*--Diary--*


正倉院展  2010/11/08(月)
捜索2  2010/11/04(木)
捜索  2010/10/28(木)
河野裕子さんを偲ぶ会  2010/10/19(火)
遭難  2010/10/18(月)
間引き菜  2010/10/12(火)
東京平日歌会  2010/10/09(土)
深川  2010/10/08(金)
ノーベル賞  2010/10/07(木)
横浜歌会  2010/10/04(月)


正倉院展
文化祭の代休で子供が平日休みになるのを利用して正倉院展を見に行って来た。
年に一度、正倉院の御物を奈良国立博物館で展示するわけだが、
会期中は相当に混むらしい。
朝早く横浜を出て例によって東名をひた走る。
途中から伊勢湾岸、東名阪と乗り継いで奈良へ。
もう少し早く着けるつもりだったのだが、高速を出てから案外手間取ってしまい、
奈良に着いたのは10時過ぎ。
朝一で正倉院展の行列に並ぶつもりだったのだが、ちょっと遅れてしまった。
駐車場も混んでいたが幸い転害門近くのコインパークが一台だけ空いていて、
すぐに入れられた。
見ているとぞろぞろぞろと奈良公園の方に人がゆく。
これは混んでいるなと思って行ってみると、
「ただいまの待ち時間90分」という看板が出ている。
混んでいるのは覚悟の上なのでおとなしく行列の最後尾に付く。
長蛇の列というやつだが、案外うねうねと進んでゆく。
以前、上野に阿修羅展を見に行ったときは修行のごとく待ったものだが、
結局、長蛇の割りにはスムーズに進み1時間かからずに中に入ることが出来た。
幾つか見たいものがあるのだが、
ひとつは螺鈿紫壇五弦琵琶。
聖武天皇の遺愛品で、五弦の琵琶で現存するものとしては世界最古のものであるらしい。
今から1300年くらい前のものか。
正倉院展はその年によって展示物が変わるわけで、
この琵琶が展示されるのは19年振り、まさに今回の目玉である。
会場に入るとあらたな行列があり、
螺鈿紫壇五弦琵琶を最前列から見るための行列だという。
ま、最前列から見なくてもいいのでその行列には並ばず適当に見て歩く。
別に図々しく割り込んで見ようとしているわけではないのだが、
なんとなく人と人の間から展示物は見える。
五色龍歯という薬が展示されていたが、ひと目見てナウマン像の歯の化石と分かる。
昔は化石も薬として珍重されたのである。
そのうち歩いていると娘があっちが空いているよと言う。
それにつられて行ってみると、螺鈿紫壇五弦琵琶があった。
しかも最前列。
なんで空いてたの? と思うのだが、
くだんの行列は、五弦の琵琶に近づくと琵琶の入っている陳列ケースを取り囲むように
人が動いて行列が崩れ、その崩れたところに何気なく行ってみたら五弦の琵琶があった
ということである。結局、まったく行列もせず、今回の目玉の五弦の琵琶を最前列から
しっかり見ることが出来た。
念の為に書くがみっともない割り込みなどこれっぽっちもしていないのだ(^^;
「あの行列なんだったの? 意味ないじゃん」と娘が言っていた。
当の螺鈿紫壇五弦琵琶は美しい琵琶である。
これが1300年近く経っているのかと思うほど保存状態も良い。
ちなみにネットで画像を探してみた↓
  http://www.eonet.ne.jp/~suwasekai/nanfu-gazou.htm
そのあとも伎楽面などもろもろの宝物を見る。
一度は見たいと思っていた正倉院展。
平日でもかなりの人出だったが、
思ったほどに時間もかからず展示物もしっかり見ることが出来た。
天平の雰囲気を味わい、12時過ぎには外に出、東大寺に向かった。
Date: 2010/11/08(月)


捜索2
奥多摩での仲間の遭難、捜索が続いている。
既に遭難して一月経過し、生還の望みはないわけだが、
本人も家族のもとに還りたいだろう、家族も遺体であっても還ってきて欲しいだろう。
山岳会の仲間で休日の度に捜索している。
祝日の昨日は、惣岳山から小河内峠の北側斜面を捜索した。
ここには水久保沢が入っているのだが、
稜線の登山道には二箇所ほど北側斜面がかなりの急勾配で切れ落ちているところがあり、
ここで転落すればかなり下まで落ちるだろう。
2チームに別れ、その二箇所をザイルで懸垂下降して調べる。
私のチームの担当したところは、稜線から懸垂する支点が見当たらず、
仕方なく急な斜面を細い木につかまりずり落ちるようにして、
もう少し下の支点に使えそうな木まで降り、そこからザイルで懸垂下降したのだが、
捜索する我々の方が転落しそうな際どいところだった。
かなりの急斜面でそのあとも連続懸垂で180m降りたところで、
水源林を横断している巡視路にぶつかった。
我々が降りているのは水久保沢の支沢が尾根に突き上げているところであり、
巡視路が横断しているところには木の橋がかかっていた。
仮にこの斜面を転落したら、登り返すのは無理である。
下に行ったとしても橋には気がつくはずだ。
そうするとこの下には行っていない?
それでも念の為にさらに沢を下にくだる。
結構下ったなと思うところで本谷に合流し、
その少し下で二本目の巡視路が沢を横断していた。
これ以上、下に行っている可能性は薄いと判断し、
巡視路を歩いて小河内峠に出、その日の捜索を終えた。
結局、今回も手掛かりはない。
疲労が溜まっていくのが分かる。
どこかで捜索の幕引きをしなければならない。
遭難者のことをあまり知らない新しい会員も捜索に従事している。
いつまでも彼等に捜索させるのも可哀想だし、
捜索が尾根から沢に移れば、今日の捜索のように今までよりも捜索の危険も増してくる。
そんなことを考えながら紅葉が美しくなった尾根を下山した。
今度の週末も仲間達は捜索に入る。
私は子供と金・土で奈良に正倉院展を見に行く予定になっている。
以前からの予定で子供も楽しみにしているので、土曜は捜索を勘弁してもらい、
土曜の夜に奈良から帰り、日曜の早朝、再び奥多摩に入る。
日曜は横浜歌会なのだが、そちらは今回は出席できない。
しばらくはこんな生活が続く。
Date: 2010/11/04(木)


捜索
奥多摩での遭難の捜索が続いている。
事故発生から既に一月近く経過して残念ながら警察の捜索は打ち切られたらしい。
週末の度に現地に入り捜索するわけだが、疲労がたまってくるのが分かる。
若い頃は週末の度に山に行っていても疲れなかった。
もちろん年のせいもあるのだろうが、
たぶん、それだけではない。
メンタルな部分が大きいのである。
自分で登りたい山に行ったときは、登り終えたときの達成感がある。
下山して体は疲れていても充足感があるわけである。
遭難の捜索で成果がないままに一日を終えて下山したときにあるのは、
まだ見つからない、一体どこにいるんだ?という焦燥感と徒労感である。
これが疲労を濃くしている。
疲労しているのは家族にも分かるわけで、
なぜ、そうまでして探しに行くのかと聞かれる。
「仲間だからだ」
そう答えても、山に登らない家族には分かりにくいようだ。
Date: 2010/10/28(木)


河野裕子さんを偲ぶ会
17日の日曜、グランドプリンスホテル京都で「河野裕子を偲ぶ会」が行われた。
戦後の短歌に新しい風を吹き込み、現代女流歌人の代表と言って過言でない人であった。
今年の8月に亡くなられ、新聞の歌壇などでは河野裕子さんへの挽歌があふれている。
癌の再発、64歳というのは早すぎる死だった。
同じ短歌結社で何度か先生の話は聞かせて頂いたが、直接話したことはない。
結社誌の秀歌欄である「百葉集」と「新樹集」に何度か私の歌を採ってくださった。
一度は御挨拶したいと思っていたが、結局、一度も御挨拶できなかった。
他の人のように全国大会の時などに選者の前にしゃしゃり出て、○○です、よろしく、と
挨拶するのは、なにやら歌人にふさわしくない底の浅い自己顕示のようで、私は好まない。
結社の中で無理して顔を覚えてもらおうという気はないので、
自分から進んで挨拶して回るようなことはしなかったし、今後もしないだろう。
ただ、河野裕子さんに挨拶出来なかったことだけは悔やんでいる。
河野裕子さんに選歌して頂いたということは、考えてみたらとても幸せなことなのである。
河野裕子さんが御存命のときそれに気がつかなかった。
お亡くなりになってから気がついた。
河野裕子さんが評価してくれたということが励みになっていたのだ。

折りも折り、山岳会で遭難が起き、その捜索に入らなければならなかった。
正直、どうしようかと悩んだ。
捜索が進むにつれて、
事故発生から既に半月経過しており、生存の可能性がかなり低いことが分かった。
生存の可能性があるなら当然そちらを優先しなければならない。
しかし、それがかなり低い...。
しかし、たとえ可能性が低くても、やはりどうなんだ...。
幸い、週末はかなりのメンバーが捜索に集まることが出来た。
それで、結局、悩んだ末に、土曜日に捜索に参加しその夜に帰宅、
翌早朝、京都に向かうことにした。
それでも引き摺るものはあった。
その一方で、どうしても河野裕子さんにお別れをしたかった。

当日の会場は1100人の出席者で溢れていた。
河野裕子さんの大きな写真と花が飾られていた。
著名な歌人何人かが弔辞を述べ、
皇后陛下から贈られた歌が披露された。

 いち人の大き不在か俳壇歌壇に河野裕子を偲ぶ歌

少し破調である。陛下に歌の御進講をしている岡井隆が、
「私が目を通していたら、また違ったんでしょうが...」と飄々と語っていた。
ちなみに新聞などでは「いち人の多き不在か」となっているが、
おそらく「大き」であろう。
岡井隆の話では皇后陛下は、
「新聞の歌壇に河野裕子さんの挽歌が沢山出ています。今まで、ひとりの歌人が亡くなって
そういうことがあったでしょうか、社会現象になっているのではないでしょうか」
と仰っていたという。
河野裕子さんはテレビのNHK歌壇にも3年ほど出ておられたのでその関係だろうか、
NHKが編集したという特別ビデオが会場に流された。
加賀美アナウンサーはこの収録のために喪服を着てスタジオに入ったということである。
出席者全員が献花をして河野裕子さんとお別れをした。
その後の講演も終わり、皆が会場を出るとき、
人の少なくなった会場で正面の写真の前にもう一度行ってみた。
いい顔をしておられる。
可愛い顔である。
いい加減な歌を作ったら、河野裕子さんに叱られる。
先生の写真の前に立ったとき、そう思った。
先生の最後の歌

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

亡くなられる前日に夫である永田和宏さんが口述を書き取ったという。
最後まで歌を作り、言葉と格闘し、歌とともに生きた。
あらためてその存在の大きさを思った。
好きだったコスモスの花を供えられ、先生はいい顔をしておられた。
Date: 2010/10/19(火)


遭難
所属している山岳会のメンバーが遭難した。
単独で奥多摩に入山、御前山の避難小屋にベースを置いて、
周囲を歩く予定だったらしい。
先月の末から入山し、10月8日に下山予定だったが、
13日になって下山していないと家族から会に連絡があった。
予定を5日も過ぎての連絡だが、
あるいは今までも山の中で居心地がいいと予定を延長したりしたことがあったのかもしれない。
丁度、他の山に向かう予定だった数人が連絡を受けて直ちに現場に向かい、
避難小屋に行ってみた。
ボッカした荷物が置いてあり、食料は一泊分ぐらいしか使っていなかった。
状況からして入山して日を置かずに何かあったということである。
すると遭難して既に半月近く経っていることになる...。
傍らの鍋にカレーが作ってあり、それが腐っていたとのことなので、
夕飯の支度をして外に出たと思われる。
ならばそれ程遠くには行っていないはず。
登山道からの滑落、あるいは道迷い、高齢の人なのでなんらかの体調上の問題?
先週の木曜から会のメンバーで手分けして捜索したのだが、なんの手掛かりもない。
私も土曜日、大ダワから尾根伝いに御前山方面に登り、
尾根の途中から南に伸びている登山道のない中尾根に入ってみたが、
最近人が歩いた形跡はなかった。
その後、登り返して御前山の避難小屋に行ってみると、丁度、警察の捜索隊が来ていて、
周囲の状況や荷物を調べていた。
警察犬も来ていたが、全く匂いに反応しないという。
既に半月経っており、その後他の登山者も大勢歩いているし、雨も降っている。
匂いは消えてしまったのだろう。
「別件で2名遭難しているんです。そちらは遭難して今日で5日、まだ生きているかも
しれない。こちらは半月経っているんですよね...。我々としても人数限られているので、
生きているかもしれない方に人数を重点的に配分せざるを得ないんです」
そう苦しそうに言っていた。
捜索に感謝して下山した。
当分の間、週末の度に捜索隊を出すことになる。
今までの捜索では稜線上にはいない。
尾根から落ちて怪我をした場合、上に登れないと思えば下に降り林道に出ようとするだろう。
沢に入り、そのまま動けなくなったという可能性もある。
落ちる可能性のありそうな谷をひとつひとつ捜索してつぶしてゆく、そういう作業が必要だろう。
遭難者の生存率は時間の経過とともに加速度的に低くなるわけだが、
仮に亡くなられているとしても、探して家族のもとに還してやらねばならない。
山の仲間の務めである。
Date: 2010/10/18(月)


間引き菜
通っているアーチェリーの射場、コースの途中の山の中に小さな畑があり、
近くの幼稚園の子供達のためにサツマイモや大根を作っている。
収穫の季節になると子供達が山を登ってきて、
サツマイモを掘ったり、大根を抜いたりするわけである。
子供達が採り終わると、あとは御自由にということで、
冬になるとアーチェリーをしながらコースを回り、最後にこの畑で大根を抜き、
弓と一緒に担いでおりてくるのである。
ここの大根は大きくてなかなか旨い。
先日、コースを回っていたら、ちょうど大根の間引きをしていた。
種を撒き芽が出て、大きくなるにつれて間隔をあけるために何回か間引きをする。
それなら最初から間隔をあけて種を撒けばいいのではないかとも思うが、
不思議なもので若い芽のうちは多少密集している方が育ちがいいそうである。
畦に積んであった間引きの大根、「大根」の部分はまだ貧弱な根でしかないが、
葉っぱの部分は充分に食べられる。
皆で袋に入れて持って帰ってきた。
スーパーなどでは間引き菜などはあまり売っていないだろうが、
これがなかなか美味しいのである。
湯がいてからシラスと一緒に油で炒めると、酒のつまみにもなるし、おかずにもなる。
その日の酒のつまみで大部分食べてしまい、残ったものは今朝の味噌汁に使った。これも旨い。
間引きして捨てられる野菜もこうやって美味しく食べられる。
農家では当然食べているのだろうが、
農業に法人も参入できるようになり、
大規模化したところでは間引き菜も当然かなり出るはずで、
食べきれないのは捨てるのであろうか?
再び土に還って養分になるのだろうが、
間引き菜がこんなに美味しいのだということを知ると、なにやら勿体無い気もしてくる。
Date: 2010/10/12(火)


東京平日歌会
東京平日歌会、いい歌があった。
例によってここには出せないのだが、
投げやすい鍔のある灰皿を会議室に並べる、
そんな意味の歌である。
たまに見かける銀色の安っぽい灰皿。
ひっくり返すとUFOみたいな形をしていて、
確かに、鍔の部分を持って手首のスナップを効かせて投げると良く飛びそうである。
灰皿を見て「投げやすそうだ」と感じること自体がひとつの発見であり斬新。
で、その灰皿を会議室に並べる。
それ以上のことは何も言っていないのだが、
私はその歌を読んだとき、
会議でぐだぐだと内容のない話ばかりして結論を出せない上司に向かって、
この灰皿を投げつけてやりたいと思っている作中主体を思い浮かべた。
小池光の有名な歌がある。

  佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず

小池光は高校の教師である。
まさか佐野朋子という生徒は実在はしていなかったのだろうが、
作中主体が教師として感じている日々のストレスがユーモアとともに立ち上がってくる。
この小池光の歌に似たものを私は感じたわけである。
職場で日々の仕事をこなしていく作中主体。
会議の準備で灰皿を並べているとき、
ふと、この灰皿あいつにぶつけてやりたい、と思う。
別に怖い話でも奇妙な話でもない。
日常のなかで多くの人が当たり前に抱いているストレスあるいは小さな不満。
そういうものが立ち上がってくる。
だから「会議室」でなければならないのである。
これが「喫煙室」だったら、灰皿が投げやすそうだという発見だけの歌になってしまう。
「会議室」だから立ち上がるものがあるわけである。
面白い歌だった。
難を言えば下句。
下句になにかしらひっかかりを感じて、あるいは微妙な破調のせいかと思ったのだが、
あらためて読んでみると、
上句と下句でリズムが微妙にずれるのである。
これが歌会のときに感じた微妙なひっかかりの原因だったわけだが、
これは仕方ないのかな...。
歌会であまり歌を褒めない方なのだが、
この歌はいい歌だった。
Date: 2010/10/09(土)


深川
毎月第一水曜は東京平日歌会。
ウィークデイであるがこの日だけは仕事を休みにさせてもらっている。
歌会は午後からなので、午前中は東京の下町を歩いたり、
上野あたりで展覧会を見たりすることにしている。
東京平日歌会はそういう楽しみ方が出来る。
今回は深川を歩いてきた。
本所・深川のあたりが江戸の市街地として発展するのは明暦の大火以降である。
それ以前から海沿いの湿地だった深川の開拓はおこなわれていたのだが、
明暦の大火で、江戸の市中に火除け地を作ったりする都市計画がおこなわれ、
それに伴い郊外が開発された。
隅田川に両国橋が架けられたことで交通も便利になったのであろう、大名の屋敷なども
結構作られたが、基本的には町人の町であった。
幕末の勝海舟も深川に生まれ、その後は本所に住んでいる。
新橋から地下鉄を乗り継いで門前仲町、駅を出るとそこがもう深川不動の参道である。
そう長くもない参道を歩いて深川不動に入る。
本堂の新築とかで工事中なのがいささか不粋ではある。
賽銭箱の前で手を合わせると奥の方に本尊である不動明王が見える。
右手に剣を持ち、背には火焔を負っている。
以前、どこだっただろう、山を歩いていて野の石仏に不動明王があった。
やはり右手に剣を持ち、背の火焔は色が失せていたが、
石の具合から火焔であることが見てとれた。
その不動明王は風化のためか穏やかな顔に見えたが、
こちらの不動明王はちと遠いのでどういう顔をしているか分からない。
基本的に不動明王はあまり穏やかな顔はしていない。
深川不動を出て左、金木犀の香る道を少し行くと富岡八幡がある。ここにも立ち寄る。
少し早い七五三の家族がいる。
すぐそばの深川不動と富岡八幡であるが建物の感じは結構違う。
深川不動は日本らしい渋さがあるが富岡八幡の本堂は割りと鮮やかである。
なぜこういう違いがあるのかは分からぬ。
ここは相撲取りと縁があるらしく歴代横綱の碑などがある。ここから北の方に向かう。
道は知らないのだが適当に歩けば清澄公園の方に出られるはずである。
街並みは割りと普通で、上野や浅草あたりの東京の下町らしい風情はあまりない。
この辺は第二次大戦の空襲で殆ど燃えてしまったところなので、
昔の雰囲気はあまり残っていないのかもしれない。
かって深川芸者が歩いていた下町を想像するのは難しい。
清澄公園は池を囲んだ回遊式の庭園で、
以前からあったものを岩崎弥太郎が社員のために整備したものらしい。
しかし、行ってみると北側からしか入れない。南側には入り口がなく、
フェンスの向こうに池が見えるが回りこんでまで入ろうという気にもならず、
そのまま清澄通りを北に歩く。
この清澄公園と通りに挟まれたところにある建物がなにやらレトロで面白い。
ここから深川江戸資料館の方に行く。江戸の雰囲気を伝える小さな資料館である。
行ってみると外人さんが沢山いる。聞こえてくるのは英語だが、
英語圏の観光客は大声で話したりせず、大勢いても割りと静かである。
館内の江戸の朝なのか夕暮れなのか分からぬ展示を見て、さて昼飯である。
深川といえば深川丼。
かなり前食べたのだが、それは浅蜊の炊き込みご飯だった。
でもどうなのだろう?
深川丼の始まりは炊き込みだったのだろうか?
昔、深川あたりの漁師が仕事の合間に食べたのが深川丼の始まりらしいが、
炊き込みではなく、浅蜊の味噌汁を持ってきた御飯にぶっかけ掻きこんだのではないか?
つまり、猫飯である。
深川丼とはつまり浅蜊と葱の味噌汁の猫飯ではないのか?
以前からそういう疑問を持っていた。
で、この深川江戸資料館のすぐ前に「深川宿」という深川めしで有名な店がある。
そこに入ってみた。
中に入ると下町歩きらしい高齢者の団体が入っていて満席。
一人と告げると相席で奥の方に座らせてくれた。
テーブルのおばあちゃん二人に挨拶してビールと深川めしを注文。
「深川丼」といったり「深川めし」といったり、
その店その店での言い方の違いで厳密に区別されていないらしいが、
とりあえず「深川宿」では浅蜊の味噌汁をぶっかけたのが「深川めし」となっていたので、
そちらを注文。
しばらくビールを飲んでいて出てきたのは、確かに浅蜊と葱の味噌汁?のかかった飯...。
味噌汁が随分濃い? そういう気がした。
食べてみると案の定。
なにやら甘くて味が濃い。
...。
深川丼の始まりが浅蜊と葱の味噌汁の猫飯だとすると、
江戸っ子はこんなに味が濃くて甘い味噌汁を飲んだのか?
もっと江戸好みの味があるだろう。もっとさっぱりしとらんか?
結局、観光客向けに作るからこうなるのだろう。
確かに猫飯ではパッとしない。
冷えれば米粒はふやけるし旨くあるまい。
しかし、暖かい浅蜊と葱の味噌汁をぶっかけたのが深川丼なら、
堂々とそういうものを出したらいいのだ。
「すぐに掻きこんでください、それが江戸っ子の食い方です。冷えたら美味しくありませんから」
そう言えばいいのではないか?
なにやら釈然としないものを食った気分で店の外に出る。
ま、昼飯で腹を立てていてもしょうがない。今日は歌会である。
ここから森下まで歩いてそこから地下鉄に乗るつもりだったが時間が余った。
隅田川沿いに両国まで歩く。
両国橋を渡れば歌会の会場である。
Date: 2010/10/08(金)


ノーベル賞
日本人がノーベル化学賞を受賞した。
嬉しいニュースだ。
その受賞者のひとりが記者会見で日本の受験競争を「若者の訓練に貢献する」と評価した。
もちろん、受賞者が受験したのはかなり前である。
少なくとも「ゆとり教育」の時代ではない。
この国には一億三千万の人が住んでいる。
国土は狭く資源はない。
そういう国で一億三千万人が食っていくためには高度な産業が必要なのであり、
優れた科学技術が求められるわけである。
そういう部分への投資なくしてこの国の未来はない。
当然、人も育てなければいけない。
ところがその国で学力低下が起こっている。
「ゆとり教育」の結果はあるいは子供達の二極化かもしれない。
授業時間が少なくなり、学校の勉強だけでは受験に必要なところをカバーできなくなった。
子供が中学生のとき、先生との面談で、
「学校の勉強だけでは高校に進学できません。受験の範囲を全部は教えられませんから」
と言われたときは驚いた。
だから塾に行けというわけだが、
経済的事情で塾に行けない生徒はどうなる?
そういう子供達から未来を奪うのか?
誰が「ゆとり教育」などということを考えたのだろう?
他を圧倒する技術力を持たなければやっていけない国で、
円周率は3だと教えれば充分だと言い出したのは誰だ?
産業界ではしばらく前から、
「ゆとり教育を受けてきた新入社員には使えないのが多い」という話があった。
「ゆとり教育」の見直しが始まり、授業時間も増えることになったが、影響は当分残るだろう。
「ゆとり教育」を唱えた者達はゆとりのある時代を生きられたかもしれないが、
国際的な競争相手があらゆる分野で増えた現代、
これからの子供達は彼等よりも厳しい時代を生きなければならないのだ。
はやぶさの帰還、ノーベル賞の受賞。
科学と技術の大切さを多くの人があらためて認識できたことは、この国にとって良い事だった。
「ゆとり教育」とか「2位じゃいけないんですか?」とかいう、
国を滅ぼしたいのかと疑いたくなるような言説が、
二度と出てこないことを祈りたい。
Date: 2010/10/07(木)


横浜歌会
昨日は横浜歌会。
ちょっと面白い歌があった。
例によって発表前なので、ここには出せないが、
電話の局番を間違えたばかりに桜森の妖術使いと朝飯を食べている、
そんな歌意の歌である。
昨日は題詠と自由詠、詠草ふたつ提出で題詠の方を中心にやっていたので、
時間の関係でこの歌については批評出来なかったのだが、
歌会後のお茶の席で、ちょっと話題になった。
ある人がこの歌について、
「結婚の相手を間違えて、妖術使いのような人と朝食を食べている」
そんな意味かと思ったと言う。
ま、無理すればそう読めないこともないけど...(^^;
そうだとしたらなにやら笑える歌になってしまい、むしろ歌がつまらなくなる。
歌は無理して意味を求めようとしなくていいと思うわけである。
この歌は、童話や物語のような何かしら不思議な世界、それを表現したものとして
そのまま読めばいいのではないか、私はそう思った。
不思議で意味が分かりにくい、そういう歌としてそのまま鑑賞すればよく、
むしろその方が不思議な世界に思いを馳せることが出来る。
そういう歌だと思った。
そのうえで問題点を挙げるならば、
「桜森」という意味のありそうな言葉を持ってきて、
それに続けてさらに「妖術使い」というのは、言葉同士を相殺させてしまう気がする。
「妖術使い」を生かすのなら「桜森」ではなく他の言葉の方がいいのではないか。
「桜森」を生かすのならば「妖術使い」を変える。どうだろう?
他の人は「桜森」というのは先日亡くなられた河野裕子さんの歌集を踏まえているのでは
ないかとも言っていたが、それはないだろう。
それを踏まえた挽歌という歌ではない。
部分的な言葉にとらわれ過ぎた解釈だと思う。
ところで、「妖術使い」というと、男のイメージだろうか、女のイメージだろうか?
アラジンと魔法のランプではないが、
そういう世界を思い浮かべるならば男のイメージである。
中世ヨーロッパのような世界を思い浮かべると魔女、女のイメージ。
ただ、「桜森」なので和風、男・女どっちだろう。
その辺が不明確なのも歌の弱点ととるか、
読者それぞれに空想を広げられるところととるか、微妙である。どうなのだろう?
ちなみに、「結婚の相手を間違えて・・・」という読みを披露した方は女性である。
彼女は妖術使いを男のイメージで読んだのだろうか、女のイメージで読んだのだろうか。
そこまでは聞かなかったのだが、男のイメージで読んだのなら、
あるいは面白いというよりシリアスな読みだったのかもしれぬ(^^;;
Date: 2010/10/04(月)


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