*--Diary--*


表現するということ  2011/03/28(月)
勇気  2011/03/25(金)
福島の50人  2011/03/19(土)
公平  2011/03/17(木)
リビア難民支援  2011/03/02(水)
瑞泉寺  2011/03/02(水)
栗木京子さん  2011/02/28(月)
不発  2011/02/21(月)
山の仲間  2011/02/19(土)
関野杯  2011/02/14(月)


表現するということ
川柳はやらないのだが、読売新聞の「川柳うたた寝帳」に目が止まった。
引用してみる。

  今、何が出来るのか。
  日本中の、いや、東日本巨大地震の惨状を知った世界中の人々が、
 自分自身に問いかけている。
  仕事で、仲間で、ネットワークで、自分が出来ることは何か。
 それがどれだけ役に立つのか。考えはなかなかまとまらない。
 「前向きに」と思うが、気持ちがふさいでいく自分をどうにも出来ない。
  時事川柳で何が出来るのか。採用句ではないが、多くの人から
 こんな作品をいただいた。

   五七五言い尽くせない3・11

今、多くの表現者が多かれ少なかれ同じ思いを抱いているのではないだろうか。
表現することの無力さ...である。
もちろん、同じ体験をしても人によってその受け止め方は違うはずだ。
同じ日本に住んでいても、今回の震災については、
東日本の人と西日本の人とでは受け止め方も違うだろう。
表現することの無力さ。
それを思い知った者は、これからどうおのれの表現を具体化したらいいのか。
おそらく震災・津波・原発を詠った短歌が沢山詠まれるだろう。
しかし、そのなかのどれほどの歌に私は共感出来るだろうか。
営々と築いてきたものが崩れ去る。昨日までの生活ががらりと変わる。
そういうことが有り得るのだということを実感した者と実感しない者では、
共感するところも異なるだろう。
短歌に対する考え方そのものさえ変わってしまったような気がする。
なにげない日常を詠う、そういう短歌がある。
そういう歌にこれからの私は共感出来るだろうか。
正直言って、今までもそういう歌にそれ程の共感は覚えていなかった。
そういう歌の巧さは分かっても感動することはなかった。
悲惨な現実を知り、人生観も変えるような体験をした人は、
そういう歌に感動を覚えることが出来るだろうか。
良い時代に青春を過ごし、良い時代に老いを迎えることが出来た人達の
なにげない日常の歌、そういう歌に、
より厳しい時代を生きる次の世代は共感することが出来るのだろうか。
共感に値するだろうか。
そういう素朴な疑念さえ感じるのである。
数万人の人が死んだ。
その人達の死を伝えなければいけないと思う。
伝える者がいなくなったとき、彼等は忘れ去られる。
表現者として何が出来るのか。
それを考えていきたいと思う。
しかし、
強烈な現実の前で表現することの無力を思い知った者に、
それは厳しいことである。
Date: 2011/03/28(月)


勇気
震災から二週間たった。
盛岡在住の短歌結社の会員のブログを読むと、
盛岡は東京方面の新幹線はまだ動いていないがかなり通常に近い状態に復したらしい。
一方、山岳会の仲間の消防士は仙台に派遣されていたが、
仙台の様子はテレビで見るより悲惨だという。
内陸部は比較的落ち着いているが、沿岸部はかなり被害が大きい。
復興にはかなり年数がかかるだろう。
日本人に今必要なのは勇気なのであろう。
リーダーは今こそ人々に勇気を与えなければならないわけだが、
管総理はこの二週間、ついに国民に勇気を与えることは出来なかった。
与えることが出来たのは不安と不信である。
震災後、内閣の支持率は多少上がった。
対応を評価されてではない。
こんな内閣でも今はともかく頑張ってもらわなければならない。
そういう支持率の上昇である。
国民からも海外からも評価されない首相を「非常時」が支える。
国民の気分を沈める、まるで原発のような首相だ。
それはそれとして、
勇気を持とう。
我々は今、この国の歴史の転換点に立っている。
時代を切り開くのは勇気である。
我々の先人達は時代を切り開いてきた。
我々は先人達より多くのものを持っている。
この国で生きる我々の子供達、その子供達、我々は彼等の未来に責務を負っている。
勇気を持とう。
我々には出来るはずだ。
Date: 2011/03/25(金)


福島の50人
海外のメディアが「福島の50人」を称賛している。
原発の事故と放射能漏れ、800人程いた作業員の大部分が原発から退避した。
退避せず残った50人の作業員。
実際の数はそれよりもう少し多いらしく、またその後応援の派遣で、
現在は数百人が最悪の事故を防ぐだめに必死で作業をしている。
彼らの努力が日本を救ってくれることを祈ってやまない。
東京電力は大きな会社である。
しかし、その会社の指導的な立場の人達は判断を間違った。
そこまで悪くならないだろうという期待で事態を悪化させた。
この国は不思議な国だ。
昔からそうだが、現場は優秀だがエリートは優秀ではない。
インパールで戦ったイギリス軍の参謀が日本軍をこう評している。
「日本軍は奇妙な軍隊だ。一番愚かな者が参謀肩章をつっている」
ノモンハンでソ連軍を指揮したジューコフも似たようなことを言っている。
「日本兵は素晴らしい。しかし、将校は紋切り型の行動しか出来ない」
インパール、ノモンハン、フクシマ。
この共通は何なのか?
明治以降のこの国はエリート教育に失敗したのかもしれない。
あるいはこの国では真に優秀な者がその能力に応じた地位を得ることが難しい?
まさかこの国では、真に優秀な者よりペーパーテストやパフォーマンスに優れた者が
優秀と見られるのだとは思いたくないのだが...。
東京電力の幹部は事態が悪化したとき、
原発からの全員退避を官邸に申し出たらしい。
それは、なにもかも諦めて核の惨事にこの国を委ねるということであるはずだが、
彼らはなぜそういうことが言えたのだろう?
一方、福島の50人のひとりはその妻に短いメールを送ったという。
「俺は帰らない」
Date: 2011/03/19(土)


公平
公平ということを今回程考えたことはない。
東京電力が計画停電を実施している。
管内を5グループに分け順番に停電させる。
それによって大規模停電を避ける。
予測できない大規模停電の混乱はしばらく前ニューヨークでもあったことである。
その混乱を避けるということは分かる。
しかし、今のやり方は産業に死ねというに等しい。
一日に3時間細切れの停電をされたら、
工場のラインは止まる。
事業所はその間、電子機器の電源を落とし呆然とするしかない。
それでどうやって仕事をするのか?
東京電力に言わせればそれが公平であるらしい。
公平の結果、産業に死を宣告するならば、
どうやって大地震から復興するのか?
産業が動いてこそ、復興は可能なのである。
5グループに分けるのならば、
ひとつのグループはまる一日停電する。しかし、そのあとの四日間は停電しない。
そういうやり方ならば、まだ産業は動くことが出来る。
今のような毎日3時間という細切れの停電では産業は死ぬ。
東京電力は何を考えているのか?
政府はこれ程の重大事をなぜ一民間企業の判断に任せている?
こうすれば公平です?
まるで世間知らずの学生の言うようなことでこの非常時が乗り越えられると思っているのか?
地震と津波は天災だった。
しかし、その後に続く混乱は間違いなく人災である。
Date: 2011/03/17(木)


リビア難民支援
リビアの情勢が深刻です。
苦しんでいる難民に支援の手を差し伸べたいと思います。
この情報は転載フリーのものです。
以下、転載です。



UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、リビアでの政府支持者と反政府支持者の間の衝突が激化する中、 チュニジアとエジプト両政府とともに、リビアから逃れてきた15万人の人々への援助活動を始めました。現在も数千人単位の人々が、チュニジアやエジプトとの国境沿いに続々と押し寄せています。

アントニオ・グテーレス国連難民高等弁務官は、2月28日、次のように懸念を表明しました。
「長年の紛争や避難生活で疲弊している人々は、この緊急事態から逃れるための飛行機や船などの手段をもっていない。特に、(現在リビア政府側として戦っているとされる)外国人傭兵と間違えられやすいアフリカ系の人々は、危険に直面しているのではないか。このような人々が安全な場所に移動できないのではないかと大変心配している。」

チュニジア政府は、約7万5000人が20日以降、リビアから国境を越えて逃れてきたと報告しました。またエジプト政府は、6万9000人が19日以降、逃れてきたと伝えています。

UNHCRはもともとリビアで、8000人の難民(パレスチナ、イラク、スーダン、エリトリア、ソマリア、エチオピア出身)を認定してきました。各国政府の中には、飛行機などを送って自国民の救出活動を始めていますが、依然として、リビアに住むUNHCRに登録している難民が近隣諸国に逃れたことは確認されていません。

UNHCRはリビアから逃れてきた人々を緊急に保護・支援するために、チュニジアに100トン以上の緊急援助物資をすでに届けました。テント2000張やビニールシート2000枚をはじめ、調理器具、水汲み容器、体を横たえるマット、毛布などが含まれます。

グテーレス国連難民高等弁務官は、「リビアから逃れてくるすべての人々が、彼らの出身国に関わらず、差別せずに国境を越えて避難できるように」とアフリカやヨーロッパの近隣諸国に要請しています。

▼詳しくは国連UNHCR協会ホームページへ

http://www.japanforunhcr.org/act/a_africa_libya_01
Date: 2011/03/02(水)


瑞泉寺
順番が逆になったが、日曜日の湘南歌会、午前中は例によって鎌倉を歩いていた。
久し振りに瑞泉寺に行ってみたくなったのだ。
花の寺として有名で、今頃は梅が咲いているだろうし、
水仙はもう終わりかもしれないが、福寿草なども咲いているかもしれない。
ここの和尚に山崎方代はなにかと可愛がってもらった。

  瑞泉寺の和尚がくれし小遣いを確かめおれば雪が降りくる

方代の歌は気取りのないいい歌である。
鎌倉駅から若宮大路を八幡へ歩く。
ふと見ると、なんと桜が咲いている。
若宮大路の桜並木、その一角の桜がほんの少しだが咲いている。
うーん...、狂い咲きなのか温暖化の影響なのか、
桜はやはり三月に咲いてもらった方が気持ちがいい。
せっかくなので八幡で手を合わせ、ここの境内を抜けて雪の下の方に出る。
雪の下のあたりは昔、幕府があったところであり、鎌倉の中心だった。
ここの道を真直ぐ行き、突き当たって左、学校の外縁に沿って右に行き、再び突き当たって左、
そのあと右に入りその道を真直ぐ。途中、頼朝の墓のある白旗神社が左にあり、
荏柄天神の参道を横切り、さらに行くと鎌倉宮。
ここの境内の端を右に横切る感じで細い道に出る。
その道を道なりに辿れば瑞泉寺がある。
この道が瑞泉寺に行くには一番近いし、車の沢山走る道を歩かないですむ。
鎌倉駅から寄り道しないで40分くらいか。
瑞泉寺は境内に入ると左に梅林がある。
思った程咲いていなかったが、満開になると綺麗だろう。
その先をのぼって行くと山門。そこをくぐれば花の寺と言われる瑞泉寺の庭園である。
梅が並び、下には福寿草が黄色い花を並べている。やはり水仙はもう終わったようだ。
梅はみな古木という趣で幹に苔を生やしている。
それにしても梅というのは枝がごつごつとする木である。
瑞泉寺の庭園はその季節季節でいろいろな花が咲く。
もう少しすれば梅が満開となり三椏も咲くだろう。
それが終われば、ツツジ、紫陽花と続く。
谷の中の花の寺は美しい。
庭園を巡って再び山門を潜ったとき、植え込みの中の碑に気がついた。

  手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る

山崎方代の歌だった。
なんだ方代さん、ここにいたのか。そんな気分になる。
天気が良くて気持ちがいい。
方代もこんな天気の日はこの辺をぶらついて歌など作っていたのかもしれない。
来た道を引き返し、八幡の道の並びのちょっと気になっていた蕎麦屋・茶織庵で昼食。
蕎麦は美味かったが、つゆが市販のめんつゆに近い味だったのがちょっと気になったかな...。
そのあとは江ノ電に揺られ海を眺めながら、藤沢の湘南歌会に向かった。
歌会の前にこんなふうに歩き回れるのはなかなか楽しい。
それが楽しいゆえについつい歌会に遅刻してしまい叱られるのである(^^;
Date: 2011/03/02(水)


栗木京子さん
   きつねそば食べて帰らむ立ち喰ひの足並びゐる中へと入りぬ

今日の読売新聞二面の四季欄は栗木京子さんの歌だった。
短歌の世界で幾つもの賞をとられている方であり、
とても立ち食い蕎麦できつねそばを食べている人には見えないが、
立ち食い蕎麦に並んでいる人ではなく足に着目したところが、さすがに栗木さんである。
で、その栗木さんと昨日会っていた。
と書くと、個人的に会っていたようだが、そうではない(^^;
結社の選者派遣で栗木さんが湘南歌会に参加されたのである。
栗木さんはあまり歌会には出ない人であるらしく、
栗木さんと歌会を出来る機会というのは少ないらしい。
ハスキーな声でいい批評をされる。
私が選歌した歌について、下句の比喩はいいとして、
「ミモザの咲く朝の階段をかけのぼる」という上句のいかにも綺麗にまとめたような感じが、
私も気になっていたのだが、
栗木さんは、「風穴を開ける」という言葉でそれを評していた。
うまくまとめてしまわないでずらす、風穴を開ける。
かけのぼるのではなく、けつまづくぐらいなら自分も採ったというような事を仰っていた。
花山多佳子さんも以前、歌会で、
「このままじゃ綺麗だけど、いかにもという歌になっちゃうの。ここで外すの」と仰っていた。
同じような意味であろう。
けつまづくぐらいまでずらしてしまうと、いささか漫画チックになってしまうような気もして、
どうなんだろうという気はするが、言っていることは分かる。
問題はどこまでずらすかなのであろう。
その辺の塩梅が難しい。
歌会の出席者は18人。
栗木さんが来られるということで、いつもよりやや多い出席者になり活発な歌会だった。
歌会終了後、場所を変えて懇親会になったのだが、
懇親会の途中から私の目の前に座られてしばらく話をした。
人の目を正面から見て話をされる方である。
ちなみに酔った勢いで栗木さんに向かい、
「全国大会の歌会は参加者多くて言いたいことが言えず面白くないので出ません」
と言ってしまったのだが、
結社の選者を前にしてこの発言はちょっとまずかっただろうか...(^^;;
ま、笑って聞いていたので、今頃は忘れてくれているだろう(^^
Date: 2011/02/28(月)


不発
20日が締め切りだった結社誌の16首の連作、
締め切り当日の夜、メールで送った。
一夜明けて詠草を読み直してみて、
不発...(^^;
うーん、一夜明けてあらためて見ると瑕があちこちに見える。
連作の歌の配置はこれで良かったのか?
このへんにこういう歌が必要だったんじゃないか?
この歌はもっと違う詠い方が出来たんじゃないか?
ま、しょうがないよね...(^^;;
風炎集の原稿依頼が来て一ヶ月。
限られた時間のなかで少しずつ歌を作っていったのだが、
最初の構想からだんだん外れていくのが自分でも分かった。
最初の構想が自分のなかで連作としてうまく組み立てられず、
無難な歌にだんだん逃げていったわけである。
前回の風炎集に出したのは、私性を出した一連だった。
今回は私性を出さない一連にしたかった。
つくづく思ったのだが、連作のようなものは私性を出した方が作りやすい。
で、締め切り前日に出来上がったのは、
それなりにまとまった無難な連作。
無難ではあるが最初の構想とは全く外れた一連だった。
締め切りの日、歌の半分以上を入れ替えた。
締め切り当日に作った幾つかの歌を加え、
捨てた歌を推敲して再び入れた。
前日までとはまるで違った一連になった。
しかし、最初の構想に近い一連。
結局、それを送った。
前日までの一連の方がそれらしくまとまった連作であることは分かっていたが、
「俺が表現したかったものと違う...」
そう思った。
で、締め切り当日に大幅に変えた一連を送った。
一夜明けて落ち着いて読み直せば瑕が幾つも見えてくる。
しかし、そちらに変えて良かったと思っている。
自分で納得しない詠草を出すのではなく、
未完成でも自分の表現しようとしたものに少しでも近い作品の方を出して良かった。
良かったというか、そうでなければ納得しない気持ちを引き摺ったであろう。

今回つくづく思ったのだが、
連作のようなものは必要最低限の時間がないと作りにくい。
忙しくても、ひとつやふたつの歌がふっと浮かんでくることはあるわけだが、
連作のようなものになると、やはりそれに取り組むある程度まとまった時間が必要である。
父の死とか確定申告で忙しいなどというのは言い訳にしかならないわけで、
確定申告が終わったあたりで、もう少し、歌に取り組む時間がとれるように、
自分の周囲を見直してみたい。
そうしないと時間という物理的な限界に突き当たってしまう。
気持ちは別である。
この一ヶ月、こんなに忙しくて気持ちにゆとりの持てない時に歌が出来るか!と思った
のであるが、終わってみて思うのは、そういうふうに自分を追い詰めなければ、
歌は作れないということである。
優れた歌人は常時そういうふうに自分を追い詰めることが出来るのではないだろうか。
自分を追い詰める。
そのことの重要さをあらためて思った。
いずれにせよ、一ヶ月かかって構想を表現仕切れなかったのは力不足である。
誌面に載ったときは、
「こいつもこの辺が限界か」と思われるのだろうが、
そんなことはどうでもいい。
今回苦しんだことを契機として、
自分の周囲を見直し、もう一度、歌に真向かいたい。
歌に取り組めるよう、自分の生活を考え直したい。
時間という物理的な制約をどうやって解決するか。
それをしなければ、たぶん今まで以上の歌を作ることは出来ないだろうし、
まして評論など書けるはずもない。
もう一度考え直したい。
Date: 2011/02/21(月)


山の仲間
昨年の秋、一ヶ月半に亘って捜索した山岳会の仲間。
警察でのDNA鑑定も終わり本人と確定し、今日、その葬儀に行ってきた。
DNA鑑定は一ヶ月くらいかかるらしく、
鑑定が終わるまでは警察で保管される。
それが終わってはじめて家族のもとに帰れるわけで、
年を越してようやくの葬儀となった。
捜索に従事した山岳会の仲間達も参列した。
この仲間達とかれこれ30年、山を登っている。
その間に2人の仲間を失った。
腰を痛めてから重い荷物を背負えなくなり、
何日もかけて登るような登山は出来なくなった。
日帰り登山か、山小屋泊まりで荷物を軽くするような、
もう、そういう山しか登れない。
それでも山岳会からは離れないでいる。
30年共に登ってきた仲間である。
だから離れられない。
今日の葬儀にも、もう登らなくなった仲間何人かが久し振りにやってきた。
山に登らなくなっても、みな仲間だと思っている。
それにしても、もう山の仲間は失いたくない。
葬儀のあと、場所を変えて捜索の慰労会があったのだが、
確定申告の真っ最中である。残念だが慰労会は欠席した。
Date: 2011/02/19(土)


関野杯
昨日は午前中だけアーチェリーの射場に行きフィールドを回ってきた。
確定申告が始まっているのでなんやかやと忙しく、一日ゆっくり弓を引いていられない。
射場に行くと4月に予定している関野杯についての話があった。
関野杯と言っても私のことではない。
昨年亡くなられた関野晃さん。
コンパウンドの名手でアーチェリーの団体の役員を長くやっておられた。
人柄が良く周囲から慕われていた。
団体の仕事もよくこなされていた方で、
関野さんの抜けたあとの穴は大きく、その団体は今は休眠状態になってしまっている。
その関野さんを追悼して関野杯と冠し、
試合をやろうという話が有志のなかから出ているわけだ。
同時に、休眠してしまった団体に替わり新しい会を立ち上げ、
継続して試合を開催できるようにしたいということらしい。
「らしい」というのは、あまり深入りしないようにしようと思っているので、
「らしい」なのである。
その話を中心になってやっているS氏。
案外気のつく男で、積極的にいろいろな手配もしてくれるいいヤツなのであるが、
おのれの不徳を慮って表面には出ず裏方になろうとしている(^^;
で、なにを言い出すかと思ったら、私に会長をやれと言う。
「なんで俺なんだよ?」
「だって、同じ関野じゃないか」
同姓だからといってなんで会長を引き受けなけりゃならん(^^;;
だいたいもって、なんで深入りしないようにしているかと言えば、
短歌の関係でかなり時間とられるし、
30年付き合っている山岳会もあるし、
首突っ込んでいるNPOももう少し係われるようにしたいと思っている。
このうえさらにアーチェリーの団体の会長なんか出来るわけないじゃん。
彼も自分の会社の経営で忙しいのは分かるし、
おのが不徳を慮るのも分からなくはないが(^^;;;
彼が仕事同様図太くやってくれればいいと思うのである。
それはいいとして...4月ね...。
これからホントに継続して関野杯を4月にやるのかな?
個人的には4月は桃の綺麗な加賀美でアーチェリーをしたいような...。
他の月にならんのかな...(^^
Date: 2011/02/14(月)


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