少年の夏に見上げし夕空のアメリカ映画のように遠くて
今月の結社誌が届いたので自分の歌を探してみたら、この歌が載っていた。 この歌は以前、某歌会に出したところ、あまり評価されなかった歌である。 総評の人が、「アメリカ映画というのが分からないですね。どういう映画なのか」と 批評したのに対し、この歌を選歌した人が、 「私は昔の昭和の時代のアメリカ映画だと思いました。 回想の中の、アメリカ映画に憧れていた時代の映画だと」 「ああ、なるほど。でも、昔のアメリカ映画となっていないので、 そうは読み取れませんね。私は最近のアメリカ映画かと思いました」 私はその批評を聞いて首を傾げた。 確かに、言葉を厳密に解釈するなら「昔のアメリカ映画」とはなっていないので、 少年の夏に見上げた夕空が現代のアメリカ映画のように遠く思える、 という解釈は成り立つ。 しかし、歌は「少年の夏に見上げし」で始まっている。回想である。 当然、一首は回想の歌として読むべきであり、 そのなかに出てくる「アメリカ映画」も回想のなかにあると読むのは自然ではないのか? それをあえて現代のアメリカ映画と読む必然はあるのか? 「昔のアメリカ映画」となっていないからそうは読み取れない? 短歌は省略の文芸である。 言葉で表されていないものをいかに感じ取るか、掬い取るか。 それが重要なはずである。 掬い取れる範囲を外れているだろうか? 正直、私にはそう思えなかった。 短歌の読みで重要なことのひとつとして、 「書かれていないことを読まない」 ということがある。 その歌に書かれていないことを読者が補って読む、 それはしない方がいいわけである。 しかし、「書かれていないことを読まない」ということと、 「言葉で表現されていないことを感じ取る、掬い取る」ということは違う。 そうでなければ省略の文芸は成り立たない。 どこで線を引くかという部分はありそうだが、 そこはひとりひとりの感性で判断することになるだろう。 どうも最近、歌会に出て批評を聞いていて、そこはかとなく不満を抱くことが 多いのである。 どの歌会がという話ではなく、複数の歌会でその傾向を感じるのだが、 パターンに頼った批評。言葉にこだわり過ぎた批評。 そういうのが多い気がする。 切り捨てるような言い方をしてしまえば、優等生的な批評。 そういうものを感じるのである。 そんなことを思いながら結社誌をパラパラとめくっていたら、 編集後記に永田淳のこの文章があった。
「歌会は発表会の場ではない。方程式にあてはめて一首のどこがいい、どこが悪い、 という批評で満足してはいけないと思う。そういう方程式にあてはまらない、訳が 分からないけれどもいい歌、というのを拙くも自分なりの言葉でもって評したいと 思っている。分からないけれどいい、という歌は確実にあるし、それを、うまく批評 できないから評しないという態度だけは避けたい。歌集批評会や誌面の選歌欄評、選歌 でも同じだろう。皆が従前とは違った批評の仕方を模索していくことで、また新しい 歌の地平が見えてくるはずだ」
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Date: 2012/03/14(水)
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