学校の跡を出て橋を渡ってみた。 新北上大橋は津波で橋の北側が破壊されていたが、今は渡れるようになっている。 北上川の北岸に渡り、対岸の大川小学校のあった辺りを見た。 ちょうどこの辺りから北上川はその広い川幅をさらに広げ、ゆるやかに曲がって海に注ぐ。 河口はすぐそこに見える。 川の縁にいるというより、陸に食い込んだ湾の奥にいるようで海はすぐそこである。 ただ、現在の北上川の流れは地震の前とは変わっている。 津波は北上川の下流の堤防を破壊し、さらに、地震による地盤沈下で 大川小学校より下流の北上川南岸にあった低地が現在は冠水している。 つまり北上川の河口は3月11日の地震と津波により巨大化しているのである。 海がすぐそこに見えるのはそのためで、3月11日以前は大川小学校下流の低地があり、 その縁を緩やかに回るように北上川は流れていた。 大川小学校は海から4k離れているので津波が来ることは想定していなかったという。 少なくとも現在の北上川を見て、海はこんなに近いじゃないかと言えば、それは間違いである。 再び、橋を渡り、橋のたもとの大川小学校に続く四辻に立った。 周囲を見たとき、不思議な気持ちがした。 報道では、教師達は津波のあと、 子供達を連れて付近で一番小高いこの橋のたもとの三角地帯に避難しようとしたという、 その三角地帯というのがこの四辻だが、そこは私が走ってきた北上川の堤防道路の一角で、 堤防のなかで特別高いというわけでもなく、 通常なら「付近で一番小高い」とは言わない地形である。 川があり堤防があれば、大抵、堤防の外側は多少低くなっているわけで、 教師達が子供達を避難させようとした三角地帯というのはそういう地形である。 この付近で「小高い」地形を探すとしたら、山しかない。 もうひとつ気になったのは、 走ってきた堤防道路からこの四つ辻を右に折れる雄勝へ続く峠への道。 この道は学校の裏山の反対側斜面をなぞるようにだんだん高さを上げている。 道の向こうには原形を留めているらしい家が建っていた。 ここは避難ルートにならなかったのか? そういう素朴な疑問が頭を過ぎった。
3月11日午後2時46分、地震が襲った。 揺れが収まってから子供達は校庭に避難。教師達は子供達を整列させて点呼した。 「大津波警報が発令されました。早く高台に逃げてください」という防災無線が聞こえ、 生存者の証言では、教師や住民が避難先を巡って喧嘩のような議論を始めた。 学校は地域の災害時避難所に指定されていたため、 地域の住民も集まってきて校庭で焚き火を始めるなど、かなり混乱していたらしい。 その間、子供達は校庭で待っていた。校庭にはスクールバスも待機しており、 バスを運営している会社と運転手が無線で話をしているが、 先生達が対応を話し合っていて、まだ決まらないと運転手は返事をしている。 校長は不在で、教頭は住民に「この山は登っても大丈夫な山ですか?」と聞いていたらしい。 午後3時20分頃、大川小学校のある釜谷地区を見回りしていた市の広報車は、 海岸の松林を突き抜けてくる津波を目撃。 「高台に逃げろ、松林を津波が越えてきたぞ」とマイクで叫びながら避難を指示。 この放送が校庭に聞こえ、それまで避難先を巡って議論していた教師達は子供達を 付近で一番小高い新北上大橋のたもとの三角地帯に誘導。 三角地帯の手前で堤防を越えてきた津波に子供達の列は呑み込まれ、 108人の児童のうち74人、11人の教師のうち10人が死んだ。 津波に破壊された校舎にあった時計はすべて午後3時37分で止まっていた。
事件後、驚きと反響が広がった。 どうして、裏山に避難しなかったのか? 悲しみや同情と同時に多くの非難もあったわけで、 非難は、教師達の対応に集中した。 私は現場を見たかった。 現場を見なければ分からないことが沢山あるはずであり、 安易な非難や評論を鵜呑みする気にはなれなかった。 その後、各社の報道や生存者の証言を読み、悲劇から八ヶ月を経て初めてその現場を訪ねた。
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Date: 2011/11/24(木)
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