*--Diary--*


風炎集  2011/02/12(土)
無題  2011/02/11(金)
無料税務相談  2011/02/10(木)
尾崎知子第一歌集『笹鳴り』批評会  2011/02/08(火)
路地  2011/02/07(月)
成年後見  2011/02/05(土)
勝った  2011/02/03(木)
父の死  2011/01/27(木)
オーソドックスな歌  2011/01/25(火)
柴又  2011/01/24(月)


風炎集
所属する結社が毎月出している結社誌に「風炎集」というコーナーがある。
毎月2人が16首の連作を出す。
自由投稿ではなく、編集部が作者を指名する。
先月、その風炎集の出詠依頼が編集部から来た。
受け取ったとき、なんで? と思った。
風炎集は以前にも出詠依頼があり作品を出したことがある。
まだ出したことのない人に依頼してチャンスを与えるべきだと思い断ろうと思ったが、
念のために昨年の結社誌を調べてみた。
そこで初めて気がついた。
風炎集はその年の昇欄者に出詠依頼が来るのである。
作品1から月集への昇欄者と作品2から作品1への昇欄者。
その人達が歌を出している。
結社に入って8年全然知らなかった。
毎月2人で一年24人。
その年の昇欄者が24人に足らないと穴埋めに他の人のところに依頼が来るのだろう。
以前に依頼が来たのはつまりこの穴埋めだったわけである。
ちなみに先月号の風炎集は、
選者の真中朋久さんと昨年の角川短歌賞を受賞した大森静佳さん。
このふたりも穴埋めである。
ふたりともさすがに実力者でいい歌が並んでいる。
真中さんは私とは歌の傾向が違うのだが、
とある日の火事騒ぎから始まって、一連の立て方はやはり上手い。
大森さんも見事である。
ちょっと手慣れたような感じのする歌があるのが気にはなるが、
大学生でこれだけ詠うのは将来恐るべしと言うしかない。
で、仕方なく引き受けたわけだが、
なんでよりによってこんな時に...と思うしかないわけである。
先月、父を送った。
人が死んだときというのはただ葬儀を出せばいいというわけではなく、
しなければならないことが沢山あるのだ。
しかも仕事は確定申告の一番忙しいとき。
毎日遅くまで仕事をしなければ終わらないという時期だ。
さらに2月は今年一年担当することになった誌面時評の担当月。
ふたりで交替に書くわけだが、偶数月は私の担当である。
これだけ重なっているときに2月20日までに毎月の十首出詠のほかに、
さらに16首の連作を出せと...?

出来るわけないだろう!(^^;

うちの結社は俺をつぶしたいのか!? と世界の真ん中で怒りを叫びたくなるわけだが、
そんなこと言っててもしょうがない...。
編集部は千人からいる会員のひとりひとりのプライベートな事情まで
承知しているわけではない。仕方ないか...。
締め切りまであと一週間。
どうにか歌数だけは作ったけど、作った感じを排除できない歌ばかりで、
しかも連作としてまるで構成できない。
連作はテーマの歌だけあればいいわけではなく、
間に入れる地の歌が重要である。
それが全く作れない。
いくらなんでもこんな時に...。
今回の風炎集は勘弁してもらうような歌しか出せないと弱音を吐くしかないわけだが、
「ごちゃごちゃ言うとらんで歌を作る。それだけです」という河野裕子さんの声が
かの世から聞こえてきそうな気がする。
溜息をついて今夜も睡眠時間を3時間に削って歌を作る。
結社のMLに選者や選者級の人のメールもたまに流れるわけだが、
「こんな時間までなにやってんの?」と聞きたくなるような時間にメールを
出していたりする。大抵の歌人は仕事を持ちながら歌を作ったり評論を書いたり、
結社の仕事をしたりするわけで、結局、睡眠時間を削るしかないのであろう。
歌は命を削るね(^^;;
Date: 2011/02/12(土)


無題
友人と話していたら彼の携帯が鳴った。
電話に出てなにやらそっけない返事をしていた彼は、
電話が終わってからフンと鼻で笑って携帯をしまった。
普段礼儀正しい男なのでその様子がちょっと意外だった。
「なにかあったの?」
「30年前の知り合いだ。俺のホームページを見つけたらしい。それで電話してきた。」
「なんか不愉快そうだったけど」
「たいしたことじゃない。若い時にはえてしてあることさ」
そのあとしばらくコーヒーを飲みなから彼の話を聞いた。
30年前のことは彼にとってはもはやどうでもいいことであるらしい。
ただ、何事もなかったように電話してくる相手が彼にはどうも分からないらしい。
「何事もなかったようによく電話してくるよなあ...。そういう気がするだけだよ。
あいつと仲が悪かったのは俺にも原因がある。しかし、あいつは調子に乗った。
調子に乗って限度を越えた。俺は調子に乗って人の悪口言うやつは嫌いだよ」
「会うのか?」
私の問いにしばらく考えてから彼は悪戯っぽく笑って言った。
「俺もあいつもガキだった。俺は大人になろうともがいているガキだったが、
あいつは処世術だけ身につけて大人になった気でいるガキだった。
そういうガキがどういう大人になったか見てみたい気はする」
「そういう気持ちでいるなら会わない方がいいと思うよ」
ま、いろいろあるんだろうから必要以上に言わないわけだが、
そういう皮肉を目の底に潜めて人と会うのはやめた方がいい(^^;
どうも彼にとって相手への評価は既に定まっているらしい。
人はおのれの言動で周囲から評価されるのだから、
それは仕方ないとして、あまり昔のことにごたわるのも考えものではある。
もっとも、人はえてして自分のした事は忘れる。
たぶん彼はそういう人間に違和感を覚えるのであろう。
いずれにせよ、彼と話をしていて一首できた。

  いつまでも人を許せぬ青年と宇治金時を黙々と食う

彼は青年というには年とっているがその辺は文学的修飾である(^^;;



Date: 2011/02/11(金)


無料税務相談
税理士は税理士法で税務支援が義務づけられている。
具体的には高齢者や経済的な事情で税理士を頼めない納税者のために、
確定申告の時期に無料税務相談をするわけである。
それぞれの税理士会や支部で多少違うのだろうが、
私の属する支部では二日間の動員がかかる。
正直言って確定申告の忙しい時期に二日間つぶされるのは結構つらい。
でも、まあ、困っている人のために働いてバチは当たるまいということで、
相談会場に行くわけである。
大抵は年金の申告。
高齢者の方ばかりなので、多少大きな声で説明しないと聞こえなかったり、
「手が震えて書けないんです」という人もいたりする。
そんなこんなで相談を受けていると、
申告書の作成が終わった御老人が帰り際にこう言った。
「ありがとうございました。昨年も先生でした、助かりました。
また来年もよろしくお願いします」
えっ?
無料相談には毎年動員されているが、
正直言って、昨年相談に来た人の顔は覚えていない。
あの老人は一年前に相談を受けた税理士の顔を覚えているのか?
そう言えば、県の税務相談に派遣されたとき、
一年くらいたってから、そのとき相談に来た人が電話をしてきたことがあった。
こちらにとっては大勢の相談者のなかのひとりなわけで、
覚えている方が無理なのだが、
相談者の方は案外覚えているものか。
ちなみに今年の税制改正で年金収入400万以下の人は申告不要という制度が作られる。
あの御老人は来年は申告には来ないのかもしれない。
Date: 2011/02/10(木)


尾崎知子第一歌集『笹鳴り』批評会
東京平日歌会、今日は通常の歌会を早めに終わらせて、
尾崎知子さんの第一歌集『笹鳴り』の批評会である。
情景の立ち上がる良い歌が多い。

  MM(みなとみらい)にトロイの木馬のやうなビルあとからあとから人が出で来る
  海の向く硝子のレストラン音もなくサヨリのようなボーイ寄り来る
  要介護2の判定を貰ふためアキ子さんはたどたどしく答ふ
  粉をひく小屋のドアより出できたる大男なりドアより大きい
  ふと消えた君を探せばひつそりと額あぢさいのまん中にゐた

うちの結社からは花山多佳子、小林幸子、三井修の各選者が出席。
まひる野の今井恵子さん、未来の中川佐和子さん、香蘭の丸山三枝子さんが
パネラーとして参加。
批評会に出る度に思うのだが、私にはああいうパネラーのような話は出来ない。
一冊の歌集を読み、歌を引き、それを分析して浮かび上がってくるものについて話す。
私にはああいう話は出来ない。
私に出来るのは歌会の延長のように、この歌のこういう部分が気になる等、
問題点の指摘という範囲を出ない。
結局、今の自分にはそこまでの力しかないのだと思うしかないわけだが、
どうすれば、ああいう話が出来るようになるだろうか。
で、発言を求められたので、
気になっていた部分について指摘させてもらった。
私が発言する前に同じようなことを花山周子さんが既に指摘していたので、
多くを言う必要はなかったのだが、
文体の問題はやはり気になった。
歌集を開くと、最初の歌の結句「出で来る」、三つ目の歌の結句「寄り来る」、
四つ目「遠ざかりゆく」、五つ目「長くなる」、六つ目が「実を踏む」、八つ目「尖らせて行く」。
いずれも結句が動詞で終わっている。
他にも同じように結句が動詞で終わるものが続くというところが歌集の中に結構ある。
歌集の最初の方というのは重要な部分なのだ。
歌人には、歌集を開いて最初の方の歌が良くないと思えば、
もう終わりまで読まないという人が沢山いるわけで、
歌集というのは、最初の部分で読者を掴まなければならない。
その重要な最初の部分で結句が同じような歌が続いているというのは問題である。
他にも連作の構成が時系列で歌が並んでいるようで、やや単純な傾向があり、
ひとつひとつはいい歌なのに、それらが歌集の瑕になっている。
歌集全体での歌の配置をもう少し考えた方が良かったのではないか?
そういう指摘をした。
私の発言が終わったあとで、
まひる野の今井恵子さんが発言を求めた。
「塔とまひる野では歌会の印象が大分違うという気がします。
先程来の話はみな技術論なんですね。技術論だけで言われては
作者はつらいところがあると思います」
なるほど...、確かにそうであろう。
それは私も自分でコメントしていて気になっているところである。
しかし、そう思う一方、
そういう話はいい歌が作れてからだ、と冷ややかに思っている
もう一人の自分がいるわけである。
もっと深く歌を読み、もっと内容のある批評が出来るようになるためには、
どうしたら良いのか、それが分かれば苦労はしないのだが...(^^;
試行錯誤しながら力をつけていきたい。
最後に花山多佳子さんが、うまくなると同時にナマのものが失われてきている、
という問題を指摘をしたのが印象に残った。
出席者は48人。有意義な歌会だった。
Date: 2011/02/08(火)


路地
2日の水曜は東京平日歌会、
今回は後半に尾崎知子さんの歌集『笹鳴り』の批評会が行われた。
当日は例によって午前中は東京の下町歩き。
もっとも今回はINAXのギャラリーで松浦武四郎の資料展をしているのでそれを見にいく。
松浦武四郎。
幕末の人で、優れたルポライターであり、蝦夷地や樺太を調査した探検家でもある。
若い頃から日本全国を旅していたようで、あるいは放浪癖があったのかもしれない。
場所請負制のもとで過酷な扱いを受けていたアイヌの人々の窮状をルポし、
そのために松前藩から命を狙われたりしたが、
アイヌの人々のために働くことをやめなかった。
明治維新後は北海道開拓使に勤務したが、
開拓使を批判して、職を辞してしまう。
ちなみに「北海道」の名付け親は彼である。
アイヌの人々は自分達のことを「カイ」あるいは「クイ」と言っていた。
アイヌの人々を守ろうとした松浦武四郎は蝦夷地を「北のカイの国」と呼んだ。
それが北海道という名前になった。
銀座のINAXのギャラリーというのは初めてだった。
それ程広くないスペースに、武四郎の書いた絵や書などが展示されている。
絵もなかなか上手い。
蝦夷地や樺太の地図も作成している。
伊能忠敬は海岸線を歩いて地図を作ったが、松浦武四郎は内陸部を歩いて地図をさらに
詳細なものにした。ケバ書きという方法で山を表現しているのが面白い。
いかんせん小さいギャラリーなので、展示されている資料が少なく、ちょっと物足りない。
あまり知られていないが松浦武四郎はもっと注目されていい人物である。
いずれもっと調べて書いてみたいと思っている。
ギャラリーを出て、せっかくなので銀座を歩いてみる。
この辺はあちこちに地下鉄の入り口があるのでテキトーに銀ブラする。
下町歩きは好きなのだが、どうも銀座みたいな洒落たところは似合わない。
だからこの辺はあまり歩いたことがない。
歩いていると「銀座柳通り」という表示があった。
ああ、ここがあの「昔恋しい〜銀座のやなぎ〜」の通りかなと思ってしばらくそこを歩いてみる。
もっとも銀座柳通りというにしては柳の木が小さい。
帰ってから調べてみたら、戦争で焼け、植え直されたが、
その後道路拡張などで再び切られたらしい。
その後再び植えられたのが今の柳のようだ。
歩いていると地下鉄の入り口があったのでそこに入る。
有楽町線。たいして考えもしないで来た電車に乗ったが、
路線図を見ると歌会のある浅草橋方面には行かない。
仕方なく月島で降りる。ここで大江戸線に乗り換えられるはずである。
ついでに月島を歩いてみる。
月島は明治になってから埋め立てられ、最初は小さな工場が沢山あった街である。
月見の岬とかいうものから名前をつけたらしく、
最近のように住宅地を作れば○○が丘とか△△台とか、
そんな名前ばかりつける現代人と違って、明治の人はいい名前をつけた。
月島は昔ながらの路地が多い。
もんじゃ焼きが有名で、通りにはもんじゃの店が軒を並べている。
商店街から左右に伸びている細い路地にも、もんじゃの店がある。
車も入れない細い路地で両側に家が立ち並んでいる。
東京平日歌会に出るようになってから、東京の下町歩きをするようになったのだが、
私の生れたところが、こういう細い路地の街だった。
川沿いでそこだけ周囲より低く、小さな車がやっと通れるくらいの細い路地がくねくねと
続いている一角だった。
小学一年までそこに住んでいた。
下町を歩いていると、自分の生れたその路地の一角を思い出すのである。
月島の路地も、幼い頃に嗅いだ匂いがしてきそうな路地だ。
そういう記憶を呼び覚ますような路地を歩いていると、
懐かしいような嬉しいような寂しいような...、
そういうなんとも言えない気分になる。
しばらくぶらぶらして再び地下鉄に乗り、浅草橋に向かった。
Date: 2011/02/07(月)


成年後見
昨日は税理士会館で成年後見についての会議。
7月から支援センターを立ち上げるということでその打ち合わせである。
成年後見については司法書士が早くから取り組み、
リーガルサポートセンターを設立して積極的に活動している。
行政書士もここ数年積極的に動いているらしい。
税理士会のこの方面への取り組みは遅々として進んでいない。
本来、税理士の顧問先には将来的に成年後見が必要になる人達が沢山いるわけで、
特に任意後見はもっと目を向けられなければおかしいのである。
しかし、どうも税理士会の腰は重い。
今年になってようやく動きが少し活発になってきたというところか。
支援センターという名前からは税理士会としての成年後見への取り組みの中枢を担うような
イメージがあるが、とりあえず7月から立ち上げるセンターの実態は相談室である。
本来、税理士による公益活動サポートセンターというNPOの成年後見部が、
他の司法書士や行政書士が設立しているサポートセンター的役割を果たすべきなのだろうが、
まだまだそこまでいっていない。
で、7月からの支援センターの相談業務。
誰が担当するのかという話である。
成年後見の実務をやったことがある税理士は数えるほどしかいない。
任意後見契約をしている税理士はあるいはそれなりの人数いるのかもしれないが、
任意後見は後見がスタートするまではただ契約しているだけの話で成年後見の実務はしない。
法定後見になると一体何人経験者がいるのか? というぐらいだろう。
それで外部からの相談が出来る人材が揃うのか?
7月からは週二回、一回に2人で月延べ16人の相談員を配置する。
誰がやるのか?(^^;
4月以降、相談員養成のための研修会を開くという打ち合わせなのだが、
相談員を募集します、研修やりますから来てくださいとアナウンスしても、
経験もないのに手を上げる人はいないのではないか?
結局、センター立ち上げに携わっている我々運営委員が動員されることになるのではないか?
まず、家裁や自治体に税理士の後見人推薦者名簿を配り、
後見実務の実績を地道に積み上げていってから、
一般への相談室のようなものは開設すればいいような気がする。
さてさて、7月以降どういうことになるのか?
Date: 2011/02/05(土)


勝った
勝った。
間に一日おいて二日間税務調査の立会い。
初日、調査官の態度に驚いた。
社長に聞く姿勢がまるで警官が犯人を尋問するような口調。
さらに、社長の説明を補足した私に向かって、
「あなたに聞いていません」
なにっ!?
社長が資料を取りに部屋を出たとき調査官に言った。
「調査官、さっきの発言はなんだ? 慎んだらどうだ?
税理士は納税者からの委任を受けて税務代理をしている。
納税者の委任を受けての税理士の発言はすなわち納税者の発言だ。
そういう法制度のもとでは、税理士の発言を聞かないということは
納税者の発言を聞かないということだ。
あなたに聞いていませんとはどういう意味だ?
そして法律以前に、人に向かってその口の利き方は何事だ!」
怒られた調査官、意外にあっさりと「すみませんでした、つい興奮して」と謝る。
なんだ? 演技か? と疑う程にあっさりと謝った。
変わったヤツだな...と内心思いつつ、夕方まで調査に立ち会った。
一日置いて、二日目の立会い。
調査官を待ちながら社長と打ち合わせをする。
社長も一昨日の調査官の態度には腹が立ったようで、
「昨日一日、気分が悪かった」と言う。
「質問検査権に基づく税務調査は、納税者の協力を得て申告内容を調べるものです。
あの調査官は勘違いをしている。まるで警官が犯人を尋問するような言い方だったでしょう。
納税者は協力こそすれ、不愉快な扱いを辛抱する必要はありません。
今日またああいう口の利き方をしたら遠慮なく怒った方がいいです。私も言いますよ」
実際、私も昨日一日、気分が悪かったのである。
「今日、ふざけた言動があったらただではおかん」
そういう気分で待っていると10時ぴったりに調査官が来る。
「今日は幾つか確認だけさせて頂きたいと思います」
あれ? 一昨日と随分態度が違う。
言葉遣いも丁寧で午前中だけ突合せを幾つかやり昼になると、
「問題は特にないのですが、一昨日指摘した部分ですね。そこだけ修正して
頂けないでしょうか。実際、支払っている確認が出来ないわけですから」と言う。
今日は随分ソフト路線である。
ただ、調査官が指摘している内容は、私の中では言いがかりに近いものだった。
確かに支払いの事実を証明するものはないのだが、支払っているのは事実のものなのだ。
「国民は法に基づいて税金を負担する。法に基づかないものは負担しない。
租税法律主義のもとで、疑わしいから課税するという考え方はない」
一昨日のこともあるので、冷やかに答えて、結局それで終わり。
通常なら一日調査してゆくのだが、昼で調査官は帰って行った。
それにしてもあの調査官はなぜあんなに態度が変わったのか?
結局、怒らなければダメということなのだろう。
あの警官が犯人を尋問するような遣り方で、今まで税務調査をやってきたのであろう。
それで済んでしまう調査もあったはずだ。
税理士の立ち会わない納税者と調査官だけの調査なら、
そういう遣り方が罷り通ってしまうだろうし、あるいは税理士が立ち会っても、
戦わない税理士はそういう言動があっても何も言わないのかもしれない。
実際、以前、他の調査で「普通の先生は・・・」という発言をした調査官がいた。
たぶん、その調査官の言う「普通の先生」は、そういうとき何も言わないのだろう。
ちなみに、「普通の先生? 俺は普通じゃないのか? 普通じゃなければ俺はなんだ?」
と怒って調査官を沈黙させるような税理士は「普通の先生」ではないらしい(^^;
あの調査官も今までそういう遣り方で通ってきて、
たまに、そういう遣り方を通してくれない税理士に会うと、
あっさり「すみませんでした」と謝り、調査もさっさと終わらせてしまう。
しかし、それは、そういう遣り方で本来なら払う必要のない税金を払わされた納税者が
いるということであり、
そういう遣り方を見て見ぬふりしている税理士達がいるということである。
自分の同業者のなかに結構そういう者達がいるのであろうと思うと、
なんとも言えない苦いものがある。
法は権利の上に眠る者を救わない。
おのれの権利を守るためには戦わなければならず、戦う者だけがおのれの権利を守る。
これは法治国家の一面である。
税理士も戦わなければならない。
租税正義のために戦ってこそ税理士である。
戦わない税理士には是非バッチを外して頂きたい。
Date: 2011/02/03(木)


父の死
父を送った。
八十四歳。
先々週、呼吸の様子がおかしくなり救急車を呼んだ。
その日の夕方、病院から電話があった。
「明日、御長男の方にお出で頂きたいのですが」
行って容態を聞いた。
延命処置をするかどうかという話だった。
父は機械につなげられてまで生きていたくないと言っていた。
しかし、答えるとき迷った。
本当にそれでいいのか?
父がそういう話をしていたのは2年ぐらい前ではなかったか...。
その後、父の気持ちは変わっただろうか...。
しばらく躊躇ったあと、
「2年くらい前にそういう話をしていました。
私が父からそういう話を聞いたのはそれが最後です」
と答えた。
延命処置はしないことになった。
入院して四日後、父は死んだ。
病院に駆けつけてみると既に穏やかな顔だった。
頬に手を触れてみると温かかった。
父は生前、
「知り合いはもう皆いなくなってしまった。
知らない人に集まってもらって送られてもしょうがない。
葬式は身内だけでやってくれ」
と言っていた。
その言葉に従い、身内だけで送った。
通夜の晩、参列者の少ない斎場で父の遺影を見ながら、
こういう送り方で本当に良かったのだろうかと思った。
人生の最後をどう締めくくるか、父と真剣に話したことはなかった。
延命処置についても葬儀についても、
雑談のように話すことはあっても真剣に話したことはなかった。
いずれ私も人生を終えるときがくる。
人生の最後をどう締めくくるか、子供達にしっかり話しておかなければなるまい。
看取られる者、送られる者、その意思がしっかり伝わっていないと、
看取る者、送る者が迷いを抱くことになる。
棺の中の父はいい顔をしていた。
不思議なくらい皺が消えて、私が少年の頃の父の面影があった。
だいぶ足は弱っていたが、寝たきりになることもなく、父は逝った。
倒れる二日前に自分で風呂に入り、
ゴールデンレトリバーのさくらともしっかりお別れをしたらしい。
庭で父が随分時間をかけてさくらを撫でていたという。
その間、さくらは悲しそうな目で父をじっと見ていたそうで、
窓からそれを見ていた母は不思議な気持ちがしたそうである。
参列者が少ないので、告別式が終わり火葬場に行き、精進落としが終わっても、
まだ1時過ぎぐらいだった。
お骨になった父を家に連れ帰り、線香をあげてもまだ時間が早い、
さて、どうしようかと思った。
家にいるより、どこかに出かけたかった。
湘南歌会の日だったが、歌を出していないのに歌会に出るのも憚られたし、
さすがに葬儀の日に歌会に行くヤツというのも変なヤツだと思った。
アーチェリーの射場に行った。
大抵、3時あたりには皆引き上げるので、誰もいないかもしれないと思ったが、
どういうわけかその日は3時過ぎに行っても大勢残っていた。
何本か矢を射って、あとは焚き火にあたりながら、どうでもいい話ばかりしていた。
父を送ったことは言わなかった。
焚き火にあたり、どうでもいい話ばかりしていた。
人とこういうどうでもいい話が出来るというのは良いことだ。
なんとなく気分が良くなって、そのあと銭湯に行き、父と飲む酒を買って帰った。
Date: 2011/01/27(木)


オーソドックスな歌
東京平日歌会は出席者が順番に詠草を批評してゆく。
私に批評の順番が回ってきたのはいたってオーソドックスな歌だった。
美しい情景に感動し、それを歌にしようとしているのは分かるのだが、
綺麗な歌にしようという気持ちが先にたってしまっているような、そういう印象の歌だった。
歌は綺麗に作ろうと思わない方がいい。
そう思うとえてして言葉だけがいかにも歌らしく並んでしまい、身のある歌にならない。
私は、そういうことに加え、こういうオーソドックスな歌は完成度を高めないと
評価されにくいというコメントをしたのだが、
実は、今年最初の歌会だった横浜歌会でそれに近い話が出ていたのである。
出席者から、「私は正統的な歌を作ってしまうのですが、若い人のような新しい歌の方が
評価されるのではないか? 正統的な歌はあまり評価されないのではないか?
どうなんでしょう?」
質問を正確に覚えているわけではないが、そんなような内容の発言だった。
確かにオーソドックスな歌は類想歌も多いので、
完成度を高めないとなかなか評価されないというところはある。
しかし、若い人の新しい歌なら完成度が低くても評価されるということではあるまい。
おそらくそういう歌は新しい着想・視点・表現、そういうものがあって評価されるわけだが、
オーソドックスだろうが新しい歌だろうが、
常により高い完成度を求めること自体は同じであろう。
そういえば、しばらく前、歌会の仲間と飲みながら、
もっと自然詠を詠まないといけないという話で盛り上がった。
結局、どんな歌であれ、読者に情景を手渡さなければならない。
第三者である読者に、自分の見た情景をまざまざと再現させてみせなければならないわけで、
その情景立ち上げ力が歌を作る上ではかなり重要になるはずだ。
自然詠はまさにそれである。
自分の見た景色を、
絵や写真を使わず31文字の情報だけで第三者の目の前に再現するわけである。
そういうふうに情景を立ち上げる力のある者は人事の歌を詠っても場面をうまく伝える。
情景を立ち上げる力をつけるためには、もっと自然詠を詠うべきだ。
そんな話で盛り上がったのである。
そういう基本の部分の詠う力。それが重要なのであって、
正統的な歌か新しい歌かは、その人の志向の問題であり、
どちらが評価されるという問題ではない気がする。
オーソドックスな歌にはオーソドックスな歌でなければ表現できないものがあり、
そういう歌の良さがある。
完成度の高いオーソドックスな歌を詠いたいものである。
Date: 2011/01/25(火)


柴又
12日の水曜は東京平日歌会。
本来は第一水曜なのだが正月ということで今月は第二水曜。
ウィークデイだが毎月この歌会の日はオフにしている。
歌会は午後からなので、休みを有効に使うべく午前中、柴又に行く。
正月は寅さんです(^^
寅さんといえば正月映画の定番だった。
寅さんを偲んで今年最初の下町歩きは柴又。
もっとも、柴又は下町ではないのだが、その辺はこだわらない(^^;
新橋から地下鉄に乗り、歌会のある浅草橋は素通りし、そのまま京成高砂。
ここでちょっと戸惑う。
一昨年の年末に来たときは同じホームから金町行きの電車が出ていたのだが、
ホームが別の場所に変わっている。
一度、改札を出てその正面にある別の改札から入るようになっている。
金町行きの電車は二両くらいの小さな電車である。
寅さんが家出したときも冴えない田舎の電車だったのであろう。
柴又の駅を出ると駅前に寅さんの銅像があり、やけに人だかりがしている。
たぶん、柴又を歩こうみたいな高齢者の団体であろう、寅さんの銅像のまわりを
黒っぽいおじいちゃんおばあちゃんが取り囲んでいる。
それにしてもなんで日本の高齢者は黒とか焦げ茶とか灰色とか、
地味な服ばかり着るのであろう。
日本人もかなり派手な服を好んだ時代があった。
安土桃山の時代がそれである。
当時の武士達はかなり派手な服を好んだ。
海外交易を重視し新しいものが入ってきた秀吉の時代ということもあろうが、
戦国の男達にとって自己主張は大切なことだったに違いない。
功名をあげ身を立てなければいけないのであって、
そのためには手柄をアピールしなければならない。
目立たなければいけないのである。
そういう姿勢は自然に普段着る服にもあらわれたのであろう、
かなり鮮やかな色の服などが結構流行った。
一方、高度成長時代はみな同じような黒っぽい背広を着ていて、ドブネズミなどと揶揄された。
それぞれの時代を考えると、
高度成長の時代を生きた高齢者の人達が地味系の服を着るのも分かる気はするのだが、
やはり地味だ。個人的にはもっと明るい方がいい。
閑話休題、柴又だった。
そう長くもない参道を歩き帝釈天に入る。
母から頼まれていたお守りのお焚き上げを頼み、本堂の彫刻を見る。
ここの本堂の彫刻はなかなかいい。
ただ、その彫刻を守るために本堂の後ろ半分がガラスで囲われているのが惜しい。
しばらく見て歩いて帝釈天の裏の方に行く。
江戸川の堤防の近くに「寅さん記念館」がある。
以前来たときはここが休みだった。
寅さんの映画の記録とか、当時の映画のセットなどが復元されている。
映画の幾つかのシーンが放映されていたりして、なにやら懐かしくなる。
寅さんの口上はいい。
昔は縁日などで口上巧みなテキヤがいたわけだが、
ああいう口上を聞かなくなって久しい。
江戸川の堤防は工事中だったので、帝釈天の方に戻る。
昼飯は大和屋の天丼。
帝釈天の参道にある店だが、柴又に来ると大抵ここで天丼を食べる。
寅さんの映画の撮影でスタッフの休憩所に使われたという店は、
まさに寅さんの時代そのままである。
ビールと天丼を頼むが、店先で常時天麩羅を揚げているので天丼が出てくるのが早い。
ちょっとタレが甘くて濃い目。いかにも田舎の天丼である。
寅さんの映画のおかげで、柴又を東京の下町のように思っている向きもあるかもしれないが、
矢切の渡しの向こうはもう千葉県。柴又は東京の端っこなのだ。
つまり柴又は田舎なのである。ここの天丼を食べると、しみじみ柴又は田舎だと思う。
別に柴又を田舎だと馬鹿にしているわけではない。
そういう柴又を愛している。
寅さんが鞄を持って入ってきそうな店で天丼を食べ、
平日歌会の土産に柴又の煎餅を買って浅草橋に向かう。
昼になって参道にもだいぶ人が増えた。
Date: 2011/01/24(月)


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