歌会の話をもうひとつ。 作者自解について考えてみたい。 作者自解とは、作者が自分の作品について説明をすることだが、 歌会ではそれは必要なのか? 当日の歌会では、ある出席者が意味の分かりにくい歌について、 「作者の話を聞きたい。歌会の最後にそういう時間をとったらどうか?」と発言した。 確かに作者の話を聞いて、さらにその歌についての理解が深まる、あるいは 深く味わうことが出来る、そういうこともあるだろう。 だから、作者の話を聞いてみたいという気持ちは分かる。 しかし、そういうことは歌会が終わってからすればいいのではないか? 歌会が歌を読むトレーニングの場である以上、 参加者はとりあえず、その31文字のみで歌を読む。 歌会はそういう場であり、そのために限られた時間をフルに使っている。 仮に歌会の最後に作者自解の時間をとれば、それだけ歌の批評に使える時間は少なくなる。 で、それをして、どれだけの意義があるかという話になるわけだが、 少なくとも、読みのトレーニングとしては、作者自解を聞いてもあまり意味はないだろう。 短歌というものは、必ずしも作者の意図したように読まれるわけではない。 作者の表現が通じないということもあるし、 意図したものが作者の独りよがりだったということもある。 作品は作者の手を離れれば一人歩きをするのである。 だから、どう読まれるか、意図したものが通じるか、そういうことを試すために 歌会に作品を出す。 作者の自解を聞いて、それが自分の読みと違っていたから自分の読みが間違っていた、 ということではないのである。 作者の表現が届かなかった、そういうことも往々にしてあるわけである。 歌を読んで、そこにどういう世界を感じることが出来るか、それが大切であって、 作者の表現したかったものをクイズの答えのように当てるのが歌を読む目的ではない。 だから、私は基本的には作者自解は求めないし、 私自身強いて求められでもしない限り自解しない。 人によっては、最後の作者発表のときに自解する人もいるが、 「こういうことを表現したかったんだけど・・・もう一回練り直します」という感じの話は、 なるほどと思いながら聞いているし、参考になる場合もあるのだが、 とくとくと自解する人の話はほとんど聞き流している。 というか、とくとくと自解する人の歌というのは、大抵それほどいい歌ではない(^^; 歌会の目的からすれば、作者自解はそれ程意味がなく、 どうしても作者自解を聴きたければ、歌会が終わってから個人的に聞けばいい。 ちなみに、その歌会で問題になった分かりにくい歌だが、 その作者(歌会当日は欠席だった)のホームページを読んでいたら、 「作者の話を聞きたい。歌会の最後にそういう時間をとったらどうか?」と発言した御仁、 わざわざ電話をして聞いたらしい。 そこまでして知りたかったのか、と感心すると同時に、 で、知ってどうするつもりなのだろう? なんか意味あんの? と思ったのである(^^;;
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Date: 2009/05/09(土)
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