*--Diary--*


がっかりするものを見たくない  2011/06/09(木)
妙義 中木川金洞沢  2011/06/06(月)
安藤純代第一歌集『五番目の季節』批評会  2011/06/04(土)
写楽  2011/06/02(木)
さくら  2011/05/27(金)
歌会を減らす  2011/05/23(月)
石巻市立大川小学校  2011/05/22(日)
岡井隆『大震災後に一歌人の思ったこと』について  2011/05/21(土)
遺産整理業務  2011/05/16(月)
土下座  2011/05/10(火)


がっかりするものを見たくない
昨日は税理士会の支部総会、
終了後の懇親会に某省の某副大臣が挨拶に来ていた。
「私が副大臣でいられるのも長くないと思います・・・、
原発の現地対策本部長を拝命し、福島に行っておりましたが体調を崩し・・・
替わりの本部長を置かなかったのは内閣の責任であって、私の責任では・・・」
それを聞いていた周囲の声は、
「閣僚が内閣は長くないと言ってるようじゃ、もう終わりだな」
「こんなところに来てていいのかよ。福島に行ってろ福島に」
ま、聞こえるようには言わないわけだが、
あまり芳しくない声ばかり。
原発の現地対策本部長が替わりの本部長を置かないままに現地を離れたことについては、
一部報道によると、替わりの本部長を置いてくれという要請に対し、
海江田大臣が、福島に戻らないなら副大臣を辞任するようにと言ったので、
それを拒否したのだそうだ。
拒否して、後任の責任者なしの状態で現地を離れたらしい。
「人を使い捨てにする非人道的なやり方に・・・」
と本人は取材で答えたらしいが、どうなのだろう...。
病気で職務を果たせないなら副大臣を辞任しろと言われたのも、それを非人道的と感じたことも、
原発事故という重大な事態の前では個人レベルの話ではないのか?
国と国民のことよりも個人的なことを優先したということか...?
私はその某副大臣が議員になりたての頃を知っている。
税理士仲間の勉強会の忘年会などにも出席し、
気さくで話しやすい感じの人だった。
その後、年月を経て副大臣になり、
税政連が税制改正についておこなっている国会陳情の一員として、
議員会館に訪ねたことがあったが、話し方がすっかり変わっていた。
なにかこう、ふんぞりかえったような話し方に変わっていることに正直驚いたのだが、
陳情団の隅っこで黙って聞いていた。
今年は政局がかなり流動しそうで、国会陳情をするヒマはあるのだろうか?
税制改正についてのもろもろの意見を伝えるために政治家との接点は必要なわけで、
それを否定しようとは思わないが、
これ以上、がっかりさせられるものを見たくはない。
税政連の役目も今期あたりで終わりにしてもらえればいいと思っている。
Date: 2011/06/09(木)


妙義 中木川金洞沢
妙義の中木川金洞沢で今年初めての沢登りをしてきた。
妙義山塊の中心部、妙義湖の上流の谷で、妙義では珍しく水量の多い沢である。
国民宿舎の下の駐車スペースから林道を歩いて20分程で星穴沢橋。
ここから谷に入る。
沢沿いに登山道がついているのでとりあえずそれを使って堰堤ふたつを越え、
そこからはナメと小滝の続くなかなか綺麗な沢である。
新緑の時期は終わり6月の濃くなってきた緑の谷を遡行する。
ヤマボウシの白い花があちこちに咲いている。
しばらく登っていると、深い淵を持った滝に出会う。
ちょっと厳しそうだが、滝の水流のなかになんとかスタンスはありそうだ。
左からへつって水流に入り、際どいバランスでスタンスとホールドを拾って這い上がる。
登ったところでお助け紐(短いロープ)を出して後続のふたりが登るのを助ける。
で、この滝を登ったところがその上のもうひとつの滝の淵の縁になっているわけだが、
この淵が深い。
泳がないと無理である。
3mくらいの淵を泳いで向こうの滝に取り付いて登るわけだが、
取り付く辺りがもろ滝の水流を浴びる。
計画を立てる前からこの沢は泳がないと滝を越せないルートだということは
知っていたのだが、時期的には沢で泳ぐにはちょっと早い。
真夏のギラギラしたときなら、なんの躊躇いもなく水に入るわけだが、
全身ずぶ濡れになるにはまだ早そうなので、そこは高巻くつもりで来たのである。
調子に乗って登ってきて、高巻くつもりのところをそのまま登ってしまったのだ。
しかも、泳がないと前には進めないし、
さりとて、さっき際どいバランスで越えてきた下の滝をくだるというのは...。
まわりを見回したが、のっぺりとした岩肌で下降の支点をとれそうなところもない。
顔を見合わせた。
「覚悟決めて泳ぐ?」
賛同者ゼロ...(^^;
仕方なく、際どいバランスで越えてきた滝を再度、際どいバランスで下降する。
お助け紐を使ってふたりを先におろし、自分はお助け紐もなにもなし。
登るときと違い下に降りるときは足を置くスタンスが見えにくい。
下からスタンスの場所を指示してもらってようやく下りたときはホッとした。
高巻きも崩れそうな斜面で面倒だったが、どうにか越え、
そのあともなかなか綺麗なナメと小滝の続く沢を登る。
しばらく行ったところで、登山道が沢を横切っており、ここで今日の遡行を終える。
ここからさらに沢をつめていけば1時間くらいで稜線に出られるのだが、
ここから上はゴーロだけで滝はなく面白くなさそうなので、ここで終了とする。
この登山道はあまり人が通らないのだろう、分かりにくいところや、
谷にずり落ちそうな急傾斜のところもあったりして、あまり初心者向きの登山道ではない。
それでもくだるのは早く、30分もかからないで入谷地点の星穴沢橋に着いた。
頂上に登らず、沢の核心部だけを楽しむという山行だったが、
久し振りに山岳会の仲間と沢登りをして楽しかった。
やはり、月に一度はこんなふうに自然のなかに身を置いていたい。
帰り、林道の脇に野いちごを見つけたが、野いちごはまだ酸っぱかった。
Date: 2011/06/06(月)


安藤純代第一歌集『五番目の季節』批評会
今月の東京平日歌会、通常の歌会は短く終わらせ、
後半は安藤純代第一歌集『五番目の季節』の批評会である。
パネリストとして、未来のさいとうなおこさん、滄の牛山ゆう子さんが参加された。
昨年の暮れ、歌集を贈って頂き読ませてもらったが、良い歌集だった。

  ひと駅ごと春の濃くなる気配して内房線はここより無人
  散りふぶく桜の道を帰りくる子は我の他心開かず
  のこのこと参賀に賑はふ店に出て叱られをりぬ稲荷屋の猫
  「幸」の字はさかさに見ても幸なりと鉛筆止めて子のつぶやける
  一緒には行けない橋のあることを子よりも吾にまづ言ひきかす
  ある時は理解及ばず一篇の詩のごとくみる自閉症の息子

歌集を通して家族とくにお子さんへのまなざしが伝わってくる。
自閉症のお子さんとともに生きてきた年月をそのまま編年体で編んだ歌集である。
編年体はときに単純な構成になってしまうわけだが、
この歌集ではむしろ編年体が成功している。
3月決算で5月は忙しく、歌集をあらためて読む時間がなく、
批評会はもっぱら聞き役で参加させて頂いたのだが、
活発な意見が交わされていい批評会だった。
そのあとの懇親会で、批評会で発言しなかった人達も一言ずつということで、
順番に発言することになったのだが、
既に酒が入っているので、難しい批評みたいなことは言えないわけである(^^;
確か、以下のようなことを言ったはず。
「安藤さん、出版おめでとうございます。
安藤さんと歌会ご一緒させて頂くようになってから3年くらい経ちますかね?
で、そうやってご一緒させて頂いていて、安藤さんがそんなにいい歌を詠んでいると
いう印象がなかったんですね。ところが、歌集を頂いて読んだら、
いい歌が沢山ある。これはどういうことなのかなと?
たぶん、安藤さんは大人しい人なんだろうなと思うんですね。
その大人しいところから一歩出るとまた違う歌が出来るんじゃないか、
そんな気がします。これからも頑張ってください」
うん...。
これって、一番肝心なところが抜けているよね。
「歌会ではいい歌を詠んでいる印象がなかったのに、歌集を読んでみたら、いい歌が
沢山あった。たぶん、大人しい方なので一首一首では歌も大人しくなってしまう。
歌集で読むと歌の良さが分かるが、一首では印象が薄くなってしまうのかなと。
だから、その大人しいところから一歩出るとまた違う歌が出来るんじゃないか」
この部分が抜けていると、ただ単に、
いい歌を詠んでいる印象がありませんでしたみたいなことを言ったみたいな(^^;;
やってしまった...。
酒飲んで話すとこれだ...。
だから、酒飲んで難しい話するのは嫌いなんじゃ。
ま、いいや、酒の席で誰も覚えとらん(^^;;;
最後に歌集の題になった歌を紹介する。

  五番目の季節がそこにあるごとくゆつくり展くうす紅の薔薇
Date: 2011/06/04(土)


写楽
謎の絵師、写楽。
18世紀末の江戸、わずか十ヶ月の間に百数十の浮世絵を世に出し、姿を消した。
その写楽の展覧会が東京国立博物館で12日まで開かれている。
1日の東京平日歌会、歌会は午後からなので午前中に写楽展を見てきた。
出されている絵も多く、展示の仕方も工夫されていてなかなか面白い。
写楽の絵は第一期から第四期までに分かれるのだが、その変遷を見ていくと、
写楽自身の変化、写楽と版元との関係等、いろいろ思われて興味深い。
また、我々が見る浮世絵は刷られてからかなりの年月が経っているわけで、
絵の具の変色により絵のイメージが変わっているのも結構あるらしい。
保存状態の良い絵とそうでないものを比べるとかなりの違いがある。
刷られたばかりの浮世絵は我々が見るものより鮮やかであったようだ。
もともと浮世絵は好きなのだが、どちらかと言えば風景の方を好んでいる。
北斎や広重、彼らの絵は鮮やかだし、画面の切り取り方なども素晴らしい。
19世紀のヨーロッパの画家達に大きな影響を与えたのも頷ける。
写楽は風景は描いていない。
役者絵、美人画、相撲取りの絵などもっぱら人物である。
美人画とかはあまり興味ないのだが、「大首絵」といわれる初期の役者絵はいい。
デフォルメされているのだが、それでいて迫真性がある。
他の絵師の役者絵も展示されていて、それと写楽の役者絵を比較することが出来るのだが、
比べて見て気がついた。
写楽の絵は舞台で芝居をしている役者の一瞬の動きを絵にしている。
他の絵師のそれは、芝居の装束を着てポーズを取っている役者を描いているような絵である。
例えて言えば、映画タイタニックのレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレット。
船首に立つふたりの動きの一瞬を絵にしたのが写楽。
ふたりにタイタニック出演時の服を着せポーズを取らせて絵にしたのが他の絵師達。
それが写楽と他の絵師の決定的な違いである。
しかし、それも初期の作品だけ。
写楽の絵は変わっていく。
第二期になると役者の全身の絵になる。
そして、絵がうまくなる。
うまくなっているのだが、第一期の絵にあった迫真性は消えている。
うまいのだが、綺麗にまとまっているのである。
第三期以降はさらに変化し、正直、同じ人間が描いたのだろうかという気になる。
あるいは写楽が描いたのは第二期もしくは第三期までで、
それ以降は「写楽」というブランド名で別人もしくはチームが描いたのかもしれない。
どうして変化したのか?
版元の意向がかなりあったのかもしれない。
当時の記録には、写楽が役者達から疎まれたと記されている。
写楽は役者を美化して描かずリアルに描いた。
美化して描いて欲しい向きは腹がたつわけである。
消費者も最初は大首絵を面白がったが、
ブームが一巡すると美しく描かれた役者絵の方に戻っていったらしい。
流行り廃れはいつの世にもあることで、
版元の蔦屋重三郎は、売れる役者絵を描くよう写楽に求めたであろう。
うまい美しい役者絵である。
それに応じて絵を変えていった写楽だが、とうとう絵筆を折ったのかもしれない。
写楽は誰であったのか。
いろいろな説が昔からあったが、今では能役者の斎藤十郎兵衛という説が有力になって
いるらしい。写楽は斎藤十郎兵衛だというのは既に江戸時代の文献に記載があるのだが、
実在が確認出来なかった。しかし最近の研究で実在が確認され、斎藤説が有力になった。
写楽は正式には東洲斎写楽というのだが、
斎藤十郎兵衛の斎藤十(さいとうじゅう)を並べ替えると東洲斎(とうしゅうさい)になる。
表現者は必ずどこかに自分の存在を示す。
それは絵も短歌も同じである。
そういえば、写楽の初期の作品の画面の切り取りは短歌にも通じるところがある。
さらに第一期から第二期へ、うまくなると同時に失われていったリアリティー。
短歌もうまくなるとヘタになるということが言われる。
いかにも短歌らしくうまくまとめて作ってしまう。
写楽の変化はそれに通じるものもあるのかもしれない。
いずれにせよ写楽は筆を折った。
写楽はその後、本当に絵を描かなくなったのであろうか?
あるいは誰のためでもなく売るつもりもなく描いたその後の写楽の絵が、
どこかの蔵の古文書に紛れて眠っているかもしれない。
そんなことを思いながら、すっかり緑が濃くなった上野公園を後にした。
Date: 2011/06/02(木)


さくら
さくらがいなくなった。
ゴールデンレトリバー、2歳と七ヶ月。
昨日の昼過ぎ、家から電話があり、さくらがいないと言う。
12時半から1時半の間、家の者が買い物に出た間にいなくなったらしい。
玄関から庭に自由に出入りできるようにして飼っていた。
出かけるとき、天気が良ければ庭に出しておく。
買い物に行ってすぐ帰ってくるので門扉の鍵はしていかなかったという。
帰ってくると、門扉はちゃんと閉まっているのに、
庭にいたさくらがいなくなっていたらしい。
その1時間の間に誰かが門扉を開けたのであろう。
普通のセールスマン等ならチャイムを押して出なければ門扉は開けないだろう。
それに、誰かが開けて閉め忘れたのなら、犬が出たあと開いたままになっているはずである。
あるいは連れ出されたのか?
とりあえず一度家に帰り、周囲を探したがいない。
駅前の交番に行き、遺失物として届けを出し、
犬が保護されていないか聞いてみたが保護されていないという。
そのあと仕事に戻ったが早目に切り上げ、夕方、1時間程歩き回って探した。
途中、犬を散歩させている知った顔に何人か会う。
私がリードだけを持って歩いているので、
「さくらちゃんはどうしたんですか?」と怪訝な顔で聞く。
訳を話すと、驚いて、あちらの方を歩いてきたが見かけなかったとか、
いろいろ教えてくれる。
歩き回って探したが、結局、どこにもいない。
夜、保健所のホームページで収容犬情報を見てみるが、それらしい犬はいない。
当たり前にいたさくらがいなくなり、からっぽのケージだけがある。
食事を摂る気にもなれず、ビールを呷った。
白状してしまえば、犬を飼うまではペットロスというのが分からなかった。
ペットが死んだくらいで、そんなにショックなものなのか?と思っていた。
さくらは生れて2ヵ月でうちに来た。
それ以来、2年と5ケ月、さくらのいる暮らしだった。
今朝まで元気だったさくらが神隠しにあったように突然いなくなり、
これからは、さくらのいない暮らしになる。
ペットロスというものが分かった。実感として分かった。
結局、晩飯も食べず酒だけ呑んで寝た。

一夜明けて今日、
もう一度、保健所のホームページの収容犬情報を調べてみた。
うん?
情けない顔して映っているゴールデン...。
......。
このバカ犬め!(^^;
Date: 2011/05/27(金)


歌会を減らす
出席する歌会の数を減らすことにした。
現在は毎月三つの歌会に出ている。
今年の2月、忙しい最中に結社誌に風炎集の原稿を出さなければならなかった時、
つくづく思ったのだが、結局、時間が足らない。
作歌の時間をもっとしっかり取りたいのである。
それに、表現もアウトプットだけではだめでインプットが必要なわけで、
インプットにもう少し力を入れないといけない。
あっちこっち行きたいし、本も読みたい。今は短歌の総合誌に目を通す時間もない。
短歌だけやっていれば時間はいくらでもあるのだろうが、
仕事は当然しなければならないし、
山にも登りたいしアーチェリーもしたい。
どうするかと考えたら、月3回行っている歌会の数を減らす、これしかない。
月に1回くらいにして、あまった日を作歌やインプットに当てる。
どこを減らすかだ...。
横浜歌会は我が師匠・岡部史さんのいる歌会であり、多くのことを学んだ歌会。
東京平日歌会は歌会の前に東京の下町歩きや上野の展覧会などを楽しめるのが捨て難いし、
湘南歌会は鎌倉を歩ける。
いずれもそういうのは良いインプットになる。
うーん、どこかを行かなくするというより、
ローテーションを組んで、今月は横浜、次は東京平日とか、
そんな感じかな...。
仕事でもそうだが、いつまでも同じようにしていたらダメなわけで、
今の体勢が機能していたとしても、
次のステップのために体勢を見直すことは必要なはずである。
Date: 2011/05/23(月)


石巻市立大川小学校
岡井隆の「天災」どうのこうのという発言にからんで、
震災以後、気になっていたことをひとつ書いておく。
もっとも、岡井隆の論とは直接の関係はない話である。
石巻市立大川小学校。
今回の震災で生徒108名のうち74名が津波に呑まれて死んだ。
報道で知っている人も多いと思う。
最初このニュースを聞いたとき胸がつぶれる思いだった。
その後、ニュースで大川小学校の映像を見たとき、なんで?と思った。
学校のすぐ裏に山がある。
あの山に登れば助かったのではないか? 素朴な疑問を抱いた。
震災当日、校長は出張で学校にいなかった。
帰ってきた校長に父兄は「あの山に登れば助かったんじゃないのか!」と
詰め寄ったという。
校長も、自分がいたらそうしたかもしれないと答えたらしい。
しかし、その辺は現場を見なければ分からないことであろう。
小学生というのは、6歳から12歳までいるのである。
12歳には登れる斜面も6歳には全く登れないということもあるかもしれない。
批判するのは簡単である。
事が終わったあとならば誰でも神のように物事を見通すことが出来る。
そういう安易な批判はしたくない。
ただ、仕事の失敗を失敗で終わらせてはならないのと同様、
悲劇は悲劇で終わらせてはならないのである。
事の推移を追っていくと、いくつかの問題が浮き上がってくる。
地震後、教師達は子供達を校庭に集め点呼している。
まずここに問題はなかったか?
三陸には「てんでんこ」という言葉があるらしい。
地震があったら津波がくる。ぐずぐずするな、とりあえず家族のことも
考えないでてんでばらばらに逃げろ。
そういう意味であるらしい。
釜石市の学校では、震災の当日、学校にいた生徒は全員無事に避難した。
それは「てんでんこ」を実践し、ともかく高いところに逃げる。
それに徹し、普段からそういう訓練をしていたからである。
大川小学校では校庭に子供達を集め点呼をした。
そしてそのあと、教師達はどこに避難するか鳩首会談している。
こうやって時間が過ぎた。
海から3k離れた学校で津波を想定しなかったのはやむを得ないのかもしれないが、
避難場所の選定がされていなかったことは行政の問題であろう。
教師達が鳩首会談している間、校庭ではスクールバスが待っていた。
バスを運行している会社ではその後、「詰め込めば全員乗れただろうに」と言っている。
そして、川に近い高台に避難しようとして津波に呑まれた。
安易な批判は出来ない。
現場を確認しなければ分からないことは多いはずである。
大川小学校の教師達も子供達を救おうとしたはずである。
しかし、いずれ悲劇の真相は明らかにされるべきだ。
悲劇を悲劇で終わらせたなら、死んだ子供達はどうなるのか?
子供達の死を後世に伝え、危機に瀕しての対処に問題があればそこから学ぶ。
そうしなければ子供達は無意味に死んだことになってしまう。
いつか再び津波は必ずやってくるのである。
子供達の死を無駄にしてはならないはずだ。

危機に直面したとき、人はどう対処したか。
人の対処次第で天災の結果も変わるのである。
原発についてはその対処が困難だから問題になるのである。
岡井隆はその辺を踏まえないで「天災」という言葉を使っているので、
周囲から誤解を受けたのであろう。
Date: 2011/05/22(日)


岡井隆『大震災後に一歌人の思ったこと』について
歌人の岡井隆が原発事故について新聞に書いたことで批判されているらしい。
その記事を読んでみた(日経新聞4月11日文化欄「大震災後に一歌人の思ったこと」)。
内容的にはたいしたとこを言っているわけではない。
今回のような事故があると、周囲はこぞって原発について批判するわけで、
中には、自分はこういうことがいずれ起きると判っていたのだという感じで、
ことさらに言い立てる向きもあるわけである。
そういう論調というのは実は、
かっての軍国主義の時代の歌人達の時代迎合的なものと通じるものがあるわけで、
「小声」で異なる意見を述べる岡井隆を私は否定はしない。
ただ、彼の論のなかで私は非常に気になるところがあった。
今の時代が原子力と付き合っていくしかない時代であるかどうかは、
それぞれの判断であり、どうこう言うことではないのだが、
気になったのは次の部分である。
「原発は、人為的な事故をおこしたわけではなく、天災によって破壊され
のたうちまわっているのである。原発《事故》などといって、まるでだれか
の故みたいに魔女扱いするのは止めるべきではないか」
これは事実の認識として正しいのか?
今回の原発の事故は津波が引き起こしたものである。
しかし、「想定外」という名のもとに、歴史的に何度も津波に襲われている地域で、
津波対策をしないまま原発を稼動させていたのは、天災なのか?
事故を起こした原発は古いものでその安全上の問題は以前にも専門家が指摘していた。
それを放置したのも天災なのか?
事故発生後、その対処にかなり問題があったことは明らかになりつつある。
それも天災なのか?
なぜ岡井隆は「天災」という言葉ですべてを片付けてしまっているのか?
原発事故を経験して、「私は危険だとわかっていたのだ」式のことをことさらに言う
つもりはないのだが、それにしてもこの岡井隆の論には、
事実を明らかにしようという科学的態度が感じられない。
彼は医者ではなかったのか? この非科学的な態度はなんなのだろう?
あるいは岡井隆は「原発」という科学の粋を結集した存在そのものについて
言っているのかもしれないが、それが人間によって運用されるものである以上、
対物的な愛を語ってもしょうがない。
いずれにせよ、ビジネスマンの感覚で言えば、
失敗は失敗で放置してはいけないのである。
なぜ失敗したのか、事実を明らかにしそれを分析し是正するべきところがあれば是正する。
そういう感覚に慣れた人間にとって、岡井隆の論は腑に落ちないものである。
歌人としての良心が、時代迎合的な論調に警鐘を鳴らしたと善意に理解したいのだが、
彼ほどの大歌人であるならば、読んだ者を納得させるものを書いて欲しいものである。
Date: 2011/05/21(土)


遺産整理業務
今年の1月に父が亡くなり、それに伴う相続の手続きをしなければならない。
なんでこう忙しい時に限っていろいろ重なるのだろうと思いつつ、
放っておくわけにもいかないのであちこちに行って必要な手続きを進めている。
で、今日は某信託銀行に行ってきたのだが、手続きが終わるのを待っている間、
テーブルの上の「遺産整理業務」なる案内をぱらぱらと捲ってみた。
内容的には、本人に代わって信託銀行が、遺産を確認し必要なものを集め、
預金・有価証券・不動産の相続手続きをするというもの。
つまり、今、私が父の相続に伴ってやっているのと同じものである。
報酬を見ると、概ね遺産の1%で、最低105万からとなっている。
相続に伴う相続税の申告、不動産の相続登記等の税理士・司法書士への報酬は別途である。
ふーん...。
父の相続で、あちこちから謄本・印鑑証明・評価証明をとり、
書類を書いて金融機関や法務局で必要な手続きをしているわけだが、
それ自体はそれほど困難なものではない。
それでこの報酬ね...。
確かに、戸籍謄本を集めるにあたって、
場合によってはかなり手間暇がかかる場合もあるが、
それはちょっとレアケース。
それで遺産の1%、最低で105万ね...。
その何倍もの手間と時間をかけて我々税理士は相続税の申告をするわけだが、
その報酬と比較してどうなんだろう。
戻ってきた行員にちょっと聞いてみたら、
「御高齢の相続人の方の場合、必要な書類を集めることからして大変なので、
そういうサービスをさせて頂いています」とのこと。
なるほど、これも高齢者ビジネスということか。
それにしても信託銀行さん、いい商売しているよね。
ぼったくりとは言わんが(^^;
Date: 2011/05/16(月)


土下座
最近、ふたつの土下座を見た。
ひとりは東京電力の社長、清水正孝。
もうひとりは焼肉チェーン店を経営するフーズ・フォーラスの社長、勘坂康弘。
ふたりには共通点がある。
コストカッターである。
清水正孝は東電の資材調達の仕事で辣腕を振るった。
下請業者を競わせて大幅なコストカットに成功している。
勘坂康弘はそれまでになかった低価格の焼肉を提供して若くして成功した。
価格破壊ということが言われ、
日本の企業は価格競争をしてきた。
無駄なコストを削るのは当然だし、それによる価格低下が消費者の利益になり、
消費が増大することで経済も活性化する。
それであればなんの問題もない。
しかし、大抵のことには陽のあたる部分と影の部分があるのであり、
規制緩和論者は陽のあたる部分だけを言い過ぎた。
価格破壊は正常なコストダウンの範囲を越え、
下請け業者・納入業者の体力を奪った。
海外の安い賃金を使ってのコストダウンが一番簡単なわけだが、
そういうものになじまないものまでが、当然のように価格引下げを求められた。
その結果は当然ながら仕事の質の低下である。
その歪んだ結果のひとつが姉歯一級建築士の強度偽装だった。
清水正孝は、安全よりもコストを優先してしまった。
勘坂康弘は、正常なコストダウンの範囲を超えた低価格で質を維持するのは無理だと
いうことに、気付かなければならなかった。
清水正孝はいずれ起こされるであろう株主代表訴訟ですべてを失うのかもしれず、
勘坂康弘は若くして得た成功を失う。
ふたりはすべてを失ってから、「安物買いの銭失い」という言い古された格言を
噛み締めるのかもしれない。
しかし、それはふたりだけのことではない。
限度を超えた価格破壊を当然のことのように勘違いした日本人全体が、
一度噛み締めた方がいいのである。
Date: 2011/05/10(火)


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