川柳はやらないのだが、読売新聞の「川柳うたた寝帳」に目が止まった。 引用してみる。
今、何が出来るのか。 日本中の、いや、東日本巨大地震の惨状を知った世界中の人々が、 自分自身に問いかけている。 仕事で、仲間で、ネットワークで、自分が出来ることは何か。 それがどれだけ役に立つのか。考えはなかなかまとまらない。 「前向きに」と思うが、気持ちがふさいでいく自分をどうにも出来ない。 時事川柳で何が出来るのか。採用句ではないが、多くの人から こんな作品をいただいた。
五七五言い尽くせない3・11
今、多くの表現者が多かれ少なかれ同じ思いを抱いているのではないだろうか。 表現することの無力さ...である。 もちろん、同じ体験をしても人によってその受け止め方は違うはずだ。 同じ日本に住んでいても、今回の震災については、 東日本の人と西日本の人とでは受け止め方も違うだろう。 表現することの無力さ。 それを思い知った者は、これからどうおのれの表現を具体化したらいいのか。 おそらく震災・津波・原発を詠った短歌が沢山詠まれるだろう。 しかし、そのなかのどれほどの歌に私は共感出来るだろうか。 営々と築いてきたものが崩れ去る。昨日までの生活ががらりと変わる。 そういうことが有り得るのだということを実感した者と実感しない者では、 共感するところも異なるだろう。 短歌に対する考え方そのものさえ変わってしまったような気がする。 なにげない日常を詠う、そういう短歌がある。 そういう歌にこれからの私は共感出来るだろうか。 正直言って、今までもそういう歌にそれ程の共感は覚えていなかった。 そういう歌の巧さは分かっても感動することはなかった。 悲惨な現実を知り、人生観も変えるような体験をした人は、 そういう歌に感動を覚えることが出来るだろうか。 良い時代に青春を過ごし、良い時代に老いを迎えることが出来た人達の なにげない日常の歌、そういう歌に、 より厳しい時代を生きる次の世代は共感することが出来るのだろうか。 共感に値するだろうか。 そういう素朴な疑念さえ感じるのである。 数万人の人が死んだ。 その人達の死を伝えなければいけないと思う。 伝える者がいなくなったとき、彼等は忘れ去られる。 表現者として何が出来るのか。 それを考えていきたいと思う。 しかし、 強烈な現実の前で表現することの無力を思い知った者に、 それは厳しいことである。
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Date: 2011/03/28(月)
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