*--Diary--*


タイ 微笑みの国のぼったくり野郎たち  2013/04/05(金)
タイ アユタヤ2  2013/04/04(木)
タイ アユタヤ  2013/04/02(火)
タイ バンコク3  2013/04/01(月)
タイ バンコク2  2013/03/30(土)
タイ バンコク  2013/03/28(木)
誕生日  2013/03/19(火)
河津桜  2013/03/18(月)
無題  2013/03/12(火)
震災から2年 大川小学校  2013/03/11(月)


タイ 微笑みの国のぼったくり野郎たち
バンコクに戻る車中、体の具合が少し変だった。
疲れが出たのかだるくて日陰に座っているのに額のあたりがなにやら火照っている。
日差しの強い遺跡を歩き回って、あるいは少し熱中症っぽい感じ?
水分不足かもしれないのでペットボトルの水をがぶがふと飲む。
フアランポーンの駅についても、やはり疲れが消えないので子供達と相談して、
とりあえずホテルに帰って休むことにした。
ホントは前もって調べてあったレストランに行って食事をしてからホテルに帰るつもりで
いたのだが、仕方ない。駅からタクシーに乗り、ホテルへ。
ホテル名を言っても分からないかもしれないので、
ナショナルスタジアムステーションの近くだと言う。
ところがこのタクシーの運ちゃん、他の場所と勘違いしていたらしく、
途中で車を停めて他のタクシーの運転手に聞いたりしている。
なんでも似たような名前のホテルがあるのである。
だから、ナショナルスタジアムステーションの近くだと言っているのだが...。
疲れているのでいささか苛立って、
「そっちじゃないよ。ナショナルスタジアムステーションの近くのホテルだ!」
と日本語で怒鳴る。
「OK、OK」とか言いながら走り出す。一応、メーターを使っている。
しかし、昨日今日走ってない道をゆく。高速道路みたいなところを走って都心の方へ。
どうも変なので途中で低い声で、
「Where am I?」と聞くと、
小さな声で「ヒダリ ヒダリ」と言って左を指差し左に曲がる。
しばらく直進を続けるので再び低い声で聞く。
「Where are you going?」
するとまた小さな声で「ヒダリ ヒダリ」と言って左を指差し左に曲がる。
つまり、フアランポーンから北へ行けばいいものを一度東にゆき北上し、それで西にゆく。
メーターを使っているので、ぼったくるためにはぐるりと大回りをしなければならない
のである。くだんの運転手、決して悪人の顔をしていない。小柄な男で自分の口を指差し、
「ニホンゴ スコシ ハナセナイ」とか言う。
ここはどこだ、どこへ行くとか聞かれて、大回りしていることに気付かれたと思った
のだろう。あそこは〇△ホテルだとか一生懸命説明してくれる。
変なところに連れて行こうというわけではなく、少しでも稼ぐために大回りしている
のだと分かって、なにやら逆におかしくなってしまった。
大回りしているうちに、タクシーの冷房のおかげで軽い熱中症のような症状だったのが
消えて元気が出てきた。元気になったので最初の予定通りレストランで食事をすることに。
ちょうどセヤムステーションに差し掛かったので、そこでおろしてもらう。
メーターは91バーツ。稼ぐために一生懸命大回りしたのである。
40〜50バーツのぼったくりも彼等にとっては貴重な金なのだろう。
サンキュー、おまえが大回りしてくれたおかげで体がクールダウンして元気になった。
100バーツ札を出して9バーツはチップにくれてやる。
大回りしていることに気付いてなおチップをくれた日本人に、小柄なぼったくり運ちゃん
はタイ式に両手を合わせ、今までの運転手の中で一番丁寧に挨拶をした。
調べてあったレストランはセヤムの隣り駅のあたり、歩いてゆける。
なんでも地上17階のテラスからバンコクの夜景を眺めて食事が出来るとかで、
娘が調べて楽しみにしていたのだ。
行ってみると、高そうなところである。
予約をしていないが入れるかと聞くと大丈夫だった。
期待していたテラス席に案内される。
なるほど夜景が綺麗だ。
100万ドルとはいかないが100万バーツぐらいの夜景ではある。
まずはビール。
明日は昼過ぎの飛行機で帰国する。短い二泊三日のタイ旅行最後の夜。
それにしても、ぼったくられる国である。
バンコクのタクシーの運転手は倍くらいぼったくるのは当たり前みたいだし、
アユタヤのトゥクトゥクはうっかりして相場の3倍でOKしてしまった。
エレファントヴィレッジの可愛い女の子はつぶらな瞳で相場の倍ふっかけてきた。
ただ、正直あまり腹がたたない。
タクシーの運転手に100バーツぼったくられても300円である。
その金が彼等には貴重なのかもしれず、目くじら立てる気にならない。
アユタヤのトゥクトゥクと象乗りにしても、帰国してから調べたら、
我々が行ったのと全く同じコース、ローカル電車で行く現地発ツアーというのがあり、
それは1人1700バーツだった。3人で5100バーツというのは、我々がアユタヤで
使った金とたいして変わらない。しかもそちらは象に乗るのは10分だけとなっていたか
ら、トゥクトゥクで3倍ぼったくられても実質的に我々の方が安い。
つまり、ぼったくられても大した金額ではないのである。
結局、頭のすみにそういう貨幣価値の計算があって、
たいした金額じゃないよ、気にしなくていいよ、という気にはなるわけである。
それに、定価のない国で価格交渉は当たり前で、
うっかり言い値でOKするヤツがアホなのである。
あのトゥクトゥクの運転手もあの女の子も最後のタクシーの運転手も悪人という気は
しなかった。
で、帰ってきてから調べてみて分かったのだが、
本当の悪人というか今回のタイ旅行の一番の危機は、最初の日、
ホテルからワット・ポーに行ったときに乗ったタクシーの運転手であったらしい。
あの男の言っていた「すぐそばの水上マーケット」を調べてみたら、
確かに、バンコクから近いところにひとつ水上マーケットはある。
しかし、そこは週末しか開いていない。
我々が行ったのは金曜で、平日もやっている水上マーケットはバンコクから
片道80Kある。
ネットで調べるといろいろなトラブルはあるらしく、タクシーに乗ったら宝石店に
連れていかれ、買うまで出してもらえなかったとか、そういうこともあるらしい。
いずれにせよ、8時からのワット・ポーを9時にならないと開かないと言い、
片道80kの水上マーケットをすぐそばだと言う運転手の言葉を信じてそのまま
行っていたら、なにが待ち構えていたのか分からん。
だから個人タクシーは使わずにタクシー会社のものを使えとガイドブックに書いてあった
が、我々が乗ったのはホテルに出入りできるタクシー会社のタクシーだった。
一番大切なのは下調べして情報をしっかり身につけて行くことと、
そういう場面での断固とした態度なのだろう。
それを怠らなければ東南アジアは楽しめる。面白いところだ。
子供達には旅をして欲しい。
観光旅行ではなく、旅である。
旅は人を育てる。そういう旅をして欲しい。
二泊三日の家族での短いタイ旅行がいい経験になってくれたらいい。
それにしても夜景が綺麗だ。
食事も美味い。
高級だというだけあって雰囲気もいい。
ビールをカクテルに変え、しめて4000バーツ。
ここの食事代がぼったくられているのかどうかは知らない(^^
見上げると夜空には日本のそれとは少し角度の違うオリオンがあった。

Date: 2013/04/05(金)


タイ アユタヤ2
アユタヤの駅を出るとタクシーやトゥクトックの客引きが待ち構えている。
英語とタイ言と日本語の単語のチャンポン。
ただ、今回は貸自転車で回るつもりでいるのでノーサンキューと断り、渡し船の方へ行く。
と...、息子がふらふらしている。
どうしたと聞くと、
二時間半強烈な日差しの窓際に座っていて、なにやら日射病みたいになったという。
物が二重に見えるとか言ってる。
なんで言わなかった、席を替わったのにと言うと、
俺でなきゃ我慢できなかったろうとか言っている。
うーん...、自転車で回れるのか、こんな状態で?
渡し船に乗り、アユタヤの島内へ。
ちなみにアユタヤはチャオプラヤーデルタのなかの島である。
さて、貸自転車で回るつもりがちょっと予定が狂った。
どうしようと思っているところへトゥクトゥクの運転手が話しかけてきた。
ニホンゴベンキョウシタとか言って、片言のニホンゴと英語で一生懸命話してくる。
見ると日本の雑誌の「るるぶ」を持ってる。タイ旅行の案内版。
で、それのアユタヤのページを示して一時間300バーツが相場だと言う。
うーん、息子が日射病みたいになっているときに貸自転車でもないよな..。
うん、確かに一時間300バーツと「るるぶ」に書いてある。それでいいか...。
え、3人だとそれの3人分? ああ、いいよ、それでいいから早く行こう。
おい、お前は大丈夫か? このトゥクトゥクで行くぞ。まだ物が二重に見えるのかよ?
荷台を改造した座席に座り、しばらく走って風を受け元気を取り戻してきた息子曰く、
「親爺、相手の言い値でOKするなんて甘いぜ」
あっ! と気付いた。
1時間300バーツが相場というのは、トゥクトゥク1台1時間チャーターして。
人数は関係ないはず。
たはは(^^;
やられた。
つまり相場の三倍でOKしてしまった。
なんだこの海外旅行超初心者的失敗は(^^;;
ま、仕方ない、もうOKしてしまった。苦笑いしてあとはぼったくり運ちゃんに任せる。
運ちゃんに連れられてエレファントヴィレッジへ。
予定にはまったく入れていなかったのだが、象に乗れるというので、ついその気になった。
案内されて受付に行くと可愛いオネーチャンがこれも片言の日本語で言う。
「サンジュップン 1200バーツ イチジカン2400バーツ」
高い!
さっきの失敗があるので家族3人で背を向けて引き返そうとすると、
後ろから言ってきた。
「スミマセン スミマセン イクラ ダイジョウブ?」
そのうち、
「ガクセイ サンジュップン 800バーツ」
と言い出した。
タイに学割があんのか?(^^
「ガクセイ? and me 、俺も800」
一瞬とまどったような顔してこちらを見る。
つぶらな瞳が可愛い女の子でもう少し絡んで値引きさせたかったのだが、
娘の見ている前でそれも気が引けたので30分800バーツでOKする。
ちなみに帰国してから調べたらこのエレファントヴィレッジ、
30分600バーツ〜700バーツぐらいであったらしい。まだ高かった。
あのつぶらな瞳の女の子、最初は相場の倍ふっかけたのだ(^^
ま、ぼったくった分というわけでもないのだろうが、我々は30分ではなく40分以上
乗っていた。象に乗るのは初めてだったが、はっきり言って乗り心地はそれほど良くない。
視界はかなり高いので、それが気分いいと言えばいいのだが...。
遺跡の横を通ったり、遺跡の中に入っていって象使いが写真を撮ってくれたりする。
それにしてもアユタヤというところは、その辺に当たり前に遺跡があるような町である。
アユタヤには象に乗れるところがもう一か所あり調べてみるとそちらの方が安いらしい。
ぼったくり運ちゃんはエレファンドヴィレッジの方に客を連れてくるらしいので、
たぶん、バックマージンを払ってくれるのだろう。その分高くなるということか。
象に乗ったあとはワット・マハタートへ。こんな感じ↓
http://www.abaxjp.com/tai-ayutthaya/tai-ayutthaya.html
アユタヤで一番印象的な遺跡かもしれない。
1767年、ビルマ軍の攻撃でアユタヤは徹底的に破壊された。
アユタヤの遺跡はひとつの王朝が滅んだときの廃墟がそのまま残っている遺跡である。
首と両腕を斬り落とされ、組んだ足の上に両手首だけが残っている仏像が並んでいるのは
何か異様でさえある。有名な木の根のなかにある仏の顔は、斬りおとされた仏頭が、
長い年月の間に木の根に包まれたものだ。
なぜ、ここまで徹底的に破壊したのだろうか?
タイもビルマも同じ小乗仏教の国である。
街だけでなく仏像をここまで破壊する必要があったのだろうか?
おそらく当時の東南アジアの国際情勢か関係しているのであろう。
1767年というのは清緬戦争のさなかである。
当時、ビルマは大国清の遠征軍と断続的に戦っていた。
ビルマにとって東方のアユタヤが清と結べば二正面作戦を強いられることになり、
ゆえに徹底的に叩く必要があったのだろう。
ビルマもまた必死だったのかもしれない。
アユタヤが滅んだとき、チャオプラヤーを下って脱出した将軍に率いられた人々が上陸
したのが、昨日訪れたワット・アルンである。
ビルマは清との戦いでそれ以上タイに介入する余裕はなく、彼等はそこに新しい王朝を
開く、この王朝は短命だったが、それを継いだのが現代のタイ王室である。
印象的な遺跡を歩き、
そのあとはぼったくり運ちゃんの案内で遅いランチ。
地元の人が入るような食堂だったが、案外小奇麗で食事も美味かった。
ここでもぼったくり運ちゃん、
「エビ ウマイ エビ ウマイ」と盛んに勧めるのだが、もうその手には乗らん。
日射病かと思った息子もトゥクトゥクの荷台ならぬ座席で風に吹かれてすっかり回復。
帰りの電車もかなり時間がかかるかもしれないということで、遺跡見学は早めに切り上げて駅に戻る。アユタヤは世界遺産が街中に当たり前にあるような町だった。
帰り、東南アジアの鉄道が時刻表通りに走るとは思わない方がいいみたいで、
16時5分バンコク行きの電車は3分早く到着し、なぜかそのまま定刻前に発車。
フアランポーンには5分早く着いて帰りは1時間50分ほどでバンコクに戻った。
Date: 2013/04/04(木)


タイ アユタヤ
アユタヤはバンコクから北に76k。
昔、アユタヤ朝が栄え海外と広く交易したが、
1767年ビルマ軍により徹底的に破壊され廃墟となった。
その廃墟が今は世界遺産になっている。
14世紀あたりから日本人町が出来ていたらしいから、
山田長政以前、鎌倉室町のころから日本人は結構海外に出ていたのである。
その辺を調べてみたら教科書に出ていない日本史があって面白いのだろう。
バンコクからアユタヤに行くには鉄道かミニバス、あるいはチャオブラヤーをクルーズ
していくというツアーもあるらしいのだが、今回は鉄道を選んだ。
理由は特にない。
今回のタイ旅行、下調べもあまりしていない感じで来ているので、
単純に電車に乗れば行けるだろうという(^^;
朝、ホテルからタイ国鉄のフアランポーン駅へ。
今日のタクシーの運転手はメーターをちゃんと使い、変な大回りも余計なお喋りもせず、
フアランポーンまで43バーツ。
昨日の行き帰りのタクシーはやはり倍ぐらいぼったくっているのであろう。
バンコクのタクシーの運転手にもこういう真面目なのはいるのである。
50バーツ札を渡し、釣りはチップ。
バンコクの中心的な駅にしてはそれほど大きな駅というわけでもない。
古いヨーロッパスタイルを思わせる駅で、自動券売機などはなく窓口で切符を買う。
アユタヤまで15バーツ、安い。安いと思ったら各駅停車で、我々が駅に来たのは9時過ぎ。
8時台に来ていれば急行や特急があってもっと早くアユタヤに行けたのだった。
これも帰国してから分かった。どこまでも下調べを怠っているヤツらではある(^^;;
切符を買ってなかに入る。
プラットフォームは日本とは違い低床タイプで全体を大きなドーム屋根で覆っている。
ちょっと外国映画に出てくるような雰囲気で子供達は盛んに写真を撮っていた。
電車は結構混んでいたが立つほどではなし。
出発してしばらくはかなりゆっくり走る。
こんなゆっくり走ってアユタヤに着くのかと思うのだが、
しばらくすると、海外の旅番組などでたまに見かける、線路の両側に家が沢山並び、
線路がフツーに生活の場になっているという情景が広がった。
ゆっくり電車が走る横の線路の上で当たり前のように子供達が遊んでいたり、
なぜか線路の方を向いて小さな店が並んでいたり。
つまり、線路とその周辺をフツーに道として使用する形でスラムが形成されたという感じ。
そういう情景のなかをゆっくり走ってゆく。
確かにこんなところでスピード出せるはずがない。
そういう場所でなぜか20分ほどストップしたのは、あるいは接触事故とかあったのかも
しれない。海外の旅番組などでは事故があるようなことは言わず、あたかも鉄道と人々が
当たり前に共存しているように紹介しているが、
ああいう状況で生活していたら事故がない方がおかしい。
しばらくして電車は動きだし、だんだんスピードを上げる。
さすが大陸の国でどこまでも平ら。
日本なら遠くに山が見えたりするが、こちらはなんにもない。
アユタヤまでただただ平らな田園風景が広がる。シラサギが結構いる。
途中の駅からも乗ってきてだんだん混んできたので詰めて座る。
目の前に座った子供連れの若いタイ人の夫婦、おとなしそうな旦那の腕には竜か蛇かの
刺青があった。日本で刺青というとヤクザを想像するが、タイでは魔除けの意味で刺青を
するのであろう、フツーに刺青の人を見かける。魏史倭人伝に倭人が刺青をしていると
書いてあるが、それと同じようなものであろう。
たまに弁当やフルーツ、ペットボトルを売りにくるが、タイ国鉄の人間ではなく、民間の
業者なのかあるいはその辺のおばちゃんが勝手に売りに乗ってくるような、そんな感じ。
そんなおばちゃんのひとりが娘を見て「アユタヤは次だよ」と教えてくれた。
それにしても日差しが強い。
走ること2時間半、予定より30分遅れてアユタヤに着いた。
Date: 2013/04/02(火)


タイ バンコク3
チャオプラヤー対岸のワット・アルン。こういうところ↓
http://allabout.co.jp/gm/gc/378040/
ワット・アルンとはタイ語で「暁の寺」なのだそうで、
アユタヤ王朝末期、ビルマに攻められてアユタヤが荒廃し、チャオプラヤーを下って逃れ
た将軍が夜明けにこの岸辺に辿りつき、そこに新しい王朝を開いたのだとか。
ワット・ポーと異なり、ここは巨大なストゥーパに階段がついていて登ることが出来る。
途中にはストゥーパをぐるりと回る回廊も作られていてそこからのバンコクの眺めは
なかなかである。ただしこの階段かなり急で、登りはいいのだが、
下るとき一瞬、えっ! ここ下るの? という感じがなきにしもあらず。
高所恐怖症の人は気を付けた方がいい。
我々が行ったときも子供がひとり怖がって動けないでいた。
ここは夜のライトアップが綺麗であるらしい。
バンコクの眺めを楽しみ、ストゥーパから降りてきて木陰でジュースを飲んだりして
ゆっくりする。土産屋で扇子を売っていたので買ったが「せんす」で言葉が通じた。
のんびりしたあと、再びチェオプラヤーを渡り、南の方にある市場の方へ歩いてみたが、
再開発でもしているのか、そのあたり一帯は工事中だった。そこに行くまでの道は
かなり東南アジア的猥雑な通りで、むしろこの辺りの方が市場っぽい雰囲気。
屋台が出てたり店先で食事している人がいたり、粽のようなものを結構売っていた。
時々、正体不明の客引きらしいのに声をかけられる。
テキトーなところで走ってきたタクシーを拾い、
バンコクの渋谷原宿とかいうサイアムスクエアーへ。
運転手に「サイアムステーション」と言ったら、一瞬キョトンとして「セヤム?」と
聞き直した。あちらの発音では「サイアム」ではなく「セヤム」である。
ちなみに、スカイトレインとBTSが接続しているパヤタイも、あちらの人の発音は
フィヤタイだった。この辺、日本のガイドブックは現地の発音に合わせて案内した方が
いいような気がする。この運転手は今朝の運転手のように妙なところに誘わなかったが、
なにやら大回りして走っているなという感じ。セヤムまで150バーツだった。
セヤムスクエアは確かに近代的な繁華街で綺麗なショッピングセンターが並んでいる。
その一方で道路沿いには東南アジアそのままの屋台の列があったりして面白い。
ぶらぶら見て歩いて遅めの昼食をとり、BTSで隣の駅、そこからホテルへ。
日本で予約したときはチェックインは4時からとなっていたが、今朝、荷物を預けたとき
は2時からチェックインできると言っていたので少し早めにホテルに入る。
飛行機の中で寝ているといってもやはり熟睡はしていないわけで、
そのまま早くから歩き回ってかなり汗もかいている。
まずシャワーを浴び服を着替えてとりあえずクーラーの効いた部屋で昼寝。
まったりと過ごして体を休める。
夕方、散歩に出てセヤムの方に歩いてみた。
昼過ぎあたりは食べ物系の屋台が沢山並んでいたが、
この時間になると雑貨系の屋台が増えている。
夕食はホテルのレストラン。
タイ式のカレーとかトムヤンクンとかそれぞれテキトーに注文。
日本で食べるトムヤンクンは酸味のあるスープだが、本場のそれは酸味もさりながら
スパイシーな辛みがあり、こちらの人はカレーと同じように御飯にかけて食べている。
真似をして食べてみたがなかなか美味しかった。
以前、米が不作だったときタイ米を緊急輸入したことがあったが、
不味いということで不評だった。
あれは日本式にタイ米を炊いて食べたからいけなかったのだろう。
タイのカレーやトムヤンクンと一緒に食べるとタイ米もなかなか美味い。
いい風が吹いてきたので、食事後再び歩いてみる。
すぐそばのナショナルスタジアムの隣でムエタイの試合がありテレビ中継をしているよう
だった。店も並んでいて、ここでムエタイを見ながら食事しても面白かったかもしれない。
早朝にバンコクに着いて一日ゆっくり楽しんだ。
明日はアユタヤに行く。
Date: 2013/04/01(月)


タイ バンコク2
ワット・ポー。
18世紀、ラーマ1世によって建立されたバンコク最大の寺院。
こんな感じ↓
http://www.bangkoknavi.com/miru/41/
高い尖塔(ストゥーパ)が聳えているのが日本の寺とは異質な風景を作り出している。
本来、ストゥーバは仏教の生まれたインドのもので仏陀の舎利(遺骨)を入れた容器
だったが、時代とともに構造物として巨大化した。
日本の寺の三重の塔や五重の塔もおおもとを辿ればこのストゥーパである。
ちなみに墓にある卒塔婆の語源もストゥーパ。
門をくぐって中に入ると通路の右側にあるのが黄金の寝釈迦が祀られている御堂。
入ろうとすると掃除をしていた人に8時半からだと言われた。まだ時間があるので、
他のところを見て歩く、バンコク最大の寺院というだけあって、幾つもの御堂、
大小のストゥーパ、中国の影響が感じられる像などいろいろなものがある。
そういう建物の門をくぐってなかに入ると、
壁沿いに黄金色の仏の坐像が沢山並んでいたりする。ちょっと壮観。
なかには仏の坐像のあちこちに金箔が貼られているのがあり、
これは後で分かったのだが、その仏像の自分の体の悪いところと同じところに金箔を
貼って祈ると御利益があるのだそうだ。
巣鴨のとげぬき地蔵で自分の体の悪いところと同じところに水をかけて祈るというのと
同じようなものであろう。こういうのは万国共通か。
幾つかの御堂には本尊なのか大きな仏陀の像があり、いずれも日本の仏とはちょっと異質、
強いていえば飛鳥あたりの古い仏の顔立ちに似ていなくもない。
御堂に入るときに短パンや短いスカートをはいている女性は足を隠す布を腰に巻くように
言われるところもあり、入り口に用意してあったりする。
それにしても暑い。
湿気もあるのでかなり汗をかく。
タオルは必需品だし女の人は日傘などあるといいかもしれない。
ぐるりと回って寝釈迦のところに戻ってくる。だいぶ人が増えた。
中に入ると、あった。写真で見た黄金色の寝釈迦。46mあるらしい。
寝釈迦というのは本来、釈迦が入滅するところ、すなわち死ぬときの姿であるわけだが、
英語ではリクライニング・ブッダというらしく、なるほど、確かに死ぬときというより、
リクライニングしているような感じ。というか、悟りの境地ということか?
こういう仏像というのは日本では見かけないのでちょっと珍しい。そして大きい。
それにしてもこの寝釈迦といい他の仏達といいみな金色。
金色ピカピカというのが必ずしも日本人の美意識と一致しないところがありそうなのだが、
南国の人の美意識には合致するのであろうか。
ここでは皆写真を撮るので、写真のポイントのところで人の流れが詰まったりする。
回廊に沿って小さな鉢が並べられてあり、そこに一つずつコインを入れていく。
もちろんこのコインは金を出して買う。鉢は全部で108あるらしく108の煩悩を
そうやって捨てていくのだそうだ。
一通り見て外に出る。
道を渡り、最初に行ったチャオプラヤーの船着き場に行き、渡し船で対岸に渡る。
対岸には「暁の寺」ワット・アルンが聳えている。
渡し船はひとり3バーツなのだが、小銭がなかったので100バーツ札を出す。
船に乗ってから数えたら釣りが10バーツ足らなかった。
切符売りの婆さん、誤魔化したのか釣りの計算が出来なかったのか、
どちらなのかは分からぬが、ま、こんなもんだろうと思って気にも留めない。
アフリカでもそうだったが、東南アジアもいちいち気にしていたら旅はできない。
長くなったので続きはまたあとで。
Date: 2013/03/30(土)


タイ バンコク
家族でタイに行ってきた。
ほぼ一か月の間、家に帰れば日付が変わっているという確定申告の仕事が終わり、
その息抜き。
子供達の都合もあり深夜発二泊三日という短い日程。
本当はアンコールワットに行きたかったのだが、
二泊三日では厳しいので、バンコクとその北のアユタヤへ。
20年振りの海外である。
男手ひとつでまだ幼い子供達を育てることになり、海外どころではなかったのだった。
その子供達ももう大人である。
就職すれば一緒に海外に行くのも難しくなるだろうということで、
急遽、確定申告が終わったところで出かけようということになった。
木曜の深夜、羽田。日付が変わる頃の飛行機でバンコクへ。
腰を痛めているので、飛行機の狭い席で何時間も辛抱できるか、それが一番心配だった
のだが、昔と違って少しスペースが広くなったのか、あるいは椅子の座り心地が良く
なったのだろうか、心配していた腰痛もなく早朝のバンコクに着。
さて、どうやって市内に行くか。
いわゆるツアーで海外に行ったことがなく、
今回も飛行機と宿泊の予約だけ取って出かけた。
誰も頼れないので、飛行場に着いらまずその日の身の振り方を考えねばならぬ。
タクシーで行こうかと思っていたが、スカイトレインの表示があったのでそちらに行く。
切符を買うところで少し戸惑ったが、なんとかクリヤ。
乗った電車がノンストップでパヤタイまで行く電車だったので思いの外早く市内に着いた。
そこでBTSに乗り換え、宿泊するホテルへ。
当然この時間だとまだチェックインは出来ないので、
とりあえず荷物だけ預かってもらい、ホテルで客待ちしていたタクシーの運転手に
ワット・ポーまで幾らだと聞くと200バーツだと言う。
ぼったくっているんだろうなと思ったが、
100バーツぼったくられても300円である。気にもとめずに出発。
ところがその運転手、車を運転しながら、
ワット・ポーは9時にならないと開かないから、その前にすぐ近くの水上マーケットに
行こうと言い出した。パンフレットを渡してしつこく言ってくる。
後ろに座っていた子供達は
「9時まで開かないって言ってるよ、水上マーケットはすぐそばだって」
と乗り気なのだが、
「ノー、ワット・ポー」と断る。
何度断ってもしつこく言ってくるので、少し強い声で
「ワット・ポー、ワット・ポー、ワット・ポー!」
と三回ほど連呼したらようやく諦めて黙った。
しばらく走ると向こうに大きなストゥーパが立ち並んでいるのが見えてきた。
ワット・ポー。
バンコクの三大寺院のひとつ。
ワット・ポーという名前は知らなくても黄金色の巨大な寝釈迦の写真を見たことのある
人は多いだろう。その寝釈迦のある寺。
タクシーを降りて寺の入り口に行くと8時からと書いてある。
そらみろ、あの運転手、9時まで入れないとか言いやがって、あんな手に引っ掛かるなと
子供達に言い聞かす。
開くまで30分ほど時間があるのですぐ近くのチャオプラヤーの船着き場に行ってみる。
川の向こうに「暁の寺」と呼ばれるワット・アルンが大きく見える。
船着き場へはちょっとした市場のようなところを通って行くのだが、
なんとも言えない匂いがするなと思ったら魚の干物を沢山売っていた。
川の魚だろうか? あるいは海から持ってくるのか?
それにしても東南アジアらしい猥雑な雰囲気である。
ココナッツにストローを差したのを買って飲んでみたりして、
チャオプラヤーの岸辺で時間をつぶす。
対岸に渡る船や川沿いに点在する船着き場をつなぐ船が行き交っている。
割りと波がたっている。茶色い波である。
暑い。
この時間でこの暑さだと真昼はどうなるんだろうと思う。
湿気もかなり感じる。
そんなことをしているうちに8時。ワット・ポーへ向かった。
長くなったので続きはまた後日。
Date: 2013/03/28(木)


誕生日
夜、顧問先から電話がかかってきた。
「先生、今日、誕生日でしたよね」
えっ? 誕生日なんて教えていたっけ?
う〜ん...、酔っぱらった時に誕生日の話とかしたかな?(^^;
子供の頃、あまり誕生日を祝ってもらった覚えはないのだが、
それでも小学生のとき、なぜか親が野口英世の伝記などを買ってきてくれて、
なんでだろうと思ったら誕生日だったということがあった。
野口英世の伝記というところがなんとも言えない。
たぶん今時の親は子供の誕生日に野口英世の伝記とか買わないだろう(^^;;
自分が親になってからは子供の誕生日にはケーキを食べるようになった。
子供は子供でケーキを食べたいので親の誕生日にもケーキを買おうと言い出すわけで、
その結果、3月は3回ケーキを食べなければならないのだった。
うちは自分も子供達もみな3月生まれである。
その子供達も大きくなり親元を離れ、バースデイケーキを食べることもなくなったのだが、
それはそれとして...。
ある程度の年になると誕生日って嬉しくないのである(^^;;;
「確定申告の手数料、今日、振り込んでおきましたから。誕生日おめでとうございま〜す」
それはそれはどうも(^^;(^^;;
顧問先から誕生日を祝ってもらえるとは思わなかった。
というか、報酬の振込の連絡ではあるのだが(^^;;;
どうもありがとうございました(^^
Date: 2013/03/19(火)


河津桜
確定申告が終わって伊豆に行ってきた。
この一か月は仕事に追いまくられるので、
終わったら何か気晴らしでもしなければやっていられない(^^;
だんだん疲れが溜まってくるのと平行して、終わったらどこか出かけようとか考え
ながら確定申告の後半は仕事をしているわけである。
で、今年は二月が寒かったので例年ならもう終わっている河津桜がまだ咲いていると
いうことで伊豆に行ってみたのだが、行ってみると殆ど葉桜で部分的に咲いて
いる木が残っているという感じ。ネットで河津の桜の開花状況の情報があって、
行く前にそれを調べて行ったのだが、映像だとそれなりに咲いているように見える
のである。結局、部分的に咲いている木などを紹介するから、それが全体のイメージに
なってしまう。映像の情報というのはそういうところがある。
ちなみに今回の伊豆旅行、友人が下田のリゾートマンションで暮らしているので、
そこに泊めてもらって宿泊費はタダ。持つべきは友である(^^;;
しかもそのリゾートマンション、温泉付きで大浴場まである。
バブル華やかなりし頃は数千万したらしいのだが、
今は700〜800万で中古物件が出ているそうだ。
一番高い時期に買った人は大損であるが、その友人も中古を安く
買っているので、「高いときにローンで買った人は大変だろうね」と他人事ではある。
ゆっくり温泉に入り、手料理を御馳走してもらい、思い出話に花を咲かせる。
河津の桜はもう葉桜だったが、下賀茂温泉の方はまだ咲いているかもしれないと
いうことで、翌日はその友人の案内で下賀茂温泉に行ってみた。
下賀茂温泉も河津と同じく川沿いに河津桜が延々と植えられている。
行ってみると成程、盛りは過ぎているが河津よりも花が残っていて、
部分的には川沿いにピンクの桜が続いていてなかなか綺麗である。
満開のときはこのピンクの列が川沿い2キロほど続くというのだから、
さぞ壮観であろう。
桜の下には黄色い菜の花が咲いていてコントラストが美しい。
この下賀茂温泉の桜も河津と同じようにライトアップするんだそうで、
下賀茂温泉の河津桜はあまり知られていないが、
河津桜を見るなら河津より下賀茂の方が良いと友人は言っていた。
そのあとは砂浜の綺麗な弓ヶ浜の辺りを案内してもらい、
今度は釣りをしに来ると約して友人と別れ帰路に着く。
河津桜の満開は見られなかったが、
この時期の伊豆は河津桜のほかにも大寒桜や大島桜など早咲きの桜や菜の花が
咲いていて、一足早くすっかり春である。
確定申告最終日の15日金曜の午前中に仕事を終わらせ、
金曜の昼から出て土曜に帰るという感じだったので、
渋滞にも巻き込まれずスムーズだった。
Date: 2013/03/18(月)


無題
大川小学校の跡を訪ね、
その後、そのときの印象から幾つかの歌を作り結社誌に出した。
決して納得のいく一連ではない。
大川小学校に限らず、なにかしらのテーマについて詠いたいと思っても、
それに取り組む時間もないまま、
ただ、幾つかの歌を紡ぎだすだけ...。
本格的な連作に作る時間もなく結局、
どれも納得のいかない中途半端なものばかりになる...。
この一連にしても本当なら三十首ぐらいの連作にするべきところを、
結社誌に出すために関連した歌をつなげただけのもので、
実際のところ連作として意識して作ったものではない。
到底、大川小学校の跡地で自分の中に去来したものを表現しえたものにはなっていない。
ただ時間に追われ流されてゆく、そういう自分の作歌生活に疑問と失意はあるわけで、
根本的なところから考え直したいと最近思ってはいるのである。
結社誌去年7月号より、

   牛の影見えぬ牛舎に陽の差して春まだ遠き福島を過ぐ

   海の上を歩いていく人いるという老婆の話バス停に聞く

   北上は広き川なり葦原と津波の跡と空の青見ゆ

   去年の春津波越えたる大橋を白き車の渡りゆきたり

   北上のほとりにありし学校の跡地の重機音なく動く

   遠くから人に見られているような気がして津波の跡を去りたり

   生き死にの境もいつか美しからむ津波到達ラインの桜
Date: 2013/03/12(火)


震災から2年 大川小学校
今日で東日本大震災から二年。
先日、NHKで宮城県石巻の大川小学校のドキュメンタリーをしていた。
3月11日の津波で全校生徒108名中74名の死者を出した学校である。
震災後2年、なお子供を探して重機を運転している父親。
大川小学校の教師だった息子を亡くし、多くの児童が死んだ地域の中で悲しみを
表に出すことの出来ない老夫婦。地縁血縁の濃い地域で、死んだ子供達とその子供達を
救えなかったという立場に立たざるをえない教師の遺族が顔の見える距離で暮らす。
つらいものがあるはずだ。
そして、教育委員会の説明会で飛び交う遺族の怒りの声。
それらを丹念に追ったドキュメンタリーだったが、
ただ、事件の検証についてはあまり触れていなかった。あえて避けたような感じか。
教育委員会が既に報告を出しているが、それが不充分だということで、
第三者による検証委員会がスタートするというニュースがしばらく前にあったが、
そこにいたるまで、なぜ、こんなに時間がかかったのだろう?
事件後の校長と教育委員会の対応がかなり悪く、遺族の怒りと不信を招いた。
事件直後の生存者からの聞き取りの記録も教育委員会は破棄してしまっており、
検証委員会は一から聞き取りをし直さなければならないのだろう。
それ自体、おかしな話だ。
震災のあと、私は大川小学校に行ってみた。
北上川沿いに走ると、やがて周囲は生々しい津波の跡となり、人影もなかった。
海まで数キロのところ、その南岸に大川小学校の跡があった。
重機が動いているのだが、妙に静かだったのが印象に残っている。
すぐそばの新北上大橋を渡り対岸に立つと北上川の大きな河口が見える。
北上川は地震により河口付近の低地が水没し河口が巨大化している。
巨大化した河口の両側の遠い断崖がうっすら黒く立ち上がり、
まるで海が大きな口を開けているように見えた。
その口に向かって、北上川はゆるやかにカーブして青く流れていた。
先日のドキュメンタリーでは、この美しい川のほとりで暮らしていた子供達の写真が
次々と映し出されたが、笑顔でそこに映っている子供達の殆どが死んだのだと思うと、
なにか信じられないものを見るような気がした。
子供達が教師達に連れられ避難しようとした新北上大橋のたもとの三角地帯にも
立ってみた。
報道ではその付近ではそこが一番の高台だった、というふうに言われたが、
それはおそらく記者達が行政の発表をそのまま鵜呑みにした記事である。
実際に行ってみれば、その橋のたもとの三角地帯は「高台」というような場所ではない
ことが分かる。北上川の堤防より低いところにある大川小学校から見れば数メートル
高い場所ということである。
しかも、子供達が避難しようとしたとき、その三角地帯には市の広報車が止まり、
津波が来るから早く逃げろとマイクで叫び、学校方面に来る車を避難させていたのである。
つまり、ここは危ないから早く逃げろと言っている所を教師達は避難先に選び、
子供達を連れて行った。
生き残った児童は「山に登れるのになんで川に行くんだろうと思った」と証言している。
報道ではその裏山は登れなかったと言っていたが、それも違う。
学校の裏山は子供達が理科の植物採集などで登っていた山である。
登れないもなにも登っていた山なのだ。
その山を地震のあと教頭は周囲に「この山は登れる山でしょうか?」と聞いていたという。
おそらく、彼は登れるか登れないかを聞いていたのではあるまい。
誰かに決めて欲しかったのだろう。
校長不在で教頭が指揮をとらなければならなかったはずだが、
彼は決断することが出来なかったのではあるまいか。
誰かが大声で指示すれば、彼は動けたのかもしれない。
校庭にはスクールバスも待機していたが、避難のために使われることはなかった。
とりあえず子供達をスクールバスに乗せ、雄勝への峠に続く道に入れば子供達は
助かっただろうが、スクールバスは待機させられた。バスの運転手も死んだ。
バスを運行している会社とその運転手は無線で、
「先生達がまだ対応を話しています」というやり取りをしている。
裏山にも登れず周囲での唯一の高台である三角地帯を目指した、まるで他に方法が
なかったというような初期の行政の発表は、
現場を見れば首を傾げるものであることが分かる。
そして子供達は地震から津波が来るまでの一時間、校庭で待たされた。
なぜ子供達は死ななければならなかったのか?
巨大な津波の前にそれは本当に不可抗力の死だったのか?
子供達の死が無駄にならないよう、そして、再びこのような惨事を繰り返さないためにも、
しっかりとした検証がおこなわれなければならないはずである。
本来、教育委員会がそれをしなければならなかったのだ。
しかし、彼等はしなかった。
第三者による検証が子供達の死を無にしないものになるよう祈りたい。
Date: 2013/03/11(月)


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