*--Diary--*


下田のさんま寿司  2011/12/27(火)
忘年射会  2011/12/21(水)
大山参道 小川家  2011/12/16(金)
葛葉川本谷  2011/12/12(月)
東京平日歌会  2011/12/09(金)
大黒屋  2011/12/08(木)
震災被災者無料税務相談  2011/12/02(金)
石巻市立大川小学校 その5  2011/11/29(火)
石巻市立大川小学校 その4  2011/11/28(月)
石巻市立大川小学校 その3  2011/11/25(金)


下田のさんま寿司
年末の忙しい時だが、伊豆の下田に行ってきた。
遊びに行ったのではない、仕事である。
東名で沼津まで行き修善寺を抜けてきた方がいいと先方から聞いていたのだが、
厚木小田原道路で熱海に出、そのまま東海岸を南下する135号で下田に行った。
この道は熱海・伊東・伊豆高原と観光地を通る道なので休日は混む。
しかし、行くのは平日の午後から。
それなら距離的に短いこちらの方が早いと思った。
それに子供達が小さい時、伊豆の東海岸は毎年行っていたので、
勝手知った道を走る方が安心できる。
3時間ちょっとで下田着。
やはり横浜から伊豆は結構近い。
仕事の話は手っ取り早く終わらせ、酒を飲みながらひととき話す。
毎日温泉に入れるリゾートに引越して悠々自適に暮らしているのが羨ましくなる。
自分も年をとったらそういう暮らしをしたいとも思うが、
さすがに下田に引っ越してしまうと歌会に出られそうにない。
翌日、爪木崎を案内してもらった。
今の時期、岬に野水仙が咲くのだそうだ。
行ってみると、水仙祭りとかでそれなりに人が出ている。
海の向こうには伊豆七島がはっきり見える。
湘南あたりからでも大島は当たり前に見えるのだが、
利島、新島、式根島、三宅島などはこの辺りまで来ないと見えない。
地図で見るよりよっぽど近い印象で、
昔からこの辺りの漁民は当たり前にそれらの島と行き来したのであろう。
水仙は三分咲きくらいの感じなのだろうか、もう少し時期を遅らせた方が
満開で綺麗になるのかもしれない。
水仙祭りの会場でさんま寿司を売っていたのでその日の晩飯に買った。
これが美味かった。
さんまの押し寿司で、さんまの甘みにほどよく酢が利いて、なかなかいい。
ネットで調べると、さんま寿司というのは紀伊半島の方で結構食べられているらしい。
下田のさんま寿司は、昔、飢饉のときに浜に寄せてきたさんまを飯にまぶして食べたのが
始まりだとか、幕末、反射炉の工事で集まった人夫に食べさせたのだとか、諸説ある
らしいのだが、紀伊半島のさんま寿司とは関係ないのだろうか?
下田のすぐそばには白浜という場所がある。
和歌山にも白浜があり、房総半島にも白浜がある。
房総の白浜は和歌山の漁民が移ってきて白浜と名づけたのだそうで、
あるいは伊豆の白浜も和歌山の白浜と関係あるのかもしれぬ。
紀伊半島から伊勢湾、駿河沖、さらに伊豆を通って関東へ続く海は、
紀伊国屋文左衛門も通った海の通商ルートだった。
あるいは、さんま寿司も海の通商ルートに乗ってやってきたのかもしれない。
いずれにせよ、下田のさんま寿司、一食の価値ありである。
天気が良ければ青い海原が綺麗なのだろうが、
あいにく曇り空で寒い。
岬の店に入り暖かい甘酒を飲み昼食を食べたあと、
さんま寿司の土産を持って帰路に着いた。
Date: 2011/12/27(火)


忘年射会
通っているアーチェリーの射場の忘年射会。
忘年会ということで点数は気にせずハーフだけコースを回り、
射会の後は恒例の餅つき。
会員の子供や孫も来て楽しんだ。
射場の畑で採れた大根を入れた雑煮が美味い。
今年のアーチェリーはちょっと不本意な成績だった。
早撃ちの癖がついてしまい、エイミング(狙い)が出来ない。
狙えないままで撃ってしまうので当たるわけがなく、
自己最高142点を撃ったのはいつの世の話かというくらいの低調。
ベアをやっている人は大抵一度はやるらしいのだが...。
ま、その辺は来年の課題ということにするしかない。
成績はぱっとしなかったが天気が良くて気分がいい。
不思議と忘年射会は毎年いい天気である。
使っている弓のリムが微妙に曲がったので、
射場の会員のひとりから中古のリムを譲ってもらった。
買ってから殆ど使っていないということで新品同様のもの。
譲ってもらう前にしばらく借りて試しに使ってみたのだが気持ちよく真直ぐ飛ぶ。
あとは早撃ちさえ直せばバッチリなはず。
結局、31000円で譲ってもらった。
半端な金額だが新しく買う矢がその金額なのだそうだ。
ちなみに新品だと7〜8万するシロモノ。
世界選手権に出た人から譲ってもらったリム、大切に使わせてもらう。
来年の春、甲府盆地が桃の花に染まる頃、石和温泉に泊りがけで、
山梨にアーチェリーに行こうという話になっているのだ。
それまでに早撃ちの癖を直して試合を楽しもうと思っている(^^

Date: 2011/12/21(水)


大山参道 小川家
もう先月のことなのだが、気に入っているお店なので紹介する。
大山参道の小川家。
大山と言えば大山豆腐が有名で、
参道には豆腐料理を食べさせる店が並んでいるのだが、
そのなかでもイチオシが小川家。
昨年、首を突っ込んでいるNPOの懇親会で大山に登り、
下山してから打ち上げをやろうと、小川家に入った。
どういう店かも知らず、なんとなくここにしようかと入ったのだが、
そのとき食べた湯豆腐が美味しくて気に入ったのだ。
で、今年もそのNPOの懇親会で先月、大山に登り、小川家に行ってきた。
秦野からバスで蓑毛、そこから蓑毛越えに登り、尾根伝いに大山へ。
この道は今は歩く人の少ない道だが、大山詣でが盛んだった時代には結構歩かれた道で、
古い石積みがあったり、宗教登山の趣きの残った良い道である。
途中、登山道の傍らに石仏が並んでいるのだが、
なぜか皆、首を失っていた。
あの首のない石仏達はなんなのだろう? 
蓑毛越えからの静かな登山道は途中で下社から頂上への登山道に合流し、
そこからもうひと登りすれば頂上である。
出発が早かったので大山山頂は比較的空いていて景色がよく望めた。
休憩の後、小川家目指して下山。
下社のあたりは紅葉が見頃で綺麗、途中、大山寺に立ち寄ったりして参道に下りる。
小川家に着くと、しばし待たされてから個室に通された。
落ち着いた感じの良い部屋である。
予約したときは個室では取っていなかったのだが、店の方で個室にしてくれたのだった。
まずはビールで喉を潤し、湯葉の刺身から始まるコース料理を楽しむ。
湯豆腐はひとりひとりの小さな鍋で出てきて、
湯が沸きはじめて豆腐がふるふると震えだした辺りで食べる。
これだと豆腐の外側は温かく内側は冷たいままなのだが、
それぐらいで食べるのが豆腐の甘い味がして美味しい。
次々と出てくる料理がみな美味しくて満足。酒も進んだ。
最後はコースとは別に頼んであった猪鍋。
終始、女将のもてなしがいい。
この女将のもてなしの良さが料理の味とともに小川家に惹かれる所以である。
昨年もいい店だと思ったが、今年も満足。
一年に一度は訪れたい店である。
ちなみにこの小川家、予約をしていないと殆ど入れない。
昨年は店に入ったのが3時あたりという中途半端に時間だったので予約なしで入れたの
だろうが、それでも30分待ちだった。
店のホームページを探してみたらあった↓
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ogawaya/
ホームページはパっとしないが(^^;
いい店である。
Date: 2011/12/16(金)


葛葉川本谷
先週の土曜、丹沢の葛葉川本谷を登ってきた。
中旬以降は年末調整等で忙しくなるから、今年の山行はたぶん今回の葛葉川で終わりである。
若い頃は年末年始の休みは冬山に入って過ごしたものだが、
家族を持ってからは正月に父親が不在というわけにもいかず、
年末年始は山には行かなくなった。
葛葉川は表丹沢。
塔の岳から二の塔、三の塔、ヤビツ峠へ続く尾根の南側にある。
この辺りは初心者向けの簡単な沢が多く、私も始めて登ったのは10代の頃だった。
やがて、そういう初心者向けの簡単な沢では飽き足らなくなって、
同じ丹沢でも東丹沢や西丹沢の方に足がゆくようになり、
さらに上越や北アルプス・南アルプスの大きな谷へゆくようになる。
ま、大抵の沢屋はそんな感じだろう。
私もそういう大抵の沢屋のひとりで、10代の頃は足繁く通った表丹沢の沢も、
その後は山岳会の新人を連れての山行程度でしか登らなくなった。
今回も本当は東丹沢の本間沢に行こうという話だった。
ただ、家の用事で早目に帰らなければならなくなり、
時間のかからない表丹沢の沢に変更したのだった。
で、出発したのはいいのだが、東名の入り口で驚いた。
「向こうの山、白くない...?」
「...雪だな。」
なんと山には雪が積もっている。
昨日の雨が山では雪だったのだ。気がつかなかった。
雪が積もっていては沢登りはできないわけで、どうしようかと思ったが、
もう出発してしまった。とりあえず行ってみることにする。
葛葉川は沢の途中を林道が横切っている。
場合によってはその林道まで登り、降りてきてもいい。
雪は上の方だけのようだから、なんとかなるだろう。
葛葉川の入り口は分かりにくい。
葛葉の泉という名水があり、そこが沢登りの出発点なのだが少しまごついた末に到着。
初心者向けの沢で使わないとは思ったが一応、ハーネスをつけメットをかぶる。
天気はいいのだが、沢の入り口はなにやら暗い。両側の木がせまって繁っているし、
沢幅もそれ程大きくないので、それで暗く感じるのであろう。
大抵この季節だと丹沢のような低山の沢は周囲の葉が落ちて明るくなるのだが、
ここはそうでもないようだ。
岩がごろごろしているような陰気な狭い沢を登る。ちょっと面白くない。
葛葉川ってこんな感じだったかなと思うのだが、
なにしろ登ったのは何十年も前だからよく覚えていない。
しばらく歩くと滝が現れ、ようやく沢らしくなる。
上で雪が積もっているので水が冷たい。滝の岩もひんやりとする。
それでも滝やゴルジュを越えてゆくと、だんだん体が温まり、乗ってくる。
やはり沢は楽しい。ぐんぐん高度を上げる。
さすがに寒いので水線に沿ったようなルートは選ばず、できるだけ乾いたところから滝を越える。
板立の滝という葛葉川で一番難しい滝は、右壁をザイルをつけて登攀。
この先の小さいゴルジュを抜けると沢を林道が横切っている。
この前後から周囲に消え残った雪が出てきたので、やはりこの林道で遡行を打ち切る。
たぶん、これ以上上に行くと雪の積もった源頭を登ることになる。それはパス。
林道のあたりはまだ紅葉が残っていて、天気も良いので雰囲気はいい。
しばらく林道を歩き、菩提へ下る登山道に入る。
そこをくだって葛葉の泉へ戻る。
丹沢の名水のひとつなので、水を汲みに来ている人達が結構いた。
こうやって山で体を動かすと、普段の生活でなまった体も少しは軽くなるような気がする。
今年は山行が少なかったが、来年はせめて月一回は山に登りたい。
Date: 2011/12/12(月)


東京平日歌会
東京平日歌会、気になった歌、というか、気になったこと。
震災の被災地でDVが増えているという記事を読む、という歌意の歌が出されていたのだが、
この歌の批評で、
震災について詠うことはどうなのだろうという話もありますが、どうなんでしょう?
という問いかけがあった。
多くの死者が出た震災、それを第三者が詠うことの是非。
何人かの人が発言したが当然ながら結論は出なかった。
ちなみに、歌会のあとの忘年会で、自ら被災者である出席者のひとりは、
「震災についてはもう詠わない」
という話をしていた。
難しい問題である。
確かに、震災を歌の題材を探すような目で眺め、
被災者でない者が被災者の悲しみを分かったように詠うというのは、結構あるわけで、
そういう歌には不快を覚えたりもする。
同時に、私自身も震災の歌を詠っている。
私は当事者ではないので被災者の悲しみはわからない。
いくらわかったつもりになってもわかるはずはないのである。
だから私は被災者の悲しみではなく「私の悲しみ」を詠っている。
震災に直面して抱いた怖れや悲しみ、そういう人としての自然な感情の発露として、
私は震災の歌を詠っている。
いずれにせよ、その辺は個々の歌詠みがしっかり考えるべきことで、
安易に詠いたくはないと思っているのだが、
少なくともたまにネットなどで見かける「当事者でない者は詠うべきでない」という
意見には同意しない。
こういう観念論は表現の世界に無用であるし、
「詠うべきでない」と他者に言い放つときその底に潜む傲慢さに、
発言者が気付いているのかどうか疑わしい。
このあたりのことについてここで書きだすと長くなるのでこの辺でやめよう。
震災と同時代に生れ合わせた歌詠みが向き合わなければならない問題なのだ。

当日は歌会が終わってからは忘年会。
近くの蕎麦屋なのか洋食屋なのかよく分からない店で飲んで食べて喋った。
そのとき、先月行った仙台歌会から東京平日歌会に来ている人が、
「1月8日、仙台歌会だからね。ちゃんとホテル取って来てちょうだいよ」と言っていた。
そんなに年中、仙台に行ってられるわけないだろう、なに言ってんだこのオバチャンは、
と思いつつ、9日が横浜歌会だから無理だと答えたのだが、
考えてみると...。
1月は20日までの源泉事務があるから平日に休みをとるのは難しく、
平日歌会は出られないかもしれない。
8日と9日はカレンダー通りの休日...。
新幹線で行って歌会に出て仙台泊、9日の朝9時過ぎくらいの新幹線で帰れば、
フツーに横浜歌会に出られるのだな...。
それならカレンダー通りの休日の範囲か...。
ついでに仙台城跡で伊達政宗の銅像でも見上げて、
プチ旅行気分味わうくらいの時間はありそうな。
うーん...。
そういえば、先月の仙台歌会の土産の鐘崎の分厚いかまぼこが
アーチェリーの射場で好評だったのだ。
今度は伊達の牛タンを土産に買っていって、
射場の焚き火で焼いて皆に見せびらかして食うというのも悪くないかな...(^^;
うーん、どうしよう。
Date: 2011/12/09(金)


大黒屋
   大黒屋を左に折れる抜道の木瓜しづかなり午後を照らして
                             /岡井隆

 先月の東京平日歌会の帰り、珍しく選者の花山多佳子さんが食事をして行こうと言うので、
何人かで柳橋を渡り浅草橋の駅の方に歩いていた。
橋を渡ったところに大黒家という天麩羅屋があり、
ここにしようかという話になったのだが、高そうなのでやめた。
そのとき花山さんが、「岡井隆の歌の大黒屋というのはここでしょ」と言っていたのが気になり、
帰ってからネットで岡井隆のそれらしい歌を調べてみた。で、出てきたのが引用の歌。
歌を読んだとき、ちょっと気になった。
歌には「抜道」とある。「抜道」というのは日本語の意味としては、
本来の道があり、そこを近道する、あるいは迂回するための脇道である。
神田川に架かる柳橋を渡ったところにある大黒家、そこを左に折れるというのは、
橋を渡って川沿いに行く道のことであろう。
ただ、「抜道」というイメージではない。
「抜道」ならば本来の道はどこにある。もう一本向こう側の道?
それに歌を読んだとき、
この「抜道」というのは決してそんなに太くない、むしろ細い道である気がするのだ。
細い路地のような道にしずかに木瓜が咲いているイメージがある。
どうも歌のイメージと柳橋の大黒家とその周囲の状況が一致しない気がした。
あるいは、浅草の大黒家?
浅草にも大黒家という天麩羅屋があり、結構有名である。
ちなみに、歌は「大黒屋」だが柳橋も浅草も「大黒家」。
この辺はしかし、創作の過程での変化であろう。
ということで、今月の東京平日歌会、いつもの歌会前の下町歩きは浅草に行ってきた。
浅草の大黒家の辺りを確かめたかったのである。
こういうどうでもいいところを確かめたくなるのが歌詠みの因果なところ(^^;
新橋から地下鉄で浅草。雷門のあたりは相変わらずの人だかりだ。
仲見世はちょっと小奇麗になったような気がしたが、天気が良かったのと年末ということで
飾りつけを変えたらしいので、そんな気がしたのだろうか?
ひと頃姿を消した中国人の観光客も戻ってきたようで、あちこちから中国語が聞こえる。
とりあえずお参りをすませ伝法院通りへ。
ここを少し行った左側に大黒家がある。
相変わらず行列している。
浅草に来て大黒家の前を通ると必ずと言っていいほど行列している。
行列してまでなにかを食べようという人間ではないので、ここの天麩羅は食べたことはない。
確かに、左に折れる道がある。
この道は仲見世と平行しているので、仲見世の混雑を避ける抜道として使えるわけで、
その点、歌の条件に合っている。
大黒家の店脇には山茶花の垣根があり白い花が少し咲いていた。
柳橋の大黒家を左に折れる道は神田川の堤防沿いで、木瓜が咲いているイメージでは
ないのだが、浅草の大黒家を左に折れる道は木瓜が咲いていてもおかしくなさそうである。
ただ、ちょっと道が太い、路地のような細さではない。仲見世と同じくらいの道幅である。
うーん...。岡井隆の歌の大黒屋は柳橋の大黒家か浅草の大黒家か?
花山さんは岡井隆本人から聞いたのかもしれず、あるいは柳橋の大黒家かもしれないが、
どうもイメージが合わない。イメージ的には浅草の大黒家の方が近い。
もちろん、必ずしも実際の情景をそのまま歌にしたとは言えないわけである。
文学には修飾があるわけで、実際の情景からイメージを膨らませて歌を作る場合もある。
柳橋の大黒家を左に折れる道。岡井隆はそこからイメージを広げ、
「抜道」「木瓜しづかなり」とひとつの情景を作り上げたのかもしれない。
で、歌会が終わって帰ってから、今度、花山さんに聞いてみようと思い、
念のために岡井隆のこの歌の載っている歌集『馴鹿時代今か来向かふ』を開いてみた。
最初はネットで検索して調べたのだが、考えてみたらこの歌集は持っているのだった。
本棚から探し出して開いてみた。
あった、17ページ。
 
    大黒屋を左に折れる抜道のわれだけのふかきふかき春泥

    大黒屋を左に折れる抜道の木瓜しづかなり午後を照らして

ふたつの歌が並んでいる。
で、最初の歌の詞書にえっ!?と驚いた。

    「そんな店は、むろん、ないのであるが。」

という詞書がついている。
さらに次のページに※で注があり、こう書かれている。

    「大黒屋は、一葉の小説『たけくらべ』に出てくる美登利の家の屋号に、
    直接には触発されている。しかし、小池昌代の『湯屋』(永遠に来ないバス)の
    一行目は「大黒屋のしまい湯は静かだ」であり、ひひぎのいい名前なのだ。」

つまり、ひびきのいい名前だから歌のなかの架空の店の名前につけた。
そういうことである(^^;
この歌の大黒屋は柳橋の大黒家か浅草の大黒家か、
私の大黒屋捜索はなんだったのか(^^;;
岡井隆め、あるいは花山さんに
「あの歌の大黒屋は柳橋の天麩羅屋ですよ、あそこの天麩羅美味しくてねぇ」なんて、
ホラ吹いたのかもしれぬ(^^;;;
ちなみに、せっかく調べたので柳橋の大黒家と浅草の大黒家を紹介しておく。

   柳橋 大黒家  http://www.geocities.jp/daikokuya_tempura/

   浅草 大黒家  http://www.tempura.co.jp/
Date: 2011/12/08(木)


震災被災者無料税務相談
震災関係の話が続いてしまうようだが、
先週の週末、震災被災者の無料税務相談会に行ってきた。
税理士会で全国一斉に開催、東京地方会では55人が無報酬のボランティアに応募し、
横浜会場には十数人の相談員を配置した。
で、肝心の相談者は、午前中1人午後1人、あとは電話相談が何件か...(^^;
ま、仕方ないんじゃないのかな...。
被災者はまだ税金どころじゃないと思うし。
震災の被災地は申告期限が延長され、
被災者の中にはまだ申告していない人が大勢いるはず。
神奈川県にも1,500人くらい避難生活をしている被災者がいるらしいのだが、
当日、相談に来た人もまだ仕事が決まっていないということだった。
しかし、そのままというわけにもいかないわけで、いずれは申告が必要になる。
震災による損失を22年分として計算することが出来るという手当てがなされているが、
22年分の損失とするか23年分の損失とするかは納税者の任意。
23年は失業していて税額が出なければ22年分として損失の控除を受け、
少しでも税金の還付を受けられれば、なにがしかの役に立つということもあるだろうし、
どこかの時点で申告をしなければ損失の繰越控除による税負担の軽減を受けることができないわけで、来年の申告時期になると、被災者の方達もそろそろ申告しなければという感じに
なってくるのではないか?
本来、申告は住所地を管轄する税務署でするのだが、
申告のために避難先から被災地の税務署へ行くというわけにもいくまい。
申告自体は電子申告か郵送でやるにしても、
申告についての相談は避難先でやることになるだろうし、
あるいは、国税の方で避難先の税務署で申告書を受理するという手当てもするかもしれない。
税理士会では毎年、確定申告時期に無料税務相談会を開いているが、
来年、被災者がそういう無料相談に来る可能性もあるわけである。
そのとき、対応できるのだろうか?
今回も事前に雑損控除、災害減免法、震災特例関係を勉強していったが、
これだけの規模の災害によって生じた損失の申告をしたことのある税理士というのは
滅多にいないわけで(阪神の震災で関西の税理士は経験しているのだろうが)、
実際の事案にぶつかると戸惑うことが沢山ありそうである。
勉強していないと、相談に来た被災者に、
「震災があったのは23年だから22年分として引くことなんか出来ないよ」とか間抜けなことを
言ってしまう税理士が出てくるかもしれない...(^^;;
来年の確定申告無料相談、大丈夫なのだろうか?
Date: 2011/12/02(金)


石巻市立大川小学校 その5
北上川は美しい川だ。
川幅広く、水量豊かに流れている。
川面には水鳥が浮かび、川辺の葦原は風にそよいでいる。
この美しい風景のなかで暮らしていた74人の子供達はもう還らない。
生き残った子供のひとりはこう証言している。
「山に登れるのになんで三角地帯なのかなと思った」。
大人達が議論の果てに選んだ避難先が、小学生でさえ首を傾げるものであったということに
暗澹とした思いを抱かざるを得ない。
大川小学校の事件については、既に報道でもいろいろ伝えられている。
判断のミス、決断の遅れ、避難場所指定の問題、
悲劇の背景には幾つもの要素があるはずだが、
教育委員会はそれをしっかり検証すべきである。
なぜなら、災害はいつか再び起きるのであり、
教師達が子供達の命を守らなければならないときがまた必ず来るのである。
悲劇を繰り返さないために、
なぜ、子供達を助けることが出来なかったのか、
事の経緯を明らかにし、しっかりとした検証をするべきなのだ。
そういう検証がされない限りは、想定外の津波で不可抗力だったと言うべきではない。
石巻市教育委員会は事件後、
生き残った教師や児童から聞き取り調査をしたメモをすべて破棄してしまった。
それらは事件直後の一次資料である。
これだけの事件であれば本来、一次資料であるそれらのメモは保管されるべきものである。
教育委員会は聞き取り調査の結果はすべて報告書に反映させていると言っているが、
廃棄されてしまっては、すべて反映させているかどうかも検証できない。
教育委員会は批判を受け「今となっては申し訳なく思っている」と陳謝しているが、
石巻市教育委員会のこの対応は杜撰と言わざるを得ない。
事件の日に不在だった校長はその後の誠意に欠ける対応で遺族の不信を増幅した。
ひとり生き残った教師は休職しているらしいが、その後のことは分からない。
悲劇から八ヶ月、現場を見て、あらたな疑問が幾つも浮かんだ。
なぜ、子供達は死ななければならなかったのか。
子供達には助かるチャンスがあったのではないか?
現場を見た限り、そう思わざるをえなかった。
悲劇の現場には秋の柔らかい陽が差していた。
重機で作業をしている人達がいる大川小学校の廃墟をいつまでも見ているのは気が引け、
堤防道路を引き返した。
青空の下に北上川は穏やかに流れている。
葦原のなかに白い大きな鷺が佇んでいた。
何事もなかったような美しい風景である。
大川小学校の跡地には現在、慰霊碑が建立されているが、
校舎の廃墟は取り壊すのだろうか?
教師達は確かに子供達を救おうとした。
彼らの対応のどこに問題があったのか、それを明らかにし、
二度と悲劇を繰り返さない。
大切なのはそういう営みであって、責任の回避であってはならない。
もし、そういう営みがなされないのならば、
この美しい北上川のほとりに大川小学校の廃墟を残し、
後世にその審判を仰ぐべきである。
Date: 2011/11/29(火)


石巻市立大川小学校 その4
「付近で一番小高い三角地帯」とは既に書いたように新北上大橋のたもとの堤防の一角にある
四辻である。堤防より低いところにある学校から見れば数メートル高いという話で、
周囲の地形のなかで通常そこを小高いとは言わない場所である。
実は、教師や住民が避難先をめぐって議論しているとき、
津波の第一波は既にこの堤防の向こうを通過していた。
大川小学校を襲った津波は第二波である。
第一波の津波は既に午後3時15分〜20分頃、学校から5kも上流で
「堤防を越えるかと思うくらい」の勢いで遡上しているのを目撃されている。
教師達が議論している間に、
たった200m先の堤防の向こうを第一波の津波は通過していたのである。
堤防より低いところにいる彼らはそれに気付かなかった。
200m先の堤防の上に誰かひとりを派遣し、川の様子を監視していれば、
津波の第一波を見たはずであり、
堤防に向かって避難しようという考えは出なかっただろう。
結果的に子供達は津波に向かって歩くことになった。
避難場所の選定に時間がかかり、その選定自体にも問題があったことは、
既に報道でもネットでも言われていることで、繰り返しても仕方ない。
しかし、裏山への避難を危険だと考える者がいて議論が割れた、あるいは教頭にその決断が
出来なかったとしても、なぜ、新北上大橋のたもとの四辻から雄勝方面への峠に続く道が
避難ルートとして出てこなかったのか? この疑問は消えない。
校庭にはスクールバスが待機していたのである。
バスを運営していた会社は震災後、「無理すれば全員乗れただろうに」と言っている。
なぜ、スクールバスで標高の高い峠の方に避難させることを考えなかったのか?
教頭は「念の為、バスで峠の方に避難してください」と言えば良かっただけである。
この道は報道でも触れられていない。
事件後、なぜ裏山に避難しなかったのかという声が多く出て、
報道もそれに引き摺られたような内容が多く、本来なら避難ルートとして取りえたはずの
この道は全く触れられていないのだ。
堤防道路は地震で亀裂が走り通行が困難になったようだが、この峠への道は通れたらしい。
津波を知らせた市の広報車はその後この四辻で、他の車を峠の方に誘導して避難させている。
車の助手席で「高台に逃げろ」とマイクで叫び続けた市の職員は結局、津波で亡くなった。
たった200m先の三角地帯でそういう避難誘導がされていたとき、
教師達はその三角地帯を避難先として子供達を連れ、歩き出した。

パニックのもとで人は必ずしも合理的な答えを出すことは出来ない。
なぜ、と問うことが死者を鞭打つことになることもある。
死者を鞭打つというのは悲しいことである。
しかし、なぜ子供達は死ななければならなかったのか。
二度と悲劇を繰り返さないためにも事の真相を明らかにする。
せめてそういう営みが行われなければ、
子供達はどうやって目を瞑ったらいいのか。
Date: 2011/11/28(月)


石巻市立大川小学校 その3
今回の津波で三陸各地は大きな被害を受けたが、
学校でこれだけの被害が出たのは大川小学校だけである。
かって明治三陸津波で大きな被害を受けた釜石市の学校では、
地震があったときは親や子供も放っといててんでばらばらに高台に逃げろという、
地元に伝わる「てんでんこ」を子供達に教え、その訓練もしていた。
実際、地震当日、子供達が教師の指示を待たずに避難したところもあり、
釜石市では学校にいた生徒は皆無事だった。
石巻市は明治三陸津波では大きな被害を受けなかった。
しかし、大川小学校より更に海に近く、裏山も急な幾つかの小学校では、
生徒がすぐに山に避難し無事だった。
なぜ大川小学校だけがこれだけ多くの死者を出したのか?
まず、非難が集中した「すぐに裏山へ避難しなかった」ことであるが、
現場を見た限りでは、充分登れる山だった。
最初、報道を聞いたとき、あるいは低学年では登れないような斜面なのかと思ったが、
充分登れる。
事件当日、新北上大橋のたもとで避難誘導にあたっていた市の職員は、津波が来たとき、
大川小学校の裏山に続く尾根を這い登って助かったが、
「学校の裏山の斜面は登れたはずだし、倒木もなかった」と証言している。
しかも、調べてみるとこの裏山には道がついていて、
子供達が学校の授業の植物観察などで登っていた山なのである。
当然、避難は出来たはずだ。
ならなぜ、裏山に避難しなかったのか?
今の我々は山が崩れるような余震はなかったことを知っているが、
混乱した状況のなかで、「もしも大きな余震で山が崩れたら、木が倒れてきたら」という懸念を、
教師達が抱いたとしたらそれは理解できなくはない。
同じ石巻市の大川小学校より津波の危険が高かった小学校で、
すぐに山に登って避難したのは、
他に選択肢がなかったというのが大きいのかもしれない。
山崩れを懸念したとしても、ならなぜ、次の選択肢を選び行動を開始しなかったのか?
非難が集中したもう一点はこの「時間の浪費」である。
地震が起きてから津波に襲われるまで51分。
なぜ教師達は行動を開始しなかったのか?
生存者の証言では、教師と住民は避難先をめぐって喧嘩のような議論をしていたという。
ここで問われるのは確かに教頭のリーダーシップであったかもしれない。
ただ、混乱を助長した一因として大川小学校が災害時の避難先に指定されていて、
地域の住民が避難してきて校庭が混乱していたことも否定できない。
更に、津波のときの二次避難先の指定がなかった。
石巻市教育委員会は二次避難先の指定がなかったことについて、保護者達に謝罪しているが、
大川小学校が災害時の避難先に指定されていた事自体がおかしいのではないか?
この地域で想定されていた災害で一番大きいのは北上川の洪水である。
北上川の堤防も津波ではなく洪水を想定して作られていた。
ならなぜ、石巻市は大きな災害として洪水が想定されるのに、
その避難先に堤防の近くの堤防より低い大川小学校を指定したのか?
洪水のときそこが危険な場所であることは明白なのに?
学校は緊急物資の保管場所として活用でき広い校庭もある。
そのため避難先として指定されることが多いわけで、
石巻市は大川小学校の立地条件も考えずに事務的に避難先に指定したのではないのか?
もし、洪水を想定した避難先として川から離れた高いところにそれがあれば、
教師達もすぐにその避難先に子供達を誘導したのではないのか?
石巻市の防災対策には問題はなかったのか?
「海から4k離れていて津波が来ることを想定していなかった」ということも言われている。
しかし、これは公式見解である。
実際、生存者の多くが津波が来ることを予感し恐怖に震えていた。
その一方で、明治三陸地震でもチリ地震でも津波が来なかったから大丈夫だと
言っていた人達が大勢いたことも事実である。
津波を予感した者と安心していた者に分かれていたというのが実態であろう。
だからこそ、避難先をめぐって議論になったのだろう。
公式見解は公式見解として、津波が来ることを多くの人が予感するような状況であったのなら、
それに対応するのが、子供達の命を預かる教師達としては当然だったはずだ。
さらに、公式見解とは別に、校長は事件後の取材で、
「津波が来たら、校舎の二階か裏山のどちらかに逃げる」という話を周囲にしていたという。
実際、教師達は最初この話に沿って避難先を議論していたらしいが、
校舎は破壊がひどいということで選択肢から外れた。
その替わりに出たのが、「付近で一番小高い三角地帯」である。
Date: 2011/11/25(金)


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