底運というものを信じている。 最後の最後のところの運。言うならば土俵際の運である。 3億円のジャンボは当たったことないし、 目の覚めるような美人と縁があったこともない。 決して運がいい男ではないのだが、 最後の最後の底運はいいと自分で勝手に信じている。 正月の峰の原のスキー場、昼食をとりにレストランに行ったとき迷子がいた。 「お母さん! お母さん! どこにいるの〜!?」と小さな男の子が大声で泣いている。 周囲の大人達は気にはしつつも様子見をしている。 その辺に親はいるのだろうが、当の子供にとっては人生の重大事である。 周囲がみな様子見をしているので、仕方なくその子のところに行き話しかけ、 その子を連れて階下に降り、スキー場の職員のところに連れていった。 で、それが終わってレストランに戻ったとき、なにやら違和感があった。 歩いていておかしい。 見てみると、スキー靴の踵のあたりが壊れている。 もう長く使っているスキー靴なのでプラスチックが劣化して壊れたのである。 こうなるともうスキー板にスキー靴がフィットしなくなるわけで、 仕方なくレンタルショップに行って修理できないか聞いてみた。 「これはもうダメです。プラスチックが劣化していますから他の部分も危なくなってます。 このまま滑れば事故になりますよ。この前も滑っているときにいきなりスキー靴が割れた人が 救急車で運ばれてゆきました。お客さん、滑っているときでなくて運がいいですね」 なるほどそういうものか。 そう言えば数年前、雪山から降りて車に戻ったとき、 履いていたプラスチックシューズがいきなり壊れたことがあった。 冬山でも靴が凍らずに履けるということで一時期流行ったプラスチックシューズだが、 プラスチックの劣化による事故が問題になり、最近はあまり履かれなくなった。 あのとき、雪山のど真ん中で靴が壊れていたら、どうなったのだろう? どうやって下山したのか? 峰の原のスキー場で迷子を連れて余計な階段の上り下りなどして歩き回っていなかったら、 そのままスキーを履いて、滑っているときに靴が壊れてぶっ飛んだのかもしれない。 そうなっていたら大怪我をしていただろう。 思い出してみると結構そういうことがある。 ロッククライミングをしていて、先行していた仲間が大きな石を落としたことがある。 ビレイしている手元を見ていたので、「ラク!」という声に、何も考えず咄嗟に右に避けた。 左側を大きな石が落ちていった。 左に避けていたら、頭を砕かれて死んでいただろう。 右が安全だと思って右に避けたのではない、咄嗟に体が動いたのである。 それと同じように、なにかに守られているようになぜか危ういところで助かっているような、 子供の頃からそういう類のことが幾つかある。 友人は「つまり、悪運が尽きないってことなんじゃないの」と言うのだが、 悪運ではない、土俵際の運、底運である。 普通の運はそれほどよくないが、最後の最後、土俵際の運だけはいい。 自分でそう勝手に信じている。 自分は運がいいと思っていると運に頼りそうだ。 たぶんそれはいい結果を生まない。 運は決してよくない。 だから頑張るしかない。 でも、底運はいい。 だから大丈夫だ、くよくよ心配することはない。 そういう気持ちというのは実はとても大切なことである気がするのだ。
|
Date: 2011/01/13(木)
|
|