*--Diary--*


鯖街道その4  2012/07/24(火)
鯖街道その3  2012/07/23(月)
鯖街道その2  2012/07/20(金)
鯖街道  2012/07/17(火)
東京平日歌会  2012/07/12(木)
神田古書店街  2012/07/10(火)
小銭入れ  2012/07/09(月)
太陽光発電  2012/07/05(木)
河野麻沙希第二歌集『七夕きっす!!』批評会  2012/07/02(月)
消費税増税  2012/06/27(水)


鯖街道その4
鯖街道を走り終え、今夜の宿に向かう。祇園祭の宵山で夕方から交通規制が始まる。
愚図愚図していると渋滞にはまるかもしれないので、市街を急いで走り抜け宿に入る。
ビールで喉を潤ししばらく休憩したのち、祇園祭を見に行った。
八坂神社で並べられた神輿を眺め、境内の一隅でやっている奉納の狂言などを見ていると、
周囲がわさわさ動き始めた。なんだと思って振り返ると稚児を先頭にした法被と浴衣姿の
一団が本堂から出てきて、記念撮影をしたあと山門をくぐり四条通りに向かってゆく。
祇園祭についてはよく知らないのだが、あとで調べてみたら稚児が末社回りをするらしい。
人混みに押されながら山門から眺めたら凄かった。
稚児の末社回りに合わせ6時から四条通りは車が入れなくなるのだが、
八坂神社から西に伸びる四条通りがことごとく人で埋まっていた。
こんな京都を見たのは初めて。
境内では明日、石見神楽が奉納される。
京都でなんで石見神楽なんだと思うかもしれないが、
八坂神社の祭神はスサノオノミコトである。
スサノオは出雲の神。
ゆえに石見神楽を奉納する。
夕暮れせまる四条通りを西の方にずーっと歩いていくと、長刀鉾などの大きな
山鉾が道に繋留されているのを見ることが出来る。提灯に灯りがついて綺麗である。
あちこちの屋台でテキトーに食べていたら、それで腹がふくれてしまったので、
あとは缶ビールを飲み、早めに宿に戻って寝る。
鯖街道を走ってきて、少し休んで祇園祭、やはり疲れている。
翌日、宿に頼んで昼過ぎまで車を停めさせてもらい、
朝、東山をぶらぶらしながら三十三間堂まで歩く。30分ぐらいか。
修学旅行以来の三十三間堂を見て、さらに京都駅まで歩き、そこで土産を買って送る。
で、買い物が終わってから今回の旅のもうひとつの目的、三月書房に行く。
三月書房というのは歌集など短歌関係の本をかなり置いている本屋である。
京都まで行って本屋かと思われるかもしれないが、
歌集というのはフツーの本屋にはあまり売っていない。
売っていたとしても一部の有名歌人の歌集だけである。
短歌関係の評論とかになると、探すのは徒労だというくらい売ってない。
京都の三月書房というのは、
そういう滅多にない短歌関係の本をかなり扱っている絶滅危惧種的本屋であり、
歌詠みの間ではかなり有名。
鯖街道を走って京都に行き、ついでに立ち寄って歌集など買ってこようと思っていたのだ。
京都市役所の後ろの方にあるので、京都駅から地下鉄で行くのが一番近いと思うのだが、
また道草食いの心がうずいた。
出かける前、祇園祭について少し調べてきたのだが、
烏丸通りの西側の室町通りや新町通りのあたりで屏風祭りというのをしているらしい。
祇園祭の時期、家で大切にしまっている屏風を並べ、道ゆく人に見て楽しんでもらおうと
いうものらしい。それと同じようなものかもしれないが、夕べ、東山を歩いていたときは、
鎧を展示している家が何軒もあった。案内を読むとそのあたりの人は昔から祇園祭の警護
を引き受けていたらしく、祭りの雰囲気を盛り上げるために、警護に使った鎧兜を道ゆく
人に見てもらうのだそうだ。こちらの方はネットなどには紹介されていなかった。
ちょっと遠いかなと思ったが、普段の道草食いの癖で歩くことにする。
烏丸通りをテキトーに北にのぼり、テキトーなところから西に入れば室町通り、新町通り
があるはず、という大雑把な感じで歩きはじめる。
しばらくして気が付いた。
今日は暑い(^^;
七月の天気の良い京都を延々と歩くのって覚悟がいる。
ちょっと遠かったかなと思いつつ歩き、テキトーなところで西に入り、
新町通りにぶつかったかなという角で通りの向こうを見ると、
なんだ?
あれは山鉾か?
行ってみると確かに山鉾である。
四条通りにある長刀鉾のような大きい鉾より一回り小さい山鉾。
しばらく行った先で新町通りは車両進入禁止になり、出店が出たりしてかなりの人出。
浴衣姿の若い女性なども沢山歩いていて、みな山鉾を見にきている。
通りの建物から仮設の渡り廊下が山鉾にかけられていて、山鉾に乗れるようになっている。
山鉾の向こうにはさらに別の山鉾が停められていて、またさらに向こうにも別の山鉾が
ある。つまり、祇園祭で市内を巡行する山鉾は当日までこの新町通りと隣の室町通りに
停められているのだった。長刀鉾のような大きい山鉾は狭い通りには入らないので
四条通りに停めているのだろう。夕べはここまでは歩かず、疲れていたし人も多かった
ので、四条通りの長刀鉾などを眺めて引き返したのだった。
ま、その辺のことは前もって祇園祭について調べておけば分かることなのだろうが、
今回は鯖街道がメインで京都に着いたら三月書房で短歌関係の本をまとめ買いしようと
思っていた。祇園祭はこう言ってはなんだが付け足しでそこまで調べなかった(^^;;
やっぱり道草は食うものである。
京都駅からまっすぐ地下鉄で三月書房に行っていたら新町通りの山鉾を見られなかった。
道草を食うからいろいろな発見がある。
道草も食えないヤツに一人前の仕事が出来るわけがないという信念をさらに固め、
京都市役所の方へ、
暑い(^^;;;
いい加減、道草食い過ぎたかなと思うあたりで、寺町通りにぶつかる。
ここを北へ入ってしばらくいけば三月書房。
小さい本屋である。
フツーの町のなかの、大手本屋に圧迫されてひっそり息をしている古びた小さな本屋を
思い浮かべてもらえれば間違いない。
本屋の主人が座っている脇の書棚が短歌関係であるらしく、確かに結構多い。
感じの良い主人と少し話をし、歌集と評論まとめて二万円くらい買う。
送料はサービスで送ってくれるという。
名刺をくれてメールでも注文受け付けていますからと言っていたが、
やはり本は直接手にとって選びたい。
またいずれ京都に来たら訪ねてまとめ買いしよう。
京阪電車に乗って宿の駐車場に戻り名神高速に乗って横浜に帰る。
途中、大津のサービスエリアで今夜の晩飯に棒寿司を買った。
棒寿司とか鯖棒寿司とかいうが、土産で売っている鯖寿司はたいてい茶色い昆布で
ぐるぐる巻きになっている。この昆布の旨味が鯖寿司の味をさらに引き立てるのだが、
鯖街道で食べた鯖寿司に乗っていた白板昆布とは違い、この茶色いぐるぐる巻きの昆布は
食べるとき取って食べる。何を隠そう、初めて鯖寿司を食べたときそれを知らず、茶色の
昆布のついたまま食べて、ちょっと食べにくいなと思ったのである。
ま、昆布と一緒に食べたい人は別にそれでいいし、
実際、昆布と一緒に食べてくださいという鯖寿司もあるらしい。
そう言えば、小浜の街を歩いていたらかなりの老舗らしい古い作りの店で「昆布」と看板
を出している店があった。鯖寿司に使われる昆布も若狭から鯖街道を運ばれたのである。
そして、その昆布を若狭に運んだのは北前船だろう。
北前船のルートは海の街道である。次は北前船のあとを訪ねてみようか。
3日間の鯖街道の旅を終え横浜に帰る。琵琶湖には大きな入道雲が立ち上がっていた。

Date: 2012/07/24(火)


鯖街道その3
熊川宿から鯖街道は山越えになる。若狭と近江の国境を超え、
途中、琵琶湖にくだる道を左に分けて道はほぼ直角に右に曲がる。
しばらくは山のなかという感じなのだがだんだん開けてきて空が広く感じる。
さらにその先の田畑が広くなってきたあたりにあるのが朽木宿。
戦国時代、朝倉攻めで浅井氏に裏切られ京都に逃げ帰る織田信長がこの朽木を通った。
領主の朽木元綱は浅井氏とよしみを通じていたが、
信長に同行していた松永久秀に説得されて信長を助け、
その後は信長の家臣になり朽木二万石を領した。
浅井氏の裏切りにあった直後の信長はかなりの危機的状況にあったはずで、
それにもかかわらず信長の側についた朽木元綱は、
あるいは時代が見えた人であるのかもしれない。
朽木は田畑だけ作って暮らしていた場所ではない。
そこの領主は当然、鯖街道の物流にも関与したはずであり、
商売に関与していれば情報も入るだろうし、それなりに利に聡くもなるだろう。
朽木元綱は街道を通る商人達から入る情報で、
時代の趨勢をうすうす感じとっていたのかもしれない。
ここの道の駅に車を停め、朽木宿を歩く。
熊川宿と比べて周囲は開けていて、鯖街道の物流だけでなく、農業はもちろん
京都への木材供給地として林業も盛んだったらしい。
そのため昭和以降の近代の建物も多くて、熊川宿ほど古い宿場町の趣きをとどめて
いるわけではないのだが、それでも面影は残っている。こんな感じ↓
http://hitorikimamani.cocolog-nifty.com/buraritabi/2010/07/post-1441.html
やはり熊川宿と同じように水路があるが、朽木氏の陣屋があり城下町だったので、
敵が攻めてきたときに備えた鍵曲がりを作っているあたりが熊川宿とは違う。
鍵曲がりとは、攻めてきた敵が真っ直ぐ進めないように、あえてところどころ直角に
曲げるように作った道で、城下町にはよくある。
水路のほとりに柳の並木があったりして熊川宿とはまた違う風情がある。
宿内をゆっくり見て歩き、昼食に鯖寿司を食べる。
鯖街道を運ばれた塩漬けの鯖で作った鯖寿司は、昔は京都の家庭で当たり前に
作られていたらしく、今も京都の名物のひとつである。
当然、この鯖街道沿いにも鯖寿司の幟や看板はあちこちにある。
そんな店のひとつに入りしばらく待つと、
上に薄い白板昆布が乗った鯖寿司がきた。
一口食うと、ほどよい酸味があって美味い。
昆布の旨味もしみてる。
暑いのでさっぱりした感じも食べていて心地よい。
ぱくぱくとあっという間に食べてしまう。
朽木から先、道は再び谷沿いになる。
しばらく雨が降っていたせいか川の水量は多く、谷の緑は綺麗である。
京都からそれ程遠くないところにこんな豊かな森があるのかという気がする。
途中にもてんてんと鯖寿司の幟を出した店がある。
気分の良い谷間の道をゆけば花折峠、今はトンネルで越える。
その先に割りと人家の集まったところが現れる。途中の宿であろう。
ここは観光地化していないようで、そのまま通り過ぎる。
途中越えを越えれば近江から山城、いよいよ京都である。
三千院の下を走って大原を抜け、
高野川沿いに走り続け街並みが続くようになれば京都の市街地はすぐそこ。
出町柳の駅が近づくあたり、右手の高野川の向こうは下賀茂神社の糺の森である。
駅の先、高野川と鴨川が合流するところの出町橋を渡り、駐車場を探すが
適当なところがないので下賀茂神社の駐車場に入れる。
世界遺産の下賀茂神社と糺の森はあとで見ることにして、
とりあえず出町橋に戻る。
鴨川は数日前の雨の影響だろう、茶色い濁流になって流れている。
こんな鴨川を見たのは初めてだ。
しばらくうろうろ探していたら、出町橋を渡った西岸にあった↓
                http://dot.hobby-web.net/wp/?p=319
柳でちょっと隠れているが、「鯖街道口」という碑が立っている。
ここが鯖街道の終点。
小浜から80k。
それにしてもぎらぎらと暑い。
昔はこんな暑い盛りにも鯖を運んだのであろうから、
夏の鯖はかなり塩がきいていたのかもしれぬ。
そんなどうでもいいことを考えつつ、茶色い濁流になっている鴨川を渡り駐車場に戻る。
それにしても走ってきた鯖街道と違い、やはり京都は人が多い。
浴衣姿の若い女性もあちこちに見かける。
七月の京都は祇園祭。今夜は宵山である。
Date: 2012/07/23(月)


鯖街道その2
小浜を出て国道27号を走る。昨日訪ねた明通寺への入り口を過ぎ、敦賀方面への道と
分かれてしばらく行くと熊川宿。若狭から鯖街道に入り最初の宿場である。
ここから道は若狭と近江の国境の山に登ってゆく。
宿の端っこに無料駐車場があり、そこから歩くのだが、
その先の道の駅に停めて歩いた方が宿の中心部に近くて楽だったかもしれぬ。
まだ時間が早いので観光客もまばら、街道の両側に宿場町の家並みが続く。
道の片方には水路が流れていて、家の玄関から数段の石段で水路の縁に降りられるように
なっている。たぶん、水路の水で洗い物をしたりするのであろう。水は綺麗。
車道は宿場町の外縁をなぞるようにを走っているので、
宿場町のなかは昔の街道の雰囲気が保たれている。
こんな感じ→http://agua.jpn.org/tour/t11e.html
家並みを眺めながら歩いていたら「宿場館」という石造りの建物があった。
一見、昔の村役場みたいな建物である。
扉が少し開いていて、中で立ち話をしていた人がこちらに気付き、
「どうぞ、見てってください」と言って扉を開けてくれた。
入ってみると、案の定、昔の村役場で今は熊川宿の資料館になっているのだった。
昔の写真や道具などが展示してある。
資料館の受付をしているおばちゃんが話しかけてきた。
「熊川宿のことはもう御存知ですか?」
ちょうどいいのでさっき歩きながら感じていた疑問を聞いてみた。
「道の片方に水路があって、それぞれの家から降りられるようになっていますけど、
道の反対側の家はどうするんですか? 水路は使えないんですか?
それとも前の家にお願いして使わせてもらう?」
「あれは川戸といって、昔からあそこで野菜を洗ったりいろいろ暮らしに使ってるんです。
もちろん、道の反対側の家も使いますよ。別に使うのにいちいちことわったりしません。
下の町じゃそうやって使ってますが、中の町の方は水路のところは間地になっていて、
間地って誰の土地でもない土地なんですけど、水路は自由に使ってます」
なるほど、田舎の権利関係って結構難しくって、
それが田舎暮らしを始めた都会人にとってひとつの障壁になるのだが、
ここではそうやって水の使い方を調整しているのか。
ちなみに、熊川宿の水路は前川という名がついているらしいのだが、
もとからあった川ではない。
宿の近くの川から水を引いた人工的なもので、
つまり、熊川宿は都市計画にもとづいて作られた宿場町なのである。
中の町については水路の部分を間地にして町を作り、
下の町はそうなっていないが実質的には共用部分になっている。
そういう違いがあるということは、
あるいは、都市計画で最初に作られたのは中の町部分で、
宿の繁盛とともに下の町の方に宿場町が延伸していったということだろうか。
地元の人と話をしていると、
何気ない話からその土地の歴史が垣間見える気がして面白い。
気さくなおばちゃんで熊川宿での暮らしをいろいろと聞かせてくれた。
冬は結構雪が積もり、しかもここ数年、以前と比べ雪が多いらしい。
高齢化しているから屋根の雪の始末が大変で、業者に頼むと数万かかると言っていた。
一通り見て、おばちゃんに礼を言って外に出る。
暑くなってきた。
さらに歩いていくと、昔の問屋だろうか立派な構えの家があったりする。
鯖街道を通る若狭からの魚介類は、必ずしもひとりの商人が最初から最後まで通して
運んだわけではなく、熊川宿、朽木宿、途中宿と、それぞれの宿の問屋が荷駄の手配を
してリレー式に運ぶのが主であったのだろう。
街道筋の問屋はそういう商売で繁盛し、仕事があれば人が集まり、
人が集まればそういう人を相手にする商売の人も集まった。
鉄道や車での輸送が始まる前、人馬で荷物を運んでいた時代というのは、
地方にそういう仕事が沢山あった時代なのであり、
熊川宿もそうやって繁栄し、今はすっかり田舎になっている宿場町である。
だんだん観光客が増えてきた。
ひととおり宿場町のなかを歩いて駐車場に戻り、
鯖街道をここから近江に入る。
長くなったので続きはまたあとで書く。
Date: 2012/07/20(金)


鯖街道
鯖街道は福井の小浜から京都に続く街道である。
昔、若狭湾でとれた鯖を塩漬けにしてこの街道を京へ運んだのでその名がついた。
若狭の人は、京は遠ても十八里と言ったそうだが、十八里だと二日がかりくらいだろうか、
鯖が京に着く頃には塩の利き加減がいい塩梅になり美味しい鯖になったのだそうだ。
京都の鯖寿司はこの塩漬けの鯖を使った。
子供達とあちこち出かけていて気がついたのだが、
今ではすっかり田舎になっているところが昔は物流ルートにあたっていて、
過疎になった現代からは考えられないほど繁栄していたということがある。
北前船のルートなどはその典型だし、
何年か前に子供達と訪ねた会津西街道や白川郷もそういう街道。
昔の物流ルートすなわち街道を旅するというのは新しい発見があってなかなか面白い。
で、今回は7月の三連休を使って鯖街道を走ってみることにした。
東名・名神と走り継いで米原から北陸道、敦賀で降りて一般道を小浜へ向かう。
途中、明通寺に立ち寄る。若狭路には国宝や重文の寺社が結構あるのだが、
そのなかで明通寺は気にいっている。
三連休なのでかなりの人かなと思ったら、意外に駐車場はがらがらだった。
天気もまずまず。蝉の声がする。
人の少ない境内は静かで本堂に入ると寺の人が説明をしてくれた。
ここの本尊は薬師如来。左右に隆三世明王と深沙大将がひかえている。
正直言うと仏像のなかでは薬師如来や大日如来のようないわゆる本尊よりも、
脇にひかえている二十八部衆などの像が好きなのである。
この寺で好きなのは深沙大将。
深沙大将と言っても知らない人が多いだろうが西遊記に出てくる沙悟浄である。
ただ、漫画チックな沙悟浄とは全く違う。こんな感じ↓
http://www1.city.obama.fukui.jp/obm/sekai_isan/japanese/data/132.htm
一木作りだそうで、結構大きくて迫力がある。いわゆる上手な仏像という感じではなく、
微妙に体躯にはアンバランス感があるのだが、むしろそこに若狭の土地の土俗性が感じら
れるような気がして好きなのだ。確か重要文化財。
明通寺を出て小浜市街に、まだホテルのチェックインには早いのでしばらく市街を歩く。
小浜は伝統的な街並みを残しているところがあって、
うだつのあがった古い家並みが結構ある。
ただ、小浜のうだつ、あるいは見栄で作ったうだつかなという気がする。
しっかりと漆喰で塗り固めた本格的な防火のためのうだつと比べると、
土壁むき出しで防火用ならありえない木材も使ってあったりして、
本来の防火より装飾かなという感じなのである。
おまけに随分小さい家にも小さいうだつがあがっているので、
防火よりも見栄うだつかなという気がしてしまうのだ。
ま、狭い土地だと、隣がうだつあがっているのに、うちがうだつあがらないなんて、
ということもあるのだろう(^^;
テキトーに歩きながら、いづみ町商店街に行ってみる。
魚屋が集まったような古い商店街で規模もそれほど大きくない。
この商店街に鯖街道の起点のプレートがある。
しばらく行ったらあった↓
http://www.mapple.net/spots/G01801017901.htm
すぐ近くに鯖街道資料館というのがある。
早い話、閉店した魚屋を資料館にしたような小さなところだが、
中に入ってみると、昭和前期の鯖街道の写真とかがあった。
若狭は京阪地区への魚の供給地だったわけで、
鯖に限らず日本海でとれた魚介類が鯖街道を通って京都に運ばれた。
魚介類だけでなく、若狭に着いて鯖街道を通って京に入った渤海や高句麗の使節や商人も
いたはずで、鯖街道は古代から始まり昭和まで続いた街道だった。
このいづみ町商店街は今でこそ小さな商店街だが、
かなり歴史の古いしかも繁盛した市場だったのである。
明日はここから熊川宿・朽木宿・花折峠と鯖街道を走って京都に入る。
夜、ホテルの近くで夕飯を食べようと思って出かけたが近くの店は一杯。
仕方なくホテルで教えてもらい、小浜の駅の近くの居酒屋で、
刺身をつまみにしばらく飲んで、鯖のへしこのチャーハンを食べた。
鯖のへしこというのは初めて食べたが、一言で言えば鯖の糠漬け。
お店の人が「辛くありませんでしたか〜」と心配していたが、
充分過ぎるくらい塩辛かった(^^;;
Date: 2012/07/17(火)


東京平日歌会
東京平日歌会、気になった歌。
例によって誌面発表前なのでここには出せないが、
子供の飼っている蜥蜴の背中が肥えてきて私の手の甲に似てきた、
という歌意の歌。
内容はいたって明瞭な歌で、批評した人もすんなりと評していた。
年をとると手の甲ががさついてくるもので、蜥蜴の背中が自分の手の甲に似てきたと
いう表現がなんとも言えず面白いという好意的な意見が多かった。
私はちょっとひっかかるところがあったので発言を求めた。
「この『蜥蜴』は日本の蜥蜴? それともペットで飼ってるようなもう少し大きいトカゲ?」
私の疑問は他の人達には、なんでそんなこと聞くの?的に聞こえたようだが、
私はひっかかったのである。
日本の蜥蜴を思い浮かべたとき、
その背から尾にかけての色は青みがかった色があったり縞があったりして一色ではない。
それに表面が少してらてらしている。
その感覚と年取ってがさついてきた手の甲の感じが私には一致しなかった。
「茶色の蜥蜴もいますよ」
という意見があったのだが、それはカナヘビかな?
ちなみに、カナヘビもよく見れば決して茶色一色ではない。
縞模様にうすい緑色がかっているのもいるがあれは蜥蜴の方か?
色より触感を表現しているのかもしれないが、そうであればなおのこと、
日本の蜥蜴の背から尾にかけてのてらてら感が合わない。
それと、手の甲の平たい感じに対して、
蜥蜴でもカナヘビでもいいのだがボールペンぐらいの細い丸い感じ。
違和感覚えないだろうか?
だから私は、日本の蜥蜴ではなくペットとして飼われているもっと大きなトカゲを
思い浮かべたのである。背中にもう少し平たい感じのあるような。
で、そうだとしたとき、「蜥蜴」という表記はどうなのか?
外国の〇×△トカゲという名であれば、あるいは固有種名を入れるという方法もあった
かもしれないし、外国のトカゲであることを伝える方法もあったかもしれない。
例えば『蜥蜴』という表記と『トカゲ』という表記でも微妙な違いは出そうである。
その辺がひっかかったのだが、話は噛み合わないまま時間もないので先に進んだ。
その日の出席者28人ということで、あまりゆっくり出来ないことは承知しているので、
私もあまり突っ込まなかった。
似たような違和感を覚えることは結構ある。
もうだいぶ前だが、ネットの歌会で、
雲雀が75度の角度で真っ直ぐ空にかけのぼる、
というような歌があり、かなり好評だった。
曰く、「75度の角度というのが面白い」「空にのぼる雲雀の躍動感を感じる」
私はそれらのコメントを読みながらかなりの違和感を感じていた。
春、雲雀は縄張りを主張するために空にのぼって高鳴く。
小さな鳥なので飛翔力にも限りがあるのだろう、
右に左に揺れながらそれでも一生懸命登ってゆく。
まっすぐビュッと駆けのぼっていくようなそんな感じではない。
そもそも縄張りを主張するために鳴くわけだから、
その縄張りの範囲を左右に揺れながらのぼるわけである。
そして力つきたな、というあたりで一瞬静止し、重力にまかせて下に落ちてくる。
このとき翼をたたみ文字通り落ちるように野に降りてくるのである。
この歌を批評している人達は、ほんものの雲雀を見たことあるのだろうか?
頭の中の知識としての雲雀、それをもって歌を評しているのではないか?
そういう違和感を私は感じたわけである。
今回の蜥蜴もそれに近いものを感じた。
子供のとき、石をひっくり返してそこに冬眠している蜥蜴を捕まえたとき、
土の中から出てきた青みを帯びたてらてらとした蜥蜴の背中。
批評している人達はそういうものを本当に知って批評しているのだろうか?
今回に限ったことではなく、
歌会に出ていると似たような違和感を抱くことは結構ある。
ちなみに、歌会が終わって作者名が配られたとき、くだんの蜥蜴の歌の作者が隣に座って
いた人だったので、「これは日本の蜥蜴ですか?」と聞いてみたら、
なんとかという(名前聞いたけど忘れた)外国のトカゲだった。
Date: 2012/07/12(木)


神田古書店街
七月の東京平日歌会、いつもの東京下町歩きは神田古書店街。
神田古書店街というと神田にありそうだが、
実際はJRの神田ではなく神保町である。
地下鉄の神保町で下りれば目の前、JRなら御茶ノ水の方が近い。
東京駅で中央線に乗り換え御茶ノ水、聖橋の方に降りる。
信号を渡って少し行くと右手に教会がある。
ニコライ堂。
明治に建てられ、日本では最大のビサンチン様式の教会であるらしい。
ニコライ堂の前の道はゆるい坂道になっているのだが、
そこに小さな案内表示があり、紅梅坂と書いてある。
昔は淡路町の幽霊坂に続いていたが、今では区画整理で続いていないとか。
ニコライ堂の先をしばらく行って適当なところから神保町方面に曲がると、
向こうの歩道の真ん中に大きな楠が見える。幹の回りに注連縄が巻いてある。
なんだと思って行ってみると、楠の向こうに小さな神社があり、
歩道がそこだけ広がっていて楠が立っているのだった。
たぶん、御神木ということで道路を作ったとき、その部分の歩道を広げて残したのだろう。
太田姫稲荷神社となっていて、サラリーマン風の若い男が二人並んで手を合わせていた。
小さな神社、というより社である。
建物の回りに形ばかりの狭い外廊下がついていて、
かなり年とっているらしい猫がのんびり昼寝していた。
手を洗って社伝を読む。
なんでも太田道灌の娘が天然痘にかかったおり、京都の一口稲荷神社が霊験あるという
ことで祈ったところ娘の病が直り、喜んだ道灌は江戸城の鬼門にこの社を勧請し、
娘も深く信心したとか。その後、徳川家康の時代に江戸城のなかから移されたらしい。
当時、天然痘にかかれば治癒しても顔にはかなりのあばたが残っただろう。
命は助かっても女性にとってはつらかったはず。
あばたになった太田姫が信心した小さな社が今でも東京のど真ん中に残り、
大切にされている。
社を守り続けるのもさることながら、
あばたになった太田姫へのこの地の人々の眼差しが感じられる気がして、
関係ないかもしれないが、この国も捨てたもんじゃないなと思った。
そこからちょいと行けばもう神保町である。
靖国通りの向こうが古書店街。
昔はもっとあったのかもしれないが、今はこの通りに面した50mぐらいの狭いところに
集中している。ひとつひとつの店は狭くて店主もたいてい無愛想な感じ。というか、本を
探している客をそのままにしといてくれると言った方がいいのかもしれない。
今回探しに来たのは歌集。
歌集というのは一般の本屋ではあまり売っていない。
で、神田あたりに行けば掘り出し物があるかなと思ってきたのだが、ない。
やはり、歌集などというものを買いに来る客はこの神田でも少ないのであろう。
それでも齊藤茂吉と会津八一を見つけて買った。
本当はもう少し現代の歌集が欲しかったのだが、仕方ない...。
午後からは歌会なので、いつまでも探しているわけにもいかず、
テキトーなところで諦める。
昼飯を食おうと歩いていると、古書店街の外れから鰻の匂いがしてきた。
見ると昭和から生き残っているような古い店構え。
こんな感じの鰻屋→http://blogs.yahoo.co.jp/julywind727/25776771.html
「今荘」となっていて、店の前に何人か並んでいた。
美味いのかどうかは知らないがちょっと気になる。
しかし、時間もないので並んでまで食ってはいられない。やり過ごして他の店を探す。
このあたりオフィス街なので昼休みの時間はどの店も一杯である。
しばらく歩いていると再び鰻の匂いがしてきたが、そっちも何人か並んでいた。
そう言えばもうすぐ土用の丑。なんとなく鰻が食いたくなったが、
いかんせん混んでいるのでそのまま地下鉄の駅へ行き、歌会の会場へ。
うーん、食いっぱぐれた鰻、今月末の湘南歌会のとき鎌倉あたりで鰻屋を探してみようか。
Date: 2012/07/10(火)


小銭入れ
アーチェリーの射会に久し振りに参加した。
通っている射場では月に一度、射会を開いているのだが、
大抵、歌会とぶつかる。
歌会はそのときしか出来ないが、
アーチェリーは別に射会に出なくても休日に行けばいつでも出来るので、
いきおい日程がぶつかれば歌会を優先することになる。
で、しばらく射会に出ていなかったのだが、
今月は歌会とぶつからない日だったので参加した。
射場に行く途中のコンビニで昼飯を買ったとき、あれ!と思った。
財布にあまり金が入ってなかった。
小銭でふくらんだ財布というのが嫌いなので、
札入れとは別に小銭入れがわりの財布を使っていて、
ちょっと出かける程度のときはそれだけ持っていく習慣。
ふだんは札も少しは入れてあるのだが、その日はたまたまお金があまり入ってなかった。
いつもの習慣で中身もろくに確認しないで出てきたのだった。
見たら、千円札が二枚だけ。
確か、射会の参加費は3500円だったような...。
ま、常連で通っている射場だから融通はきかせてくれるだろうと、
とりあえず射会にはそのまま行って参加。始まるときにオーナーに訳を話すと、
それを聞いていた周囲の常連一同、大いに笑ってくれて(^^;
仕方ない立て替えてやろうということになった。
射会が始まり、一緒に回っている仲間と話しながらプレーしているうちに、
射会の参加費は3500円じゃなくて2800円だったと気づいた。
3500円はビジターの料金で、会員は2800円だった。
ちなみに通っている射場は、会員になって会費を別途払うと通常の料金が1800円に
なり、それでまる一日でも射っていられるのである。
射会はそれプラス1000円で2800円。
しばらく参加していないので射会の参加費も忘れていた。
まてよ、それなら払えるかも...とプレーが終わってから、
財布をひっくり返してみた。
車に駐車料金のおつりとか小銭が放り出してあるので、それもかき集める。
ザックのなかにも金が落ちてないかと探したら10円でてきた。
弓の道具箱のなかにも落ちてないか探したが、さすがに落ちてなかった。
で、かき集めた金を数えてみたら2745円。あと55円足らぬ。
両脇に座って笑いながら集計の結果を見ていたOさんとUさん、
見かねたのだろう、両脇から100円ずつカンパしてくれた(^^;;
うん、これで2800円揃った(^^;;;
OさんとUさんに50円ずつ返し、一円玉をじゃらじゃらさせながら、
「もう少し返せるけど」と言ったら、
きっぱり「いらない」と言われた(^^;
好意はありがたく受けて、今度の三連休、京都に行く予定なので、
土産を買ってくることにする。
ちなみに金が揃ったあとでUさん他の人に笑って曰く、
「まるで子供と同じだよ、あっちこっちから小銭が出てくるんだ」(^^;;
普段、気にもとめていなかった小銭入れだが、
これからはもう少し気をつけるようにしよう。
うっかりしているととんでもない恥をかく。
ちなみにその日の射会の成績。
金がないということで笑いをとったあと、ファーストはまずまずの成績で回ったが、
セカンドで、余計なひと言で再び笑いをとってしまい、
その後、自分でも可笑しくて射形乱れて没。
自分的にはパッとしなかったが、
周囲に笑いを提供した休日ということで良しとするべきか...(^^;;;
Date: 2012/07/09(月)


太陽光発電
「これなんですが、どうでしょう?」
顧問先の社長が出したのは、太陽光発電の事業計画。
7月1日から再生可能エネルギー固定価格買取り制度がスタートしたが、
早速、遊休地に狙いをつけて営業活動をしている向きがあるらしい。
事業計画にひととおり目を通してみたが、
発電設備の設置工事以降のランニングコストが全く計上されていない。
「メンテナンスはどうするんですか?」
「壊れることは滅多にないから修理費は殆ど出ないと言ってました」
「ずいぶん美味い話ですね」
おそらく、収入は最大限に費用は最小限に計算した事業計画なのだろう。
それにしても、計画書の数字を眺めた限りでは、
太陽光発電の事業としての収益性は割りと低いようだ。
なるほどソフトバンクの孫正義があれだけ国にくっついて働きかけたのが分かる。
この収益性の低さでは、買取り価格をかなり高く設定されなければ事業として成立
しないし、収益性の低さをスケールメリットで補わなければならないから、
耕作放棄地の利用など行政の協力がかなり必要だったはずだ。
何かを始めるときは必ずキーマンを見定めてそれに接近する。
震災以降の再生可能エネルギー事業での孫正義の動きはいかにも彼らしかった。
孫正義の働きかけで買取り価格はかなり高く設定されたわけだが、
将来的にはどうなのか?
年とともにパネルの発電効率が落ちていくこともあるだろう。
その業者は壊れませんと言っていたらしいが、
台風や暴風でなにかが飛んでくれば壊れないということもあるまい。
かなりのパネルを設置できるような業態のところなら話は別だが、
一般的には工場内の空き地などに設置して、自社使用の電気をまかない残りは売電する
とか、遊休地の活用として自己資金でやるのならばいいだろうが、
それ以上のものとは考えない方がいい。
たぶん、耕作放棄地を抱えた農家などに営業にいく業者も出てくるだろう。
「おたくのあそこの土地、あんな広い土地をそのままにしておく手はありません。
時代は再生可能エネルギーです。太陽光発電をして電気を売ればなんにもしなくても
お金が入ってきます。大丈夫です、国が法律で42円で買うと決めているんですから。
あなたの土地がエコエネルギーの供給基地になり世の中のためになるんです。
大丈夫です。おじいちゃん、おばあちゃん、使っていなかった土地が世の中の役に
立てるんですよ。資金は銀行が貸してくれますから安心してください」
そういう営業トークにひっかかる人も出てくるのかもしれんが、
収益性を考えれば、融資は返済可能な金額をかなりシビアに考えておいた方がいい。
基本的には自己資金でやる事業であり、融資に頼ってやる事業ではないだろう。
Date: 2012/07/05(木)


河野麻沙希第二歌集『七夕きっす!!』批評会
日曜の横浜歌会は通常の歌会を短縮して、
後半は河野麻沙希第二歌集『七夕きっす!!』の批評会をおこなった。
なかなか活発な意見が出て面白い批評会だった。
私もパネラーの一人として発言したのだが、
歌会と違って歌集の批評はひとつひとつの歌について批評すれば良いというわけではなく、
いろいろな視点からのコメントが必要になるので、何回か経験しないと難しい。
今回も参加者から
「この歌集の短歌の歴史のなかでの位置、短歌の伝統との係りについてどう考えるか」
という問いが出された。
勘弁してよ...(^^;
そんなこといちいち考えてるかい...(^^;;
河野麻沙希の第一歌集『校門だっしゅ』の批評会のときも、
歌人の加藤治郎が似たような質問をして、
「短歌の歴史のなかでなぜ今この歌集が出たのか?」と問うたそうだが、
誰も答えられなかったのだそうだ。
まあね...、
作者が出したかったから出たんでしょうなんて答えると、
こいつ、おちょくっているのかと睨まれるんだろうな...(^^;;;
ちなみに10年前のその批評会には私は出ていない。
くだんの質問、お鉢が回ってきたので仕方なく答えた。
河野麻沙希は10年前の『校門だっしゅ』で女子高生のような「あたし」を
主人公としてひとつの青春世界を表現した。
作中主体は女子高生だが、当の作者は男である。
近代短歌の歴史のなかには「私」の確立が大きなものとしてあるわけで、
作者と作中主体は通常一致するものというのが普通だった。
ゆえに河野麻沙希の、作者と作中主体が別物というスタイルはちょっと異色なのだが、
小説とかではむしろ当たり前のことで、短歌に限らず表現の世界全体に目を向ければ、
目新しいものでもなんでもない。というか、短歌の世界でも先蹤はある。
女子高生を演じた河野麻沙希の歌は伝統的な歌人から見ればいささかショッキングな
ものとして受け取られたわけだが、
河野麻沙希は別に突然変異でもなんでもない。
むしろ、伝統的な短歌の延長線上にいる。
作者と作中主体の分離も、歌人でもあった紀貫之の土佐日記以来のものであり、
近代以降の短歌では主流ではなかったかもしれないが、
言葉をモノ化した塚本邦雄の歌にも作者と作中主体の峻別は見てとれる。
短歌の表現の手法として否定する必要もないと思う。
また、その文体は口語短歌やライトヴァースの延長線上のものであり、
さらに言えば、芯の部分はオーソドックスである。
ライトヴァースの旗手、俵万智の登場は伝統的な歌人からは否定的に評価された向きも
あったが、一般の読者には多いに受けた。
河野麻沙希の歌も、伝統的な歌人より一般の読者に受け入れられるものであるかもしれず、
あるいは新しい短歌の地平を開くのかもしれない。
そんなことをつたない言葉で語ったわけだが、
質問に対する答えになったのかどうかは知らない。
ま、歌詠みというのはどうしてこんなに物事を難しく問う人種なのかと、
答えながら思っていたのである(^^;;;
終わって、どっと疲れが出たが、
そのあとは懇親会になだれ込み、楽しい一日だった。

Date: 2012/07/02(月)


消費税増税
税と社会保険の一体改革法案が衆議院を通過した。
参議院の通過待ちだが、消費税は26年4月から8%、27年10月から10%になる。
国民にかなり影響の大きい増税法案だが、
事前の世論調査でも、採決後の街のインタビューでも、
消費税増税はやむをえないのではないかという意見が割と多かった。
もちろん、反対意見はあるわけだが、
今回は、労働者を代表する連合も消費税増税に賛成した。
社会保障制度改革のためには消費税増税やむなしということだったらしい。
消費税を増税しなければこの国が持たない。
これ以上、子供や孫の代につけを回すことは出来ない。
国民の間にそういう意識が広まったということだろう。
小沢一郎は増税反対を唱えたが、小沢派のなかでも彼に従ったのは半分程度。
新党結成を視野に入れているらしいが、
合従連衡を繰り返して影響力を行使してきたはてに気づいてみれば、
合従連衡するべき相手がいないという状況に来ている。
小沢一郎という政治家の終わりの始まりである。
増税の前にやるべきことがあるというのは正論である。
しかし、その「やるべきこと」が前提条件化してしまい、
前提条件が出来ないからいつまでも何も変えられない、という状況になっていることに
国民は気がついている。
というか、昨年の震災以降、何も決められないということがいかにこの国にとって
害であるか、国民は気付いているはずだ。
増税は確かにつらい。
しかし、物事を決めて動き出さなければ、この国に未来はない。
普通、増税というのは国民から反対されるのであって、
増税やむなしと考える国民が割と多いというのはある種不思議な光景と言えるわけだが、
国民の多くは、政局で増税反対を唱える政治家達よりこの国を憂えているのであろう。
デフレ状況下での消費税増税は経済を悪化させる。
増税に向けて国は金融緩和を続けるはずで、増税前の駆け込み需要も発生する。
それらはとりあえず成長率を押し上げるはずだが、駆け込みが終わったあとには
間違いなく景気後退がくる。その景気後退を乗り切るために中小企業は増税前に
少しでも体力をつけなければならない。正念場である。
Date: 2012/06/27(水)


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