*--Diary--*


甲斐駒ケ岳  2011/09/22(木)
ヨコハマトリエンナーレ  2011/09/21(水)
平沼の蕎麦屋  2011/09/20(火)
ヒューマン・シネマ・フェスティバル  2011/09/16(金)
東京平日歌会  2011/09/09(金)
空海と密教美術展  2011/09/08(木)
読めてなかった...  2011/09/05(月)
成年後見支援センター開所式  2011/09/02(金)
ドライブ  2011/09/01(木)
全国大会その2  2011/08/24(水)


甲斐駒ケ岳
先日、テレビで75歳の女性が甲斐駒ケ岳の岩壁を登るというのを放送していた。
場所は甲斐駒ケ岳赤石沢のダイヤモンドフランケA。
フランケというのは側壁という意味で、甲斐駒ケ岳に突き上げる赤石沢には、
ダイヤモンドフランケA、その斜め上にダイヤモンドフランケB、そして奥壁がある。
いずれも標高差400mぐらいの巨大な岩壁で、日本でも最大級の岩壁。
甲斐駒の岩壁を見ると谷川の衝立岩が小さく見えるものである。
で、その岩壁を登りたいというおばあちゃん。
練習の様子をテレビで見ていると、
「こりゃ、無理だな...」(^^;
という感じだった。
よく連れて行ったよね。
というか、テレビの取材が入っているから、なんとしてもという感じだった?
ダイヤモンドフランケを登るには大抵、黒戸尾根を登り、そこから岩壁の方に下降して
いくのだが、テレビでは違うルート(北沢峠?)から登っていた。
たぶん、おばあちゃんの体力を考えてのことなのだろう。
さらに、岩壁の上から懸垂で下降して、本来のルートの上半分だけを登るという方法。
はっきり言ってかなりアブノーマル。
なんとか登らせてあげようということなのだろうが、かなり無理をしていた。
映像を見ていると、ザイルを掴んだり、上から引っ張り揚げてもらったりで、
テレビのなかで言っていた「完登」というには、ちょっと無理がある感じかな...。
ま、おばあちゃんにとっての「完登」なのであろう。
情熱には敬意を表するし、実際、75歳という年を考えれば立派である。
甲斐駒は私にとって思い出深い山なのだ。
放送していたダイヤモンドフランケAは学生時代に登りに行ったルートである。
黒戸尾根から下降したのだが、フランケAへ下降する踏み跡をうまく見つけられず、
気がついたら、ダイヤモンドフランケBの下に来てしまった。
それで、そのままフランケBを登ったのだった。
ピッチ数で12ピッチくらいあっただろうか。
フランケAへの下降路を探して時間をロスしてしまったため取り付きが遅くなり、
岩壁の上部で日が暮れてきた。
400mくらいの巨大な岩壁。
その只中で仲間を確保しながら日が沈んでゆくのを見ていた。
あのときの夕陽は今も私の脳裏に焼き付いている。
結局、夜間登攀の末、登り終えることができた。
その後、奥壁も登りに行った。
9月の末だったが、行ってみると、ルートに大きなつららがさがっていた。
これでは登れるはずもなく、乾いていてつららのない中央稜のルートに変更して登った。
頂上に登ると、真っ白な北アルプスが見えた。
その年は新雪が早かったのだ。
黄蓮谷を登りに行って五合目の岩小屋で一晩過ごし、翌日、雨に叩かれて降りてきたのも
甲斐駒である。若い頃の思い出深い山なのだ。
だから、あのおばあちゃんの気持ちはよく分かる。
しかし...。
あまり無理しない方がいいな(^^;;
番組の最後で再挑戦をほのめかしていたけど、
今回も周囲はかなり無理してる。
他と違って、山は命がかかっているのだということを認識した方がいい気がする...。
高校から山をやってきて、
今までに3人の仲間が死んだ。
山はどんなに楽しくても、死と隣り合わせの世界なのだということを忘れない方がいい。
Date: 2011/09/22(木)


ヨコハマトリエンナーレ
トリエンナーレというのは三年に一回開かれる国際美術展のことであるらしく、
ヨコハマトリエンナーレは現代アートの国際展と銘打っている。
で、人からもらったタダ券で横浜美術館に行ったのはいいが、
現代アートというのはどうも分かりにくい。
確かに、オブジェにしろ絵画にしろ、理解不能であってもなにかしら惹かれる造形はあった。
しかし例えば、新聞紙をビニール紐でくくったのが会場の隅に置いてあって、
これが作品ですと言われると、
おまえ人をバカにしているのかと言いたくなるわけである(^^;
なにがアートでなにがアートでないのか、見ているとよく分からなくなる。
短歌でも自閉的な歌というのがあるが、
そういう展示を見ていると、
現代アートの中にはかなり自閉的なものがあるのかなとさえ思ってしまう。
ま、分かるヤツには分かるということなのであろう。
ところで、このヨコハマトリエンナーレ、今回で三回目か四回目らしいが、
招待券をもらうまで、そういうものをやっていることも知らなかった。
これは、どういうことなんだろう...。
しばらく前にあった、横浜開港博。
前市長が途中で逃げだしたという巨額の赤字を垂れ流した博覧会だったが、
そのときも、なにをやっているんだろう? という感じだった。
なにかこう市民へのアピールが下手だし、
盛り上げ方も下手だし、
会場を分散するのは立地条件等から仕方ないとして、
どこか核になるところを当然作るのだろうが、それがなかったし...。
今回もやはり、こういうのやってたの? という感じなのだ。
企画や運営はどこでやっているのか?
まさか素人がやっているわけでもないと思うのだが...。
PRだってもっと出来るはずである。
あるいは横浜の役人や彼らの関連先が仕事とるような感じでやっているのか...?
ま、厳しいことを書いているようだが、
中には確かに興味をそそられる展示もあった。
もう少し運営の仕方を考えればもっと良い美術展になるのではないだろうか。
帰り、桜木町の駅前で路上ライブをやっていた。
Eyesという桜木町の路上ライブから出発したグループであるらしい。
ハナミズキを歌っていたが声が綺麗だった。
現代アートよりこちらの方が気に入ってしばらく聞く。
聞き終えて駅の方に振り向くと、ワシントンホテルに少し早い夕陽が差していた。
Date: 2011/09/21(水)


平沼の蕎麦屋
横浜で開催しているヨコハマトリエンナーレ2011。
その招待券をもらったので、三連休の最後の日に出かけてみる。
ついでに相鉄の平沼橋で降りて角平で昼飯を食べる。
平沼橋には美味しい蕎麦屋が二軒ある。
一軒が田中屋、もう一軒が角平。
平沼橋は大学を卒業して数年間勤めた会計事務所のあったところで、
歩いていると懐かしさもある。
昔は小さな町工場などもあちこちにあったのだがだいぶ少なくなった。
小綺麗になったといえばそうなのだが、ちょっと寂しい気もする。
平沼の交差点の角にあるのが角平。
立地をそのまま店の名前にしたというえらく単純な店名である。
入ると相変わらず混んでる。
店は昭和20年代からやっていて、
昭和の生き残りのような雰囲気がある。
洗練された雰囲気を求めるなら、田中屋に行った方がいい。
座ってすぐ、つけ天とビールを頼む。
ここに来る客は大抵、つけ天を注文する。
ざっと見回してもやはり半分以上がつけ天を食っている。
普通のせいろと汁がちょっと違うのである。
少し大きめの器に温かい汁が入っていて、
それに海老の天ぷらがどぼんと首を突っ込んで出てくる。
その天ぷらを食いつつ、天ぷらの油の浮いた温かい汁に蕎麦をつけて食う。
これが旨い。
古くからあるこの店の人気メニューで、
これが天麩羅蕎麦の原型だと訳知り顔の連中は言っているらしい。
その辺の真偽はどうでもいいが、やはり旨い。
ちょっと店を見回すと岸信介、大野伴睦、重光葵の色紙がある。
角平は彼等の贔屓の店であったらしく、岸信介らが店に来たときの写真が
飾ってあるが昭和34年となっている。もう半世紀前である。
昭和の生き残りのようなこの店は当時のままの古めかしさで、
今も横浜で蕎麦を商っている。
いい店というのは、そういう頑ななところがあっていい。
勘定を払って出ようとすると、勘定場に色紙か幾つか重ねて置いてあって、
一番上の色紙が、楽しんごの色紙だった。
たぶん、テレビの取材かなにかで来たのであろう。
店を出ると、道路の向かいに平沼商店街という看板がかかっている。
その商店街を少し行ったところに田中屋がある。
そこも旨い。
角平が昭和ならば、田中屋は平成といったところか。
どっちが旨いかと問われると返事に困る。
だいたい味というのは多分にそれぞれの人の好みだし、
その日その日の体調でも味覚というのは変わるものである。
だから、グルメを気取るヤツの言うことはあまり信じていないのだが、
うーん...。味はそれぞれの味として、店の雰囲気は角平に軍配かな...。
昨年の大晦日、子供が年越し蕎麦を食いたいというので連れてきた。
近くのパーキングに車を停めてきてみると、
角平はずらりと行列が続いていたので田中屋に行った。
どういう按配か行列がなくすぐに入れて、しかもテーブル席がふたつだけ空いており、
すぐに座れたのだった。我々が座ったあとで、次々と客がやってきて、
あっという間に店の外に行列が出来た。
ちょうどいいタイミングだったなと言いながら食べた年越し蕎麦はなかなか旨かった。
角平とはまた違う雰囲気の蕎麦屋である。
さて、ヨコハマトリエンナーレ。会場は横浜美術館とかいろいろなところで
やっているらしくよく分からないのだが、とりあえず横浜美術館にゆく。
中ジョッキ一杯でいい気分になり、横浜駅の東口に歩く、たいした距離ではない。
それにしても暑い。9月も明日は20日で下旬になるというのに残暑である。
Date: 2011/09/20(火)


ヒューマン・シネマ・フェスティバル
国連難民高等弁務官事務所の外郭団体、国連UNHCR協会からのニュースを紹介。
来月、難民を扱った映画を上映するヒューマン・シネマ・フェスティバルが開かれます。
会場は神奈川では、みなとみらいと港北ニュータウンのマイカル。
今も紛争で平穏な暮らしを奪われた多くの難民がいます。
厳しい状況下でなお希望を失わない人達の姿は、
我々にかけがえのないものを思い出させてくれるはずです。
詳しくは以下のホームページで↓

    http://www.humancinemafestival.org/index.html

Date: 2011/09/16(金)


東京平日歌会
東京平日歌会、気になる歌がひとつあった。
例によって発表前なのでここに出せないが、
沖つ波ゆきつもどりつという古典的な詠いだしに始まり、
あなたはこのあたりだろうかと礎石を探すというような歌意の歌である。
東京平日歌会は二首出詠で、もうひとつの歌は3月の震災の被災地の歌である。
そのためだろう、歌会ではこの歌も被災地の歌として読まれた。
沖の波はもういつものように寄せては返している。
あなたはこのあたりだろうかと礎石を探している。
そんなふうに読まれていた。
正直言って、東京平日歌会のこの辺のルールをあまり知らないのだが、
二首出された歌は関連のある歌として読むのか?
私の場合、まるで関係のない二首を出すというのが殆どで、
歌会でも二首が関連しているという前提ではあまり読んでいない。
ま、その辺はそれぞれの歌会の遣り方だから、どうこういうつもりはない。
ただ、この歌の場合、この一首だけで読んだ場合、どうなのだろう?
確かに、震災の歌として読めば読める。
しかし、震災とは関係のない古典の歌を下敷きにした歌のようにも読めるのである。
震災の歌として読めているのはもうひとつの歌と並べているからではないか?
それは本当にこの歌の批評と言えるのか?
そこがまずひっかかった部分。
もうひとつは、震災の歌だとして、この古典的な表現が生きているのかどうか?
歌会ではそういう疑問は出ず、読みの細かい内容についての話ばかりだったのだが、
私はそれ以前のことが気になり、
「この古典的な表現はどうなのか? 古典を下敷きにした歌のようにも感じてしまう」
と意見を述べたのだが聞き流されたようだ。
震災の被災地では建物が流され、その基礎だけが残っている。
歌会では「礎石」を建物の基礎とみな読んでいて疑問は出されなかった。
確かに、「礎石」を建物の基礎と読んでも広義の日本語としては、
間違いではないかもしれない。
しかし、本来、「礎石」とは建物の柱を支える石であり、
現代の建物の基礎とは必ずしも一致しない。
遺跡などで見る建物の柱の下にあつた円形の大きな石。
古典的なこの歌のなかに「礎石」という言葉があると、
まずそういうものが浮かぶのではないか?
二首目の歌を読んで、これは震災の歌か? すると「礎石」というのは「基礎」のこと?
そういうふうに読者は読みを変更するのではないか?
この一首だけを読めば、沖つ波ゆきつもどりつ、という古典的な詠いだしと相俟って、
そういう古典の歌を踏まえ、その故地のようなところ(遺跡?寺院?)をその歌に
詠われているいにしえの君を思って訪ねてきた、
そんなふうにも読めてしまう歌なのである。
作者は震災の歌として詠ったのかもしれず、「礎石」は「基礎」の意味で使ったのかも
しれない。しかし、そうならばこの歌の中で「礎石」という言葉選びはどうなのか?
古典的な表現の中で「礎石」を使ったとき、読みをぶれさせてしまうのではないか?
そういう基本的な疑問が歌会でひとつも出なかったということは、二首提出で
ふたつの歌は関連して読むのが当然という前提で歌を読んでいるからであろう。
しかしそれは、歌会は歌の読みを訓練する場として考えたとき、どうなのか?
一首で読みきれないものを二首を関連付けることで読む。
それによって一首としては問題があることに目がいかなければ、
それは、歌の読みの訓練の場としての歌会ではどうなのかという疑問は感じる。
で、もうひとつの震災の歌として読んだ場合の問題...。
私はここにも問題を感じた。
古典的に美しく詠ったこの歌は本当に震災の悲しみを伝えることが出来るのか?
作者はあるいは震災で亡くなった親戚・友人・知人に思いを寄せているのかもしれない。
何事もなかったように寄せる波。
君の魂はここに戻ってきているだろうか、そう思いつつ家の跡を訪ねている。
そう読もうと思えば読める。
しかし、技巧的で古典的な美しさで装った歌でそういう作者の思いが伝わるのだろうか?
私はこの歌を読んだとき、
作者の手触りが感じられない、と思った。
歌は技巧で作ればいいというものではなく、
美しくまとめればいいというものでもない。
そういう歌はえてして作者の手触りの感じられない歌になる。
先月の全国大会の講演で永田さんと花山さんが話していた問題。
被災者でない者が被災者のような歌を出してくる。
それにも通じる問題をこの歌に感じるのである。
私は作者の住所だけで、その辺の振り分けは出来ないと思っている。
遠い地にいる者が亡くなった親戚や友人・知人を思って詠う場合もあるはずだ。
しかし、そこには当然、作者自身の「私の悲しみ」があるはずである。
私も震災の歌を詠う。私は被災者ではない。
被災者でない私は「被災者の悲しみ」を詠うのは難しいと思っている。
私は震災で感じた「私の悲しみ」を詠っている。
この歌で作者は「私の悲しみ」を表現しえているのだろうか?
技巧と古典的な装いがむしろその邪魔をしているのではないか?
そのことについて再度、発言を求めようとしたとき、
司会が総評の小林さんに振ってしまった。
言いかけた言葉を不器用に飲み込んだ私を見て、
横に座っていたNさんYさん、二人の妙齢の御婦人が噴出していたのであった(^^;
Date: 2011/09/09(金)


空海と密教美術展
7日の水曜は東京平日歌会。
毎日遅くまで仕事しているので、
月に一度くらい平日に休みを取ってもバチは当たるまいと思っている。
で、せっかくの休みなので、
歌会前の午前中に上野の東京博物館でやっている空海と密教美術展を見に行った。
博物館の入り口で驚いた。
かなり混んでる。
夏休みが終わった平日なのでたいして混んでいないだろうとたかをくくって来たのだが、
延々と行列が続いている。
仕方なく並ぶ。
9月とはいえまだ暑い。無言で立っていると背中を汗が流れていく。
かなりかかってやっと中に入る。
中も凄い混みようだ。
高齢者の人が多いのだが、展示品の前に張り付いて動かない。
仕方なく、適当に隙間から見て歩く。
空海の書が展示されているが、確かに上手い。
1200年も前に書いたものだが、しっかりしていてまったくかすんでいない。
毛筆で書いたものというのは保存が良ければこんなに長期間持つものなのかと感心する。
展示の目玉は仏像曼荼羅。
東寺の仏像を暗い会場に配置しスポットライトで浮き上がらせ、
曼荼羅のような世界を立ち上げている...そうだ。
曼荼羅というのがよく分かっていないので、いまいち理解は出来ないのだが、
確かにスポットライトで浮き上がった仏像は美しい。
しかし...。
やはり仏像は本来あるべきところにあるのを見た方がいいな、というのが感想(^^;
東寺は数年前の短歌結社の全国大会のときに行ったのだが、
講堂の暗がりのなかに立っている仏像の美しさに見惚れた。
天平の時代に続くような暗がり。
その暗がりの中にあるからこそ帝釈天も増長天も美しい。
スポットライトの中で見るものではない気がした。
講堂の暗がりの中に立っている仏像を見上げたとき、
異なる空間に足を踏み入れたような気がするのであって、
こちらの空間に仏像を持ってきてスポットライトを浴びせても、
その異空間は再現できないのだ。
醍醐寺や仁和寺の仏像も展示されていたが、
今度、京都に行き、本来あるべきところにあるそれらの仏達を見てみたい。
外に出ると既に12時を回っている。
想定外に混んでいたので時間がかかってしまった。
早くしないと歌会に遅れるのだが、今日はちょっと東京駅に行きたい。
駅の近くに軽い用事もあるのだが、それよりも東京駅でちょっと探したいものがあるのだ。
短歌結社の結社誌8月号、昨年亡くなられた河野裕子さんの追悼号なのだが、
河野裕子さんと親交のあった何人かの人のエッセイがあり、
そのなかの小高賢のエッセイ、
河野裕子さんは雑誌の編集会議で東京に来ると、
八重洲南口のそば屋「あずま」でおそばを食べるのを楽しみにしていたという。
その「あずま」に行ってみたかったのである。
調べてみたら、ネットにこんな記事があった。↓
http://awaremi-tai.com/ibukuro1/ibukuro1-002-04.htm
このネットの記事の半分から下の方に出ているのが、河野裕子さんが東京に来るたびに
おそばを食べるのを楽しみにしていたという「あずま」。
記事を読むと味の方は...という感じなのだが、
ま、駅の構内の店だから本格的な蕎麦屋を想像してはいけない。
もっとも記事を書いているヤツも、
一日で山手線の駅の立ち食い蕎麦を何軒も食べて歩くという変なヤツなので、
味の分かるヤツかどうかは分からぬ(^^;;
ちなみにこのネットの記事は多少古いものであるのかもしれず、
「あずま」が今も営業しているのかどうかは分からない。
あるいはもうやっていないのかもしれない。
そこに行きたかったのだが、もう、今日は無理である。
駅の近くでの用事だけ済ませ、時間がすっかり遅くなってしまったので、
「あずま」どころか結局、昼飯抜きで歌会に行く。
なにもかも空海と密教美術展のあの行列がいけないのである(^^;;;
「あずま」の方はまた今度探してみることにする。
Date: 2011/09/08(木)


読めてなかった...
4日の日曜は横浜歌会。
出席する歌会の数を月に一度に減らして以来、4カ月振りの横浜歌会である。
今回は選者の真中朋久さんが出席。
「さんずい」の付く字を詠み込むという題詠で13人が参加。
真中さんの的確な批評にうなずきながら久し振りの横浜歌会を楽しんだ。
そのなかで、ハッとさせられた歌。
例によってまだ誌面に出ていないので出せないが、
父島から硫黄島へと運ばれた君が見た海の青さ、
そんな歌意の歌である。
選歌した人のコメントが終わったあとで、私は疑問を呈した。
「初句の『父島から』はいるんですかね? 硫黄島に出征した人だと思うんですが、
父島は経由地じゃないの? ここに出す必要があるのか?」
そのあとの真中さんとの問答。
「いや、これは必要」
「経由しただけの場所がなぜ必要なんですか? なにか父島に意味があるように
読めてしまうような...。あるいは作者は今、父島にいる?」
「父島が任地だと思っていた。そこからさらに硫黄島に行った、ということでしょう」
「あっ! 父島にいれば死ななかった...。作者にはそういう思いがある」
「ええ。」
うーん...。
作者が詠っている「君」は父島の守備についていた。
その後、父島から硫黄島の守備隊に移動、そして玉砕。
もし、あのまま父島にいたら死ななかったのに...。
初句の「父島から」には作者のそういう思いがこもっている。
読めていなかった...。
帰ってから調べてみた。
小笠原・硫黄島の防衛を担当していたのは小笠原兵団。
中心になっていたのは陸軍109師団。
そのうち混成第一旅団が父島、第二旅団が硫黄島、第一連隊が母島の守備についていた。
最初は父島に司令部があったが、飛行場適地のある硫黄島にアメリカ軍は上陸するだろうと
いう判断から、硫黄島の守備隊が増強され司令部も硫黄島に移る。
硫黄島の守備隊は玉砕し、父島の守備隊は無事に復員した。
生と死を無残にまではっきりわけた部隊の移動があったのである。
あのまま父島にいれば死ななくてすんだ。
作者の痛切な思いを私は読み取れなかった。
真中さんは読み取っていた。
うーん...。
実力不足いかんともしがたし...(−−
研鑽が足りない...。
ちなみに、歌会のあとでの作者の話では、作者の祖父とのことだった。
ちなみにもうひとつ。
仕事の都合でこの週末だけ関東に来るのだと思っていた真中さん、実は単身赴任で
来年いっぱいぐらい東京の方にいるという。
横浜歌会にも出られるときは出てくれるということ。
うーん、選者の真中さんが歌会に出るとなると、歌会の数を月に一度に減らすというのは、
やはり、軌道修正が必要か...(^^;
Date: 2011/09/05(月)


成年後見支援センター開所式
税理士会で準備していた成年後見支援センターの開所式がおこなわれた。
認知症や障害などで自らの暮らしや財産を守るのが困難な人達のための「成年後見制度」。
他の士業と比べ取り組みが遅れていたが、ようやく支援センターが立ち上がったわけである。
出席者は来賓を交えて60人程、うち相談員は20名。
先日配られた相談員の担当日一覧表だと23人いるはずなのだが、
3人は辞退したのかな?
いずれにせよこの20人で週2回の相談日程をこなしていくことになる。
当面、慣れるまでは二人体制なので、概ね月一回当番が回ってくることになる。
本来の一人体制になればふた月に一回くらいのローテーションのはず。
ちなみに全国の税理士会で一番最初に成年後見支援センターを立ち上げたのは東京会。
そこのセンター長が挨拶していたが、電話相談は日本全国から来るらしい。
たぶん、北海道から沖縄までの税理士が、
他に相談するところがなくて東京の支援センターに電話してくるのであろう。
東京地方会の支援センターは全国で二番目の支援センターになるので、
そういう電話相談がこちらにも回ってくるのかもしれない。
来年中には東北会と関東信越会の支援センターも立ち上がる。
ただ、相談室を開くのが目的であるわけではなく、
成年後見業務に税理士が入っていくための支援をするのが本来の目的。
そのためには家裁や行政への働きかけが一番重要だろうし、
司法書士のリーガルサポートのように、しっかりした組織が必要だろう。
この辺はまだこれからの課題である。
たぶん、税理士会とは別組織でやらないと難しいと思うが、
どうなんだろう、法人後見が出来るぐらいの組織ということになると、
実現までにはかなり年数がいるのではないか?
実際の相談業務は来週から始まる。
開所式の挨拶で「恥にならないように頑張って・・・」と言っていたが、
税理士全体でも成年後見の経験者は少なく、
相談員でも成年後見の実務経験があるのは数人というのが実情。
ともあれ、最初の一歩を誰かが踏み出さなければ、あとに続く者もいないわけで、
我ら20人がその役を引き受けた以上は仕方ない。
成り行きでその20人のなかに入ってしまった人間としてはいささかの戸惑いはあるのだが、
ま、当たって砕けろということで(^^;
Date: 2011/09/02(金)


ドライブ
「よし行くぞ」
「どこへ?」
「伊豆」
「伊豆?」
「免許取ったばかりで友達と車で伊豆に釣りに行くんだろ。
行けるかどうか心配なら今日試しに行ってみりゃいい」
「仕事は?」
「仕事はあとだ」
夏休みに帰ってきた息子、免許取ったばかりで友達と車で伊豆に釣りに行く約束をしたらしい。
免許証が手に入った翌日の夜、早速、買い物に行ってみるが、
「なにやってんだギアを変えろ...。左側つきすぎてるぞ...。なんでエンストするんだ?」
うーん、最初はこんなものかな(^^;
これで、ほんとに伊豆まで行けるのか?
ならば試しに行ってみようと、今日、伊豆に行ってきた。免許取って三日目。
横浜から東名・厚木小田原道路と乗り継いで海岸沿いに走れば伊豆である。
熱海、伊東、網代、とりあえず12時まで行けるとこまで行ってみなと走らせる。
結局、稲取まで行った。晴れていれば大島が見えるはずだが台風が近づいていて波が高い。
横浜から2時間半。平日だと道が空いていて早い。
息子の運転も最初はぎこちなかったが、まあ、だんだんスムーズになってきた。
12時でUターン。来た道を戻る。
途中、赤沢温泉の日帰り温泉館で入浴。
露天風呂から海がばっちり見えて気分のいい風呂である。
こんな感じ↓
http://top.dhc.co.jp/akazawa/onsenkan/index.html
風呂から出て昼食。今日は息子が運転するので安心してビールを飲み刺身を食べる。
眼下には赤沢の海。子供達がまだ小さかった頃、この近くのコテージに泊まり、
この海岸で子供達を遊ばせたことがあった。
あれから10年以上たって、その子供の運転で伊豆に来ている。
天気が良ければもっと眺めがいいのだろうが、台風であいにくの天気。
ときどきザァッーと降ってくる。それでも海を眺めていると気持ちがいい。
帰りは干物を買って帰る。
伊豆の干物は美味しい。
鯵の干物など近所のスーパーの干物と食べ比べるとまったく味が違う。
来た道を戻り、4時過ぎには息子とのドライブを終えて横浜に帰った。
ま、息子の運転は60点かな。
無理するなという条件付きで車を貸してやるか(^^
Date: 2011/09/01(木)


全国大会その2
初日のプログラムが終わり、JALシティ長野にチェックイン。
缶ビールで一休みしたあと夕食をとりに出る。
長野の食べ物というと、蕎麦、おやき、蜂の子などが浮かぶのだが、
蕎麦は昼に食べてるし、おやきや蜂の子は夕食になりそうにない。
あとは浮かぶのは馬刺しくらいか...。
フロントで聞いたとき、駅前はチェーン店が多くてつまらないですと言っていたが、
確かに長野の街は旅人がさくっと歩く範囲にこれといった店が見当たらない。
食い物屋が並んでいると聞いてきた通りも、普通の居酒屋が殆ど。
結局、夕食は適当に済ませ、コンビニで酒とつまみを買って帰る。
さて、酒でも飲みながら今日まとめ買いした歌集に目を通すかなと思っていたら携帯が鳴った。
湘南歌会の炭陽子・数又みはるの御両人。
懇親会の会場からだろう、二次会やるから出てきなよと代わる代わる言って五月蝿い。
テキトーにあしらって電話が切れてほっとしたのも束の間、またかかってきて、
出て来い出て来いとしつこい。
「わかった、行くから」
まったく...。不良会員なんぞ放っといて、
全国大会には一年に一度しか会えない人達が一杯いるんだから、
そういう人達と飲んでりゃいいじゃないかと思うのだが、
オバチャン達というのはうるさい生き物ではある(^^;
会場のホテルまで歩いて10分程度、行ってみると二次会の別会場があった。
「二次会の会費払ってないよ」と言うのだが、
「いいのよ、いいのよ、そんなもの」と言う。
ま、どうでもいいやと思い座って話していると、選者の池本一郎さんが来た。
私が六月号の誌面時評に書いた、誌面の作者名のところの住所表示の件。
以前は、市町村名でOKだったのが、今は都道府県になっている。
作者名と地名をセットで覚えていたのにそれがなくなり、
誌面から日本の美しい地名が消えたことが残念というようなことを書いたのだが、
池本さんもその意見に賛成で、主宰の永田さんにFAXを送ったとのこと。
編集部は消極的だが、いずれ少し変わるだろうと言っていた。
是非、変えてもらいたい。
日本の美しい地名を誌面に復活させてもらいたいものである。
選者もあちこちのテーブルを歩いてまわっていたりするのだが、
見ていると性格が出ているようで面白い。
池本一郎さんはジャージ系のズボンにTシャツをインして着ているので、
どこかのオジサンが上半身下着でうろついているみたいに見えるし、
吉川宏志さんはあちこち挨拶して歩き回っているが、
気がつくと大抵、若い女性の近くにいる。
永田和宏さんは髪の毛が妙に整っているのが不思議だった。
トレードマークの蓬髪はどうしたのだろう。
誌面で名前だけ知っている何人かの人と挨拶したりして、11時に二次会は終わり。
そのあとさらに別室で延々と話をする。気がついたら1時近い。
さすがにそこで終わりにしてホテルに戻った。
ひとりでホテルの部屋で飲みながら買った歌集に目を通すつもりだったのが、
結局、さんざん飲んだくれてしまった。しかも只酒。
ちなみに後から二次会の会費を請求されても困る(^^;;
翌日、皆が真面目に歌会をやっている頃、
不良会員はひとりぷらぷらと善光寺を参拝し、
隣の信濃美術館で東山魁夷の絵を眺め、
裾花峡温泉で汗を流し、戸隠蕎麦を食って帰路に着いた。
来年の全国大会は大阪である。
Date: 2011/08/24(水)


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