*--Diary--*


パルティアンショット  2013/06/10(月)
プロジェクトチーム  2013/06/06(木)
招待状  2013/06/03(月)
不幸せ者の文芸  2013/05/31(金)
湘南歌会  2013/05/29(水)
鎌倉  2013/05/28(火)
コメ  2013/05/23(木)
井上ひさし  2013/05/20(月)
協議会  2013/05/18(土)
遠野  2013/05/11(土)


パルティアンショット
日曜はひさしぶりにアーチェリーの射会に参加。
参加者20人くらいで、一組4人ずつに分かれてコースを回る。
で、一緒に回った人のなかにパルティアンショットをする人がいた。
パルティアンショットというのは、
的に対して後ろ向きに立ち、振り向くように弓を構えて射つ。
普通は的に対して横向きに立つわけで、
ちょっと変則的な射ち方である。
この変則的な射ち方、もとは騎馬民族の射撃スタイルで、
馬に乗って狩りをしているとき、繁みから飛び出して後ろ方向へ逃げる獲物に、
馬上から振り向きざまに矢を射る。そういう騎馬民族の暮らしのなかから自然発生的に
生まれた射撃スタイルだろう。
で、彼等はこれを戦争に応用した。
古代、メソポタミアでローマ軍かパルティアと戦ったとき、
パルティアの軽装騎兵部隊がわっと逃げ出したので、ローマ軍は勝ったと思って追撃。
ところが逃げ出したはずのパルティア騎兵、走りながら一斉に振り向き後ろ向きに雨霰と
矢を放ってきた。追撃していたローマ兵は次々と斃れ、以来、退却と見せかけ、後ろ向き
に矢を放ってくるパルティア騎兵の戦術をローマ軍はパルティアンショットと呼んで怖れた
わけである。
それはそれとして、
なぜ、馬に乗ってもいないのに、パルティアンショットをするのかは分からない(^^;
なぜかその人は射ちおろしのときだけパルティアンショットをする。
水平のときや射ちあげの時はしないのである。
パルティアンショットは振り向いたときの角度が必ずしも安定しないだろうから、
命中精度が良くなるとはあまり思えないわけで、
命中精度よりもたぶん、げんかつぎであろう。
重要な発表をするときは必ず赤い服を着てくるという女性大臣がいたが、
根拠はないが、そうした方が上手くいく、あるいは縁起がいい、と本人は信じている。
そういう験担ぎの一種。
ちなみにその日の50mの射ちおろし、
パルティアンショットで放たれた矢は、一本はスポットに近い4点、あとの二本は的外れ。
うーん...、やはり安定しないんだよな。
でも本人は験を担いで当たると思っているのだから、なにも言わんのである(^^;;
アーチェリーは楽しめればいいのだ。
皆とわいわいくだらない話をしながら森の中のコースを回り、弓を楽しむ。
弓道のような精神とか礼儀とかいう話には縁のない連中がやる競技だから、
パルティアンショットでもなんでも、その射ち方を本人が好きであるなら、それでいい。
ちなみにその人はモンゴルが好きで、毎年、モンゴルの乗馬ツアーに行っているらしい。
いっそ、モンゴルの草原で馬に乗りながら本物のパルティアンショットで狩りでもしたら
楽しいかもしれん。
ところで、その日の射会はハンデに助けられて2位入賞。
ひさしぶりに賞品をゲットし、いい休日だったのである(^^
Date: 2013/06/10(月)


プロジェクトチーム
経済的な理由で成年後見の後見人報酬を払えない人達がいる。
それが成年後見制度の普及を阻害するひとつの要因になっているわけだが、
それではということで、税理士会が予算をとって、
そういう人達の後見人を引き受けた税理士に対し、
被後見人が払えない報酬分を助成しよういう話が出てきた。
そうすれば少しでも成年後見制度の普及に役立てるし、
成年後見を必要とする人達への手助けにもなるだろうと。
それ自体は大変結構なことで、
今後継続して予算を確保できるのかとか問題はあるものの、
是非、推進して欲しいところである。
で、その制度案を検討するということでプロジェクトチームが集まり検討をしていた
のだが、そのプロジェクトチームから制度案の叩き台がメールで関係するところに送られ
てきた。私のところにも送られてきたのでざっと目を通し、幾つかの問題点を指摘。
そのあと、その辺について意見の交換がメール上でしばらくあったのだが、
「細かいところまでは今回は記載しないということで・・・」
というような話。
ちょっと待てよ(^^;
細かい話もなにも基本的な枠組みの構成からして穴があいているようだから指摘している
わけでしょ(^^;;
というか、プロジェクトチームだろうが。
プロジェクトチームで集まって会議して出てきたものが、
さっと一読しただけで、ここに問題、あそこに問題、これもどうなるんだ...。
民間企業でわざわざ組織横断的に構成されたPTがこの程度のもの出してきたら、
吊るされるよね(^^;;;
頼むぜ、プロジェクトチームの皆さん(^^
Date: 2013/06/06(木)


招待状
某出版社から手紙が来た。
なんだろうと思ったら、
第十一回前川佐美雄賞の授賞式と懇親会の招待状。
今年の前川佐美雄賞を受賞したのは吉川宏志氏の歌集『燕麦』。
こういうのが送られてくると、人によっては、
「まあ、私もそういうところに招待されるようになったのね」と喜ぶ向きも
あるかもしれないが、
たぶん、それは勘違いである。
以前にも、本を注文したことのない出版社から歌集の案内と注文用紙が届いたことがある。
おそらく、結社の名簿を見て片っ端から送るのだろう。
名簿がどういうルートから流れるのかは分からないが、
授賞式の招待となると、やはり結社から名簿を受け取っているのかなと。
別にとやかく言うつもりはないのだが、
個人情報にうるさいこの時代、名簿をそういうふうに出版社に渡すのって、
1000人からの会員がいれば、そのうち妙ないちゃもんを言ってくる人が
出てきたりとかしないのかね?(^^;
ま、受け取った出版社の方もそれ以外のことに名簿を利用したりはしないんだろうけど、
もしそうなら会員には、そういう条件で名簿を外部に出すことがありますという説明は
するべきだよね。
ちょっと脇が甘いのかなという気はしなくもない...。
Date: 2013/06/03(月)


不幸せ者の文芸
歌会のあと、大抵はちょっと飲んだりして話に花を咲かせるのだが、
先日の歌会のあとの飲み屋で、こんな話があった。
「あなたは、短歌は不幸せ者の文芸だなんて言ってるけど、
家族とタイに行ったり山に行ったり、あちこち行って全く幸せじゃない」
苦笑するしかない(^^;
確かに、短歌は不幸せ者の文芸だと思っている。
人はなにかしらの欠落感を抱いたとき、
それを埋め合わせしようとする。
なかには酒におぼれたり仕事に没頭したりして欠落感を埋める人もいるわけだが、
人によってはそれが絵を描くことであったり音楽であったり詩であったりする。
自分ではどうすることも出来ない悲しみなり怒りなり、そういうものをなんらかの形の
表現に昇華することで、その悲しみなり怒りなりを受容し、自分の精神の均衡を取り戻す。
表現の原点はそこであろう。
大抵の人の心のなかにはなんらかの欠落感があるはずだ。
満たされない愛、親しい者の死、自らの病、失った青春、数え上げればきりがあるまい。
私にもそういうものがある。
だから私は短歌を始めた。
で、それと、
私が子供達とタイに行ったり、山の仲間と山登ったり、あちこち旅したり、
それがどう関係するのか?(^^;;
ブログにそういうことを書いているので、
この人は年中こういうことをしていられて幸せだ、それでなんで不幸せ者の文芸なんだ?
そういう話の展開だと思うのだが、
それはちと違うだろう(^^;;;
現代女流歌人の代表だった河野裕子、
彼女の夫は一流歌人で大学教授で著名な研究者、子供達ふたりも歌人として活躍。
毎年、大勢のファンと一緒に短歌講座の海外ツアーであちこちへ。
絵に描いたような幸せである。
しかし、彼女は深い欠落感を抱いて生きていた。
そしてそれを歌に昇華した。
彼女はこんなことを言っている。
「苦しみのない人は、短歌などという面倒くさいものはやめて、人生を精一杯謳歌して
ください」
人生には自分ではどうにも出来ないことと、自分の努力でどうにか出来ることがある。
どうも欠落感というのは、前者の方で多く生まれる気がする。
で、私がブログに書いている、タイに行ってきましたとか、山に登りましたとか、
そういう話は後者の方の話である。
そのために人一倍働き、時間と金を作るわけで、
欠落感とはおよそ別の次元の話である。
短歌は不幸せ者の文芸。
その意味がよく分からないままにブログを読んで、
あちこち行けて幸せね、それでどうして不幸せ者の文芸なの? おかしいじゃない?
それは物事を表面しか見ていないということであろう(^^;
短歌を志すならば、表面だけでなく、もう少しいろいろなものが見えた方がいいとは思う
わけだが、飲んでるときにそういうことを言うとまた話がややこしくなるので、
ニコニコしながらそれ以上は言わないのだった(^^;;
酒の入ってないところでその辺の話をちょっと整理してみた(^^;;;
Date: 2013/05/31(金)


湘南歌会
湘南歌会、気になった歌。
例によって誌面発表前につきここには出せないが、
憲法の改正が言われるようになって日本軍という言葉が浮かび上がってくる、
そんな歌意の歌。
この歌について、
「一般的に言ってしまっている」
「浮かぶもなにも憲法改正で国防軍とはっきり言ってるしね」
「昔は帝国陸海軍と言っていて日本軍とは言わなかったのではないか」等の批評があり、
それぞれ妥当な批評と思ったのだが、私がこの歌について気になったのは、
安易、その一言(^^;
作者の方には申し訳ないが、選歌のとき、一読して安易と切り捨てた歌だった。
作者の方の平和への思い、憲法改正への危惧は重々理解できるのだが、
それとは別に、あくまでも短歌の表現としての問題を考えたとき、
安易と言わざるをえない。
なんというか、結社誌を読んでいてもたまにこういう歌を見かけるのだが、
平和や政治を詠った歌には安易なものが多い。
立脚点が決まっていて、しかも自分の立ち位置になんの疑いも抱いていない。
それを信念と言うのは易しいが、
人間として当然持つべき健全な懐疑を放棄してしまった安易さを、
私はそこに感じるのである。
その安易さで、かつて歌詠みは愛国を詠い、時代が変われば平和を詠った。
詠っているときは高揚があるから気が付かないかもしれないが、
結局そこにあるのは時代への迎合であり、
そういう意味で戦前の軍国短歌も戦後の平和の歌も底辺に通じるものは同じである気が
する。歌詠みは戦争を経験して「進歩」などしていない。
戦前も戦後も時代迎合的な歌は量産されたのだ。
もちろん、戦前の戦争を詠った歌にもいい歌は沢山あったはずである。
すべてを軍国短歌と切り捨てるものではないはず。
射ちてしやまん式の歌ばかりではなかったのであり、
出征した夫や子を思う歌には、愛する者の生死に直面した作者の、
まぎれもない実感のこもった良い歌がたくさんあったはずである。
戦後になり、愛国に代り平和が詠われるようになったが、
時代がどう変わろうと短歌にとって大切なのは、まぎれもない作者の実感である。
結社誌でたまに見かける護憲・反戦・政治批判的な歌には、
そういう作者の実感というものが感じられないものが多い。
あるいは、作者自身はまぎれもなく社会の動きを危惧しているのかもしれないが、
それならその作者の実感である危惧を作者の言葉で表現すべきところ、
マスコミの評論のような安易な立脚点から詠っているから、心に響いてこない。
戦前の安易な軍国短歌に通じるような、そういう歌が多い気がする。
くだんの歌も憲法の改正、軍隊の復活が恐ろしい、それが実感であるならば、
その実感をどう表現するかをもっと突き詰めなければならないはずである。
つらつらとそんなことを思ったのである。
Date: 2013/05/29(水)


鎌倉
5月はかなり忙しいので歌会は無理と思っていたのだが、
仕事の目途がついたので、最後の日曜、湘南歌会へ。
いつものように午前中は鎌倉を歩く。
鎌倉駅で降りて観光客の大勢行く東口には行かず西口へ、
改札を出て御成り通りを南へ歩く。
感じの良い店が結構あるのだが、東口と違って観光客がいないので静かである。
そのまま行くと東口からの道と合流し、さらに行くと向こうに長谷寺が見えてくる。
途中から右に入れば鎌倉文学館。
この辺に来る観光客はたいてい鎌倉から江ノ電を使って来るわけだが、
別に江ノ電を使わなくても鎌倉駅から散歩がてら歩ける距離である。
鎌倉文学館、もとは前田侯爵家の別邸。
趣きのある洋館と美しい庭園で有名なところで敷地が広い。
庭園と洋館に行くまでに、入口から森の中の石造りのトンネルを抜けていくのだ。
これが個人の家だったとは立派だねとつくづく感心する。
庭園ではコンサートなども開かれるらしく、その向こうには海が見える。
ここは薔薇が有名なので見にきたのだが、薔薇園はコンサートを開く広場の下の方。
行ってみると確かに薔薇は綺麗なのだが、それ程広くはない薔薇園だった。
案内の写真を見ると広い薔薇園のように見えるが、あれは写真の撮り方がうまいのだろう。
大きい薔薇小さい薔薇いろいろあり、薔薇の香りがなかなかいい。
それにしても立派なものだ。
利家の槍とまつの内助の功はあったにせよ、
それで300年後の子孫がこれだけの別邸を手に入れたのかと思うと、
いささか複雑な気分はしなくもないが(^^;
文学館のなかは鎌倉に縁のある文人の紹介が中心なのだが、行ったときは太宰治の展示を
していた。太宰治は鎌倉に住んだことがあるのか?と思いながら見ていたら、
太宰治は鎌倉の小動埼で女給さんと心中未遂をしたり、八幡の後で首をくくろうとしたり
しているのだ。彼は心中未遂や自殺未遂を繰り返しているがそのうち二回が鎌倉らしい。
鎌倉文学館を出てそのまま長谷へ。
長谷寺の紫陽花が咲いているかと思い行ってみる。
本堂に向かって左の傾斜地に紫陽花が沢山植えられていて遊歩道があり、
紫陽花の季節は行列になるのだが、紫陽花は全体の2割ぐらいが咲いている感じだった。
見頃は来週から再来週だろう。
ここは紫陽花とその向こうの海が綺麗なのだ。
最近の円安のゆえか欧米系の観光客が目についた。
午後から歌会なのでそうのんびりも出来ず、長谷の駅に向かう。
江ノ電の踏切のところの昭和の生き残りのような食堂でビールをひっかけ、
昼食に釜揚しらす丼を食べて歌会に向かった。湘南はしらすの美味しい季節である。
Date: 2013/05/28(火)


コメ
中国で米のカドミウム汚染が問題になっている。
広東省で問題になっていたが、湖南省でも精米所が閉鎖される騒ぎになった。
カドミウムで思い出されるのはイタイイタイ病。
かって日本が経験した公害の問題を中国がいま経験しているわけだが、
日本と違ってスケールが大きすぎる。
流通している米の10%がカドミウムに汚染されているというニュースもあり、
ことが主食に係ることだけに、これはかなり大きな影響をもたらすかもしれない。
流通している米の10%ということは、中国の人口の10%一億三千万人分の主食である。
ビジネスパースンとしてはここで考えるわけである。
日本のコメは輸出産業になりうる。
中国の富裕層は安心できる食べ物のためには金を惜しまないはずで、
カドミウム汚染の広がり次第では反日不買などと言ってられなくなるかもしれない。
というか、13億人の主食のコメの汚染の問題は、
世界のコメ流通に激変をもたらすかもしれない。
既に香港には内陸からコメの買い出しに来る人が増えているらしい。
その香港は日本のコメの輸出先のひとつである。
農業は観光とともにこれからの日本の重要産業になれるはずのものであり、
若者の仕事としてもっと魅力をもって見られるような、
そういう政策が欲しいところである。
Date: 2013/05/23(木)


井上ひさし
3月決算で忙しい5月、先週の日曜は休日返上で仕事をしていたが、
どうにか仕事の見通しがついてきたので、この週末は普通に休ませてもらった。
土曜はアーチェリーを楽しみ、日曜は神奈川近代文学館に井上ひさし展を見に行った。
みなとみらい線の元町で降り、本来ならここからフランス山に登り、海の見える丘公園に
行けばいいのだが、いつもの道草食いの癖で逆方向へ。
しばらく元町の商店街を歩き、テキトーなところから元町公園に登って、エリスマン邸や
ベーリックホールを眺め、ぐるりと回って外人墓地の裏手から海の見える丘公園に登り返
す。天気が良くてあちこちにいろいろな花が咲いて綺麗である。
さて、井上ひさし。
亡くなってもう3年だろうか、確か東北の震災の前の年である。
明治の文豪で文章の上手といえば夏目漱石だが、
昭和の作家で文章の上手といえば井上ひさしをその一人にあげないわけにはいかない。
彼の文章は頭のなかで徹底的に練られた文章という感じで、遅筆だったというのも頷ける。
おそらく彼は常時、頭の中で文章の推敲を繰り返していたのであろう。
作品への執着もなみなみならぬものがあったらしく、劇作家として、たとえひとつでも
駄作は作りたくない、出したくない、という姿勢だったらしい。
その井上ひさしの原稿やら作品制作時の資料やら、
彼の少年期青年期の写真や書簡の展示。
彼の父親が劇作家志望で、さあこれからという時に脊椎カリエスで死んだというのは知ら
なかった。井上ひさし5歳の時。父親の残した本を少年時代に読んでいたことがその後の
彼の人生を大きく左右したらしい。
生活は貧しかったようで、15歳のときにカトリック系の孤児院に預けられそこから
学校に通っている。
上京して浅草のストリップ劇場で脚本係兼進行係などをしながら作品を書き続けた。
その後、ひょっこりひょうたん島で名を挙げ、吉里吉里人でメジャーになった。
その辺の作品の原稿やプロットや制作時の資料などの展示もなかなか面白い。
言葉にこだわり続けた作家である。
こだわりというより執着と言った方が正確かもしれない。
原稿の枡一杯に楷書体で書いた原稿を読んでいると、
なるほど、こういう字を書くのは深い執着心を持った人間だったのかもしれないという
気がしてくる。
彼はこんなことを書いている。

  言葉を会得するということは、自分の周囲にふつふつと沸き立っている無数にして
 無限の無秩序な連続体に、言葉で切れ目を入れることで世界を整理整頓し、世界を解釈
 するわけですね。このように言葉なしでは世界に立ち向かうことができない。だから、
 言葉が、書物が大切なんです。

彼は作品を作るために資料として膨大な本を集めた。現在、22万冊に及ぶその本は、
彼の故郷の山形県川西町の遅筆堂文庫に寄贈されている。
彼の作品にはユーモアとともに強いメッセージ性がある。
そう言えば、ひょっこりひょうたん島のモデルの島は三陸なのだそうだ。
もし彼がもう数年生きて故郷の東北を襲った震災を見たならば、
彼は次の世代にどんなメッセージを残しただろう。
展示を見終わり、喫茶室でコーヒーでも飲んでいこうかと思ったが、
えらく混んでいたのでやめた。
海の見える丘公園は、薔薇やツツジが綺麗に咲いていた。
ベイブリッジが望める公園の明るい広場を通り抜け、
フランス山をくだって駅に戻る。フランス山の紫陽花が少し咲き始めていた。
Date: 2013/05/20(月)


協議会
支部と某生命保険会社との協議会に出席。
税理士協同組合とその生命保険会社がタイアップしていて、
顧問先の保険契約を紹介して成約すると協同組合にマージンが入り、
それがもろもろの形で会員に還元される仕組みになっている。
で、拡販ということで年に一度、協議会を開く。
別に、私が出なくても良さそうなものだが、
なぜか今年は出席せよと支部からの御達し。
昨年の実績やら今年の目標などの説明を聞き、
事例紹介のビデオを見る。
確かに、中小零細企業は社長の手腕にすべてがかかっているというところがあるわけで、
社長に万一のことがあれば仕事はストップ、
家族も従業員も路頭に迷うということになりかねない。
そういうときに備えて必要な保障を確保しておく、そういう企業防衛は重要である。
で、そのビデオで案内されていた標準保障必要額というものを計算している書類を
つらつら眺め、保険会社の社員の説明を聞いていたのだが、
どうもその書類の計算がおかしい。
「これ、税金かかることになっているけど、かからないんじゃないの?」と質問。
想定外の質問だったみたいで、保険会社の社員は見当外れの回答をしていたが、
つまり、社長に万一のことがあり、仕事がストップ、売上はゼロ。しかし、社員の
給料等の固定費はかかるため、当面半年間の固定費として1500万必要。
さらに会社の負債の整理、その時点での支払充当可能資金等の計算をして、
差引1500万の資金が必要だという事例なのだが、
1500万が必要なのでそれを保険金で確保しようとすると、
保険金収入に税金がかかるということで、実効税率から割戻し計算をし、
2300万程度の生命保険に入らないといけないと。
そうすれば800万の税金を払っても必要額の1500万が確保できるという話。
しかし...。
1500万の保障が必要だとして、1500万の保険金を受け取ったとしても、
半年間で1500万の固定費がかかっていれば、収入費用チャラで税金は発生しないはず。
ま、生命保険会社の作る資料は、少しでも必要保障額を多くみせるように作るんだろうし、
税金については素人の保険代理店が顧客に説明するならそれでもいいとして、
税金のプロである税理士が顧客に説明するのに、税金の計算の間違った資料はちと
使いにくいよね(^^;
事例紹介のビデオでは、某支部の某先生が企業防衛の熱い思いを語っていたが、
あの先生、顧客から「先生、この税金の計算間違ってますよね?」と言われたら、
どう説明するんだろう?(^^;;
余計なツッコミだとは思ったが、一言言わせてもらったのだった(^^;;;
Date: 2013/05/18(土)


遠野
朝食を早めに済ませ出発。
今日中に釜石から遠野を経て花巻、東北道にのって横浜まで帰る。ちと遠い。
釜石は港の方よりも新日鉄の工場のある甲子川沿いの方が市街が広がっているらしい。
津波もここまではこなかったので、被災した様子も全くないが高炉が休止して以来、
市の人口はだいぶ減ったらしい。
そこに震災である。厳しいものがありそうだ。
釜石から遠野への道は昔からの街道で、結構、家並みの続く道である。
しばらく走ると釜石道のインター、これに入って遠野へ。
春のおおらかな山と谷をトンネルでぶちぬいて走っていくような道で、
よくこんな山奥に作ったなという気がする。走っていて気分はいい。
しばらく走り、幾つめかのトンネルを抜けると目の前に明るい広やかな盆地があらわれた。
ゆるやかに起伏した土地に草原と牧草地と畑が広がり、点々と農家がある。
ちょっと日本離れした雰囲気のある広やかな田園風景。新緑が美しい。
その美しい広がりの向こうには残雪の大きな山なみが見える。
岩手山? いや、早池峰か?
釜石から山奥を花巻まで走っていくイメージがあったので、
こんな広いところがあったのかという感じでちょっと驚いた。
しばらくして標識が出てきて、遠野に入ったのだと分かった。
遠野物語の生まれた土地。
多くの伝承を残した東北の山深い土地。
遠野がどういうところかあまり知らぬままに、花巻から釜石に続く街道沿いの決して
広くはない山あいの土地で、峠を越えると山村があったり人跡まれな原野があったり、
そんなイメージを抱いていたのだ。
ところが、実際の遠野は広やかな平野が広がる美しい盆地である。
あちこちに咲いている桜や桃も、初めて見る広やかな土地に華やぎを添えているようだ。
これはあとで知ったことだが、遠野は南部藩の支藩、遠野南部氏の城下町であり、
交通の要衝でもあり、私が勝手にイメージしていた山深いだけの里ではなかったのだ。
風景に目を奪われながら走っていると、標識が出てきて右が八幡となっている。
八幡...。
釜石を出るとき見た遠野の地図に確か遠野八幡というのがあった。そこのことか?
ポリシーとしてカーナビを使わない人間である。
カーナビ使うと地図を見なくなる。自分で周囲を見て考えるということをしなくなる。
あまり便利になると人間バカになるので、必要以上に道具に頼らないのをポリシーにして
いる。車で遠出したとき結構考え込むことが多いといえば多いのだが、そういう信念を
持っているから仕方ない(^^;
八幡...、そっちでいいのかな...?
右に入る。
道が少し細くなり、標識もなにもない。
遠野物語を生んだ東北の山里、その曲がりくねった道。
俺はこのままどこに行くんだと思いつつしばらく走ると、右に神社が現れる。
ここでしばし惑うが、そのまま進み、その先の細い四辻を右に。
うん、遠野の座敷わらしが呼んでいる気がしてきた...(^^;;
よく分からんがスピードあげてそのまま走る。
しばらくするとカッパ淵とか伝承園とかの標識。
あってるじゃん(^^
普通は遠野の市街の方から入ってくるらしいが、
市街に入らず田畑突っ切って最短距離を走ってきた。
カーナビなくてもなんとかなる(^^;;;
しばらくして現れた伝承園に車を停める。
案内を見るとカッパ淵は車が停められず、ここから歩いていくしかないらしい。
思いの外早く着いてしまい、まだ開館時間でなかったが、
係の人がどうぞとうぞと入れてくれた。
ここは、遠野の伝承を柳田国男に伝えた佐々木喜善の紹介や、重要文化財の南部曲り家が
移築されていたり水車小屋があったり、昔の遠野の農村の雰囲気を伝える場所。
南部曲り家に入ってみると、結構暗い。外光の取り入れ口の少ない構造になっているので、
昼間でも蝋燭をともさないと暮らせなかったのではなかろうか。
囲炉裏の部屋では昔話のテープが流れている。
奥の方にオシラ堂という部屋があり、養蚕の神様のオシラサマが夥しく祀られている。
流れていたテープで話していた民話のオシラサマ。
馬に恋した娘の物語、暗い廊下にこの話をモチーフにした白黒の写真が数枚飾られて
いるのだが、それがなんだか怖い。
幾つかの部屋があり、そのうちのひとつの部屋には座敷わらしの伝承の案内があった。
外に出てカッパ淵の方に行ってみる。
春の日差しの暖かい農村である。
たいした距離ではなく、寺の後ろの方にカッパ淵はある。
昔はカッパがいたそうだが、カッパを探しにくる観光客が沢山いてはカッパも
出てきづらいだろう。水は澄んでいて綺麗な流れである。
でも、どうなんだろ、イメージとしてはもっと暗いところかと思った。
観光客用に遊歩道を作るため木を切ってしまつたのではなかろうか?
木を切らず暗い淵のままにしといてやればカッパもどこかに行かずにすんだかもしれぬ。
淵と道を挟んだところに小さな祠があり、ふと見ると雑草のように水芭蕉が咲いていた。
カッパ淵をあとに駐車場に戻る。本当に気分のいい田園である。
遠くに見える残雪の山はやはり早池峰だろう。
今度、早池峰に登るついでに一日かけてゆっくり遠野を歩いてみたい。
実際、丸1日、あるいはそれ以上かけなければ遠野は回れない気がする。
そのあと、市街の方に出てむかし話村というところで民話の語りを聞いたりして昼食を
摂り、帰る。猿ヶ石川沿いに延々と続く桜が綺麗だ。
遠野から少し行ったところに釜石道のインターがあり、そこから花巻、そのまま東北道に
入り南へ南へと走る。途中、断続的な渋滞はあったが8時過ぎには横浜に着いた。
2日間の走行距離1300k。ちょっと遠かったが印象的な東北の旅だった。
Date: 2013/05/11(土)


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