は離婚してまだ幼いふたりの子供を育ててきた。
一番弱い者を守る。
それが私の判断基準だった。
仕事は苦しんだ。
午前中は子供達の世話をして仕事は昼から、そんなこともやった。
しかし、当然だと思って受け入れた。
幼い子供達を守るのは親の当然の責務だと思った。
なんの疑いも抱かなかった。
なぜ、自分の子供を殺す?
私には分からない。
大阪で死んだ子供達はインターホン越しに「ママー、ママー」と助けを求めたという。
周囲は何をしていた?
確かに周囲の何人かは児童相談所に通報した。警察にも連絡したらしい。
しかし、周囲にはもっと大勢いたはずだ。
周囲が騒いでいれば警察も放置出来なかったはずだ。
インターホン越しに助けを求める声が聞えても毎日泣き声が聞えても、
気にならなかったのか?
彼らのうちの一人だろうか、テレビでにこやかに笑いながら取材に応じていた。
この男は何者だ?
取材陣に囲まれて晴れがましい気分にでもなったのか?
どうすればこういう人間達を作れる?
教育者達は卒業式で君が代を歌わせろとか歌わせるなとか、そういう話には熱心なようだが、
そういう話はそういう話で気の済むまでやってもらえばいい。
それをやりながらでいいから、生徒達に、して良いことと悪いこと人としての姿勢、それをまず
教えたらどうだ?
綺麗事も主義主張もどうでもいい。
まず仕事をしたらどうだ?
大阪市こども相談センターはなにをしていた?
少ない人員で多くの事案を抱えているのは分かる。
しかし、行って連絡とれなければ警察に「こういう通報があったので気をつけて欲しい」と
電話することくらい出来ただろう。そうすれば警察もパトロールしただろう。
忙しくても簡単に出来る電話だ。その程度の知恵もまわらないのか?
あるいは警察との情報交換の制度が作られなければ電話しませんということか?
「怒鳴り声が聞えなかったので虐待とは特定できなかった」???
どういう意味だ?
数年前、北海道でふたりの子供が市営住宅に放置され一人が死亡する事件があった。
放置されていてなんで大人の怒鳴り声が聞える?
これはつまり、過去の事例からなにも学んでいないということか?
あるいはただの卑劣な言い訳か?
どっちだ?
彼らは仕事をしなくても首にならない。
仕事をしなければ首になる、仕事のできないヤツは出世しない。
そういう民間では当たり前の論理が役人の世界に導入されない限り、
この国は役人の弊害から逃れられないだろう。
この国この社会への失望。
二人の幼い子供が生き地獄のなかで死んでいった。
これを教訓にあるいは多少法律が変わるのかもしれない。
しかし、いくら法律が変わっても、
現場の人間が仕事をしなければ有効性は疑わしい。
現場の人間が人間としてふるまわなければ幼い子供達は救えないだろう。
大阪市こども相談センターには抗議の電話やFAX・メールが殺到しているそうだ。
あるいは、職員のなかには良心の呵責に苦しんでいる者がいるかもしれない。
しかし、同情する気にはならない。
仕事をしなくても首にならない幸せをかみしめながら苦しめばいい。
どんなに苦しくても、家に帰れば御飯があるだろう。
風呂もある、暑ければクーラーもある、喉が渇けば水もジュースもある。
ふたりの子供達にはなにもなかったのだ。
Date: 2010/08/04(水)


笹子川滝子沢
大菩薩の南の端に滝子山がある。
標高は1620m。
この滝子山に突き上げているのが笹子川滝子沢である。
五月の八海山以来の山行。
狭い林道に入り、途中に車を置いて沢の出合まで歩く。水量の少ない沢だ。
沢靴に履き替え適当に登っていくがゴーロが続き結構疲れる。
ひさしぶりの山なので体が山モードになっていない。
いい加減うんざりしてきたあたりでようやく滝が出てくる。
難しい滝はなく適当に越えてゆくが、
簡単だと思って安易に取り付くと行き詰まるようなスラブ滝があったりして、
簡単なルートでもやはり山は気が抜けない。
ときどき滝の水に手を伸ばし顔にぶっかけながら登る。暑い。
水量の多い谷ならもう少し周囲の空気も冷えそうなものだが、
この谷は水量も少なく、結構暑い。
あまり刺激的な滝はなく全体としては穏やかな印象の谷である。
緑が深い谷だ。
汗だくになってようやく源頭に着く。
谷が行き詰まって幾つかのルンゼにわかれたようなところで、ここで昼食を摂って休憩し、
真ん中の狭くて急なルンゼを登り尾根に取り付く。ところどころにシモツケソウが咲いている。
しばらく登ると頂上の少し下の登山道に出、その先の頂上には登山者が二人休んでいた。
細長い形をした頂上で雲が出てきて周囲は見えなかった。
休憩していた二人はアサギマダラを見に来たらしく、
蝶を見なかったかと聞かれた。
渡りをする蝶として有名なアサギマダラ。
実物は見たことがないのだが、彼らに聞くと、アゲハより少し小さく白いマダラ模様があるとか。
そう言えば谷の下の方でそういう蝶がいた。
見かけない蝶だなと思ったのだが、それがアサギマダラだったのだろうか?
休憩後、寂ショウ尾根を下る。
踏み跡しかない上級者向きの尾根とルート図には書いてあったが、
立派な踏み跡がついていて、
一部に急なところがある以外は別にどうということのない尾根である。
一時間半ほど下り、そろそろ勘弁して欲しいなと思うあたりで林道に出、車に戻った。
なんやかやと忙しく、ここ三ヶ月ほど山に行っていなかったのでさすがに疲れた。
やはり月に一度くらいは山に行っていないと、体も山の中での勘もなまる。
もっと体に厳しく生きよう。その方が気分がいい。
Date: 2010/08/02(月)


湘南歌会
湘南歌会での気になった歌。
今回は歌の題材についてちょっと気になった歌について。
海水が出たり入ったりする田越川の浅瀬に長い昆布が漂っている、そんな歌意の歌である。
最初読んだとき、「田越川」という地名が効いているのかどうかが気になったのだが、
選歌した人の話で、田越川というのが逗子の川であると知って?と感じた。
相模湾に昆布があるのだろうか?
それが気になったのである。
詩なのだから現実なんてどうでもいいという人もいるかもしれないが、
問題の歌は叙景歌であり、情景のリアリティーは問われなければならない。
昆布というと北の海というイメージがあり、
田越川の河口にあるのは昆布ではないのではないか?
別の海草ではないか、そういう話になったのだが、
気になって帰ってから調べてみた。
確かに昆布は北の海のもので、自然のものは宮城県あたりが南限であるらしい。
ところが...、ところがである。
養殖は神奈川県でもおこなわれているということで、
横須賀あたりで作っているらしい。
ネットで調べると東京湾の猿島の養殖昆布の写真があった。
水温の関係で北の海のような大きな昆布は作れないらしいのだが、
それでも神奈川県でも昆布を作っているというのはちょっと驚きだった。
で、田越川は逗子、相模湾である。
どうなのだろう?
少なくとも自然の昆布の南限は三陸海岸である。
しかし、養殖されている昆布の胞子が流れ田越川の河口に自生しているという可能性は?
横須賀で養殖されているくらいだから可能性を否定することは出来ないのかもしれない。
あるいは似たような海草?
思い浮かぶのはワカメとアラメ。
ともに神奈川の海には沢山ある。
昆布と同じように茶色で大きいのは2mくらいになるだろうか。
磯などにわっと茶色い塊になっていたりする。
この件でネットで調べていたら、
徳富盧花が逗子の柳屋という旅館の部屋を借りてしばらく住んでいたことを知った。
で、その旅館は昔「あらめ屋」という旅籠だったらしい。
海草のアラメ。それを屋号にしている旅籠だろうか?
アラメはあまり一般的ではないが現在も食用にされている。
昔はもっと食べられていたはずで、
「あらめ屋」はあるいは逗子で採れたアラメを商っていたのかもしれない。
逗子の海には昔からそういう海草が沢山あるわけで、
生活排水などで富栄養化しているであろう相模湾の河口である。
大きく成長したワカメやアラメがあってもおかしくはない。
あるいは本当に自生している昆布かもしれず、結局、行って見てみなければ確認は出来ない。
さて、それはそれとして、歌のリアリティーの問題になったとき、
現状では、昆布→北の海というイメージは否定できず、もし本当に昆布であれば、
その意外性を生かす方向で作った方が歌は立ち上がるのかもしれない。
もっとも、東京湾で昆布を養殖しているということが当たり前の知識になれば、
違和感は感じられなくなるかもしれず、その辺は時代によって変わるのであろう。
それと、「田越川」という地名。
これがやはり歌のなかで生きていない気がする。
古くからありそうな地名であり、万葉的な雰囲気も感じられる。
もっと情感に訴えるような歌ならばこういう地名も生きるのだろうが、
昆布を題材にした叙景歌では生きない気がする。
地名を歌のなかで生かせるかどうかもやはり技であろう。
それにしても田越川の河口に漂っているのは昆布かワカメかアラメか。
逗子は藤沢からそれ程遠くない。そのうち涼しくなったら湘南歌会の前に歩いてみよう。
徳富盧花のあとを訪ね、田越川の河口を覗いて昆布かワカメかアラメか確かめて海岸沿いに
鎌倉の方まで歩いてくればいい。2時間も歩けば着くだろう。
その間に歌のひとつかふたつ出来ればみっけものである。
Date: 2010/07/28(水)


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