*--Diary--*


萩と彼岸花と天麩羅と  2010/09/29(水)
平和  2010/09/28(火)
作文審査  2010/09/21(火)
15人?  2010/09/16(木)
さねさし  2010/09/15(水)
 2010/09/14(火)
『海狼伝』  2010/09/08(水)
横浜歌会  2010/09/06(月)
理想主義の敗北  2010/09/02(木)
四国 鳴門海峡  2010/08/28(土)


萩と彼岸花と天麩羅と
鎌倉は花の多い街である。
一年中、どこかで花が咲いている。
この時期は萩と彼岸花が咲いているので、湘南歌会のついでにぶらりと花を見に行く。
家からだとバスと電車で50分で鎌倉に着く。
時間が遅かったので、鎌倉の駅から近い宝戒寺に行く。
以前にもこのブログで紹介したが、
鎌倉幕府が滅びてから北条氏を弔うため、その館跡に立てられた寺である。
別名、萩寺とも言われ、萩が綺麗なことでも有名である。
ここは白萩が多い。
ところどころに赤い萩があり、それもなかなか綺麗だ。
境内はそう広いわけでもなく、
門を入ったあたりなどは萩で道が半ば覆われているような感じである。
まだ咲き始めたばかりのものも結構あり、
来週あたりがちょうどいいのかもしれない。
境内の隅には珍しい白い彼岸花も咲いている。
なぜ、この寺は白い花が多いのだろう?
源氏の旗が白だからか?
しかし、北条氏は本来は平家の流れであり、平家の旗は赤。
あるいは、神に近い色は白ということだろうか。
本堂で手を合わせ、しばらく萩を見て鶴岡八幡の方に戻り、
途中から鶴岡八幡の東側の細い道に入る。
低い石垣に沿った道で、その石垣の上に彼岸花がずうっと咲いているのである。
観光客はあまり知らない場所かもしれない。
頃合いよく咲いた彼岸花が赤く続いている。
例年と比べて花が小さいように見えるのは猛暑の影響だろうか?
死人花とも言われ人によっては嫌う彼岸花だが、綺麗な花である。
東側の入り口から鶴岡八幡に入り、若宮大路に戻る。
今回は時間がなくて駅から近いところを歩いたが、萩と彼岸花が綺麗だった。
湘南歌会はこんなふうに歌会の前に鎌倉のあたりを歩けるのがいい。
鶴岡八幡の源氏池・平家池は蓮の葉で覆われ、池のところどころに、
実をつけた茎が呆然とした感じで立っていた。
さて、歌会に行く前に昼飯である。
知人に鎌倉に行くならあそこの天麩羅が旨いよと聞いていたところがあるので、
そこに行ってみる。
若宮大路の途中のビルの二階、ちょっと分かりにくいところだが、
「大石」という天麩羅屋がある。
中に入るとカウンターに8席ほど、それと左側テーブル席がふたつ。
大きな店ではない。カウンターの席がひとつだけ空いていたのでそこに座る。
品書きを見ると、コースになっていて、それなりの値段。
これから歌会に行くのに天麩羅のコースを食べている時間はないので、
旬の天丼というのにする。それとビール。
カウンターに座って左側、大きな窓ガラスになっていて空が明るい。
感じのいい店である。
目の前で揚げていていい匂いがしてくる。
ビールを飲んで待つ。
割りと時間がかかって出てきたのは天麩羅山盛りの天丼。
海老とかキスとか野菜とか具は結構多い。食べてみると確かに天麩羅は旨い。
やはり天麩羅というのは目の前で職人が揚げたものを食べるのがいい。
いつ揚げたのか分からないような冷めた天麩羅だと食べていて情けなくなるというものである。
うん、なかなか旨い。
ただ、天丼としてはどうなのだ?
御飯が随分少ない。
天麩羅を味わってくださいという感じ?
しかし、天丼というのは天麩羅とタレのしみた御飯のハーモニーではないのか?
鮨でもそうである。
最近たまに見かける変にネタの大きい鮨。
ネタをでかくすれば客が喜ぶと思うのがそもそもさもしい。
鮨はネタとシャリのハーモニーなのであって、でかいネタ食いたければ刺身を食えばいいのだ。
せっかくの美味しい天麩羅なのだが、天丼としては不満が残るなぁ...。
コースで天麩羅を食べに来たらいい店なのかもしれない。
丼物は御飯が少ないと食べにくいということを発見し、これで2500円。
天麩羅は旨いから良しとしようか。
そういえば、アーチェリーの仲間が小町通りの天麩羅屋が結構美味しいと言っていた。
次はそこに行ってみよう。
天丼が出てくるまで時間がかかったのでいつものように江ノ電を使わず、JRで藤沢に向かう。
それでも30分の遅刻。
結構、歌会には遅刻してくるヤツなので、みんな気にもとめていなかった(^^;
Date: 2010/09/29(水)


平和
  中国と日本がいずれ睨み合う海に夕陽は沈みゆきたり

私が短歌結社に入った頃に作った歌である。
いずれ結社誌に出そうと思ってそのままにしてしまい、結局出していない。
で、この歌今さら出せないのである。
睨み合いが始まってしまった今となっては「いずれ睨み合う」などという歌は通用しない。
歌にも旬があるということであろう。

日本の平和主義はこれからどうなるのであろう。
中国との衝突は戦後の平和主義のゆきついたところであるのかもしれず、
観念的な平和主義はその拠り所を失った。
怖ろしいのはむしろその反動であり、
時代はナショナリズムに傾斜していくのかもしれない。

平和の歌というのは難しい。
誌面に時折見かける平和の歌が底の浅いものに見えるのは、
結局、安易な信じ込みが根底にあって歌を作っているからである。
その基本的な構造は戦前の安易な軍国短歌と変わらない。
今年亡くなった竹山広の平和の歌が心を打つのは、
彼が安易な信じ込みで歌を作らず、
自らの原爆体験に根ざして歌を作っていたからである。

それにしても中国は馬鹿なことをしてくれた。
彼等も今、苦い思いを噛み締めているだろう。
数ヶ月前と今では中国の周囲の状況も中国に対する評価もまるで様変わりしてしまった。
南シナ海での拡張主義の結果、東南アジアには軍拡が広まり、
アセアン諸国はアメリカへの傾斜を強めた。
東シナ海での衝突は日本の親中派を弱体化させ、わざわざ日本を日米同盟に回帰させた。
中国は自分で自分の周囲に敵意の環を作ってしまった。
中国の外交センスは富強になるのと反比例に低下している。
かって中印国境紛争で中国はインドを破った。
しかし、その結果はインドの核武装だった。
半世紀前は国境のトーチカで旧式な銃を撃ってくるだけだったインド軍は、
現代では中国全土を射程に収める核ミサイルを配備している。
中国はその教訓から学ばなかったのだろうか。
南シナ海で中国は台風で避難してきたベトナムの漁船に銃を突きつけ、
違法操業の中国漁船を拿捕したインドネシアの警備艇に対し、
解放しなれければ攻撃すると脅した。
今世紀の半ばには大国になるであろうインドネシアは、
これからも銃を突きつけられれば引き下がるだろうか?
ベトナムはかっての敵アメリカとの合同演習を南シナ海で行うようになった。
レアアースを止めたことで多くの国や企業がチャイナリスクに気付いた。
周囲に広まった疑念と反発に中国も気がつかないはずはあるまい。
中国は日本との関係の改善に動くだろう。
しかし、中国のように内部抗争の激しい国では、
失敗を失敗で終わらせるわけにはいかないのである。
なんらかの目に見える成果が必要なのであり、
彼等は東シナ海のガス田開発に着手するだろうし、尖閣の周辺に常時船を配置するだろう。
その機会を与えたのは日本の失敗である。
もちろん、それを防ぐ手立てはあるだろう。
例えば、中国が開発を強行するなら、
日本は武器禁輸を解き、東南アジアの国々が欲しがっている巡視船やフリゲート艦を売る。
それは中国にとってあまりいい話ではないはずだ。
交渉というのは互いにそうやってカードを持ってやるのであり、
平和もまたそういう現実的な思考のもとで築かれ守られるものであろう。
戦後の日本の平和主義は、
冷戦構造のなかで守られながらシュプレヒコールをあげていただけのものだったが、
本当に平和を志向するのならば、地に足をつけなければならない。
今回の衝突はそのことをはっきりさせた。
いずれにせよ、日本と中国がともに失敗した。
それが今回の衝突の真の姿ではないのか。
Date: 2010/09/28(火)


作文審査
納税貯蓄組合連合会でやっている「税についての作文」の審査に行ってきた。
審査員は連合会の役員さん達と他の関連団体から数人、
税理士会からは私を含め二人派遣されて、全部で20人程の出席。
ま、行けと言われればどこにでも行くのだが、
昔、学校で読書感想文を書かされたときは、
本の後書きをさらっと読んでそれを参考にして書いていた。
そういう人間が作文の審査というのも歳月の流れを思わせるところはある(^^;
書いているのは中学生で、幾つかの賞が設けられている。
内閣総理大臣賞から始まって、財務大臣賞とか国税局長賞、それぞれの税務署の賞、
各市や関連団体からの賞。沢山あり、上位4編を国に上申し、
それが内閣総理大臣賞などの候補となって、再び審査するらしい。
その上申4編と、税務署長賞、県税・各区の賞・各関連団体の受賞作品を選んだわけだが、
なんというか、結構似たような内容の作文が多いのである。
中学生なので、所得税や法人税は納めていないわけで、身近な消費税から始まり、
最後は税金は公共のために必要な支出を皆で負担するものだから大切だという、
租税教育で教えられたことをそのまま纏めたような作文が多い。
ひとつひとつ採点していくわけだが、
他の人達の評価は知らないが、私は、そういう定型的な作文はあまり評価せず、
自分の経験から書き起こしているような作文を評価した。
日本語教室に通い、その後日本の中学に入った外国人?の作品があり、
日本語教室での経験から税金について考えており、
それを一番に評価したのだが、全体での評価はそれ程高くなかった。
ただ、その作文は税務署が署長賞に選んでいた。
次に県税賞、各区の賞と選んでいき、税理士会の賞の順番になったとき、
我々は、単純に審査員の点数の多い順番である作文を選んだ。
審査会が終わってから、税務署の担当者が我々のところに来て、
「実は・・・」と言う。
近頃、大学生がレポートを書くとき、
ネットで調べたことをそのまま書き写すようなことが非常に多く、
問題になっているらしく、ネット上に出ている文章との類似性をチェックするソフトも
開発されているらしいが、中学生の作文でも同じような問題があるというのだ。
賞がもらえれば高校受験の内申点が加算されるので、
そういうネット上の例文を参考にして書いてくる。そういうのが最近多いらしい。
そして、税理士会が選んだその作文が、どうもそういう疑惑のある作文だというのである。
そのネット上の例文というものを見せてもらい比較してみた。
うーん...。
確かに骨格は似ている。
ただ、それをエキスにして、自分なりに勉強して書いている節もある。
微妙である。
税務署内でも扱いについて議論になったらしい。
ネット上のものを参考にしていてもここまで勉強しているならいいのではないか? 
という意見と、
やはりネット上の例文の盗作・剽窃を否定できないのではないかという意見。
その場でしばらく話したのだが、結局、税理士会の受賞作品は他の作文に変えた。
正直言って、確かにエキスは使っているが、自分なりに勉強していて、
それは評価していいのではないか? と思った。
現代の子供達がなにかについて勉強するとき、ネットで情報を集めるのは当たり前で、
その範囲ではないか? そういう気がしたのである。
実際、参考資料を調べなければ税金について書けないだろう。
しかし、考えてみると、ネット上の例文というのは参考資料と言えるだろうか?
本人は検索して出てきたものを参考資料として当たり前に使ったのかもしれない。
しかし、例文はやはり参考資料ではない。
なかなかいい文章だっただけにちょっと残念だったが、
その中学生はこれから高校に行き大学に入り勉強するのであろう。
そのとき、レポートなり論文をそういうふうに書いたなら、それは勉強にはならない。
ネット上のそういうものを参考に書いたものは通用しないということを知らしめた方が、
これからの本人のためであろう。
その場ではちょっとその子が可哀想な気はしたのだが、
やはり落して良かったのだと今は思っている。
Date: 2010/09/21(火)


15人?
午前中の仕事を終えてひと休みしていたら、携帯が鳴った。
アーチェリーの仲間からである。
「11月の件なんだけど、宿泊とったから。石和のホテルで15人」
「15人!?」
「そう、15人、女の人もいるから3部屋とっておいた」
15人ねぇ...(^^
昨年まで活動していたアーチェリーの団体がもろもろの事情で休眠状態になり、
他の射場に出かけての試合の機会がすっかり減ってしまったのである。
それまでは、東京、神奈川、山梨、群馬、千葉、福島のあたりの射場で、
月に一度くらい試合があった。
電話をかけてきたS氏は山梨の射場がいたく気にいっていて、
試合がなくなってしまったので、自分達で企画して行こうと言っていたのである。
確かに桃の咲く季節はなかなかいい雰囲気で私もその射場は好きなのだが、
紅葉の季節はどうなのだろう?
で、問題は人数。
15人も集まるんかいな?(^^;
しかも宿泊。
試合に15人集まったとしても、日帰りで帰るという人もいるのかもしれず、
女の人の場合は家族を放って泊りがけというのもしにくいだろうから、
宿泊する人はもっと少なくなるんじゃないのかな...?
うーん、多くて5〜6人のような気がするけど...。
人の足を引っ張って生きてきたと自認している人なので、
纏め役は私にやれと言っている。
自分は陰にまわろうという、なにやら小沢みたいなヤツではある(^^;;
たぶん、しばらくは週末の度に射場でS氏が、
「山梨に行こう、山梨に行こう」と皆に声をかけるのであろう。
誰かそういう言い出しっぺがいないと物事動かないというのも世の中の真実であり、
とりあえず頑張ってもらおう。
ま、集まらなければ宿泊はキャンセル料がかからないうちにキャンセルすれば
いいだけの話だから、どうでもいいのだが、
ホテルの方は15人の予約が入ったと喜んでいたら、
5人とか3人とか言われてがっかりするのだろうな(^^;;;
Date: 2010/09/16(木)


さねさし
結社誌の9月号が来た。
とりあえず自分の歌を探してみる。
今月は花山多佳子さんの選歌欄にあった。
で、ひとつの歌に目が止まった。

  さねさし相模の海の青さゆえ遥かなものをいつまでも恋う

確かこの歌は出詠したときは、

  さねさしの相模の海の青さゆえ遥かなものをいつまでも恋う

だった。
誌面では、初句の「さねさしの」が「さねさし」になっているのだが、
これは花山さんの添削か誤植か、しばし考えた。
「さねさし」とは「相模」にかかる枕詞である。
有名なのは古事記に載っている弟橘比売の歌。

  さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも

ヤマトタケルが走水の海を渡ろうとしたとき、海が荒れ船が難破しそうになり、
妻である弟橘比売は海神の怒りを鎮めるために海に身を投げ、
それでヤマトタケルは無事に海を渡った。
そのとき、弟橘比売が夫への別れにこの歌を詠んだという。
しかし、どうなのだろう、それは伝説で、
この歌は古い東国の歌謡、つまり東歌ではないのだろうか。
古事記の注釈書などでは、この歌の「問ひし」について、
ヤマトタケルが焼津で火攻めにあったとき、
燃え上がる炎のなかで夫が自分を案じてくれたことを言っているとしているが、
「問う」というのは、万葉の時代から求愛を意味するのであって、
愛唱性のあるリズムからもこの歌は、
当時の相模や武蔵の野で行われていた焼畑の火のなかでの求愛を詠った、
古い東国の歌謡なのではないかという気がする。
春になると野を焼く東国の農民の、その共同作業のなかでの若い男女の姿を詠ったもので、
いつからか愛唱されるようになった古い歌謡。
まさに歌の始まりであり短歌の始まり、そういう歌なのではないか?
もうひとつ、「さねさし」を使った歌がある。

  「さねさし」の欠け一音のふかさゆゑ相模はあおき海原の国

小池光の歌である。
初句「さねさし」の四音、調べを整える枕詞であれば普通は五音である。
しかし、「さねさし」は一音足らない。
初句の「さねさし」という枕詞の由来は不明である。
「さ」は接頭語、「ね」は「寝」と仮定しても「さし」が分からない。
古い歌謡であれば特に意味もなく「さ〜ねさし〜」とかリズムをつけて
歌っていたのかもしれない。
それにしても古事記に出てくる古い枕詞を現代に蘇らせた小池光の力技は凄い。
これに触発されて作ったのが今月号の歌であるわけだが、
さて、添削なのか誤植か(^^;?
確かに枕詞としては「さねさし」の四音であり、
「さねさし相模・・・」と続くべきものかもしれない。
するとやはり花山さんの添削かな...。
念の為に言えば添削されたことをどうこう言っているのではなく、
「さねさし相模」が良いか「さねさしの相模」が良いか、
その問題である。
花山さんは「さねさし相模」をとり、
私はその場合の初句四音が気になったわけである。
初句の字余りはあまり気にしないのだが、初句字足らずというのは結構気になる。
で、「さねさしの」にしたのたが、
あらためてふたつ並べてみると、
「さねさし相模」の方がいいような気がしてくる。
うーん、焼畑の火の中で愛を語り合った男女、それを淵源とする「さねさし相模」。
こちらの方がいいかな。
いずれにせよ、子供の頃、海を見るとその遥かな向こうを思った。
原体験というわけでもないのだろうが、
青い海原のかなたに象徴されるような遥かなものにいつも惹かれていたのである。
さねさし相模の青き海原が好きなのである。
Date: 2010/09/15(水)


夏休みで北海道から帰ってきた息子が何を思ったか塩を作った。
もともと魚釣りが好きで友達と海に釣りに行ったのだが、
そこで汲んできた海水を弱火で煮詰め、塩を作った。
小さめのコップに半分くらい入っているその塩はミネラルを含んでいるのか
薄いベージュ色をしている。
舐めてみると普通の塩の味だが、
なんというか、市販の安い塩のような、いかにも塩という辛さはない。
もう少し柔らかい味がする。
どのくらいの海水を使ったのか聞いてみると、3ℓだという。
3ℓの海水から小さめとはいえコップ半分の塩が採れるというのはちょっと驚きだった。
海水には3%の塩が含まれているというが言葉でそう言われてもピンとこないもので、
コップ半分の塩を実際に見ると、3ℓの海水にこれだけ塩が入っているのかと驚く。
これだけ入っていれば海水が塩辛いのも当たり前だと素直に納得する。
古代の人はどうやって塩を作ったのだろうか?
日本では岩塩はとれないので、もっぱら海水から塩を採ったわけだが、
雨が多いので天日製塩は瀬戸内のような一部のところでしか出来ず、
大部分は、藻塩を焼くか息子のように海水を煮詰めて塩を作ったわけである。
藻塩は万葉集にも詠われているが、
息子の作った塩と同じようにやはり淡いベージュ色をしていたらしい。
もっと遡れば原始の時代、海草を海水で煮て食べようとしたのかもしれない。
うっかりそのままにして煮詰めてしまい、気がつくと塩が出来ていたのではないか?
原始時代のうっかり者が、人間にとって大切な塩の作り方を発見したのかもしれないわけで、
そう考えると、失敗も決して無意味ではないと思える。
夏休みが終われば息子は再び北海道に帰る。
息子の作った塩を枝豆に振って、それをつまみにビールを飲んだ。
Date: 2010/09/14(火)


『海狼伝』
8月の四国旅行の時に、瀬戸内の伯方島に住む歌友から蜜柑やレモンと一緒に貰った
白石一郎の『海狼伝』を読み終わった。
白石一郎は戦前の釜山に生まれ、その後は九州に暮らしながら執筆活動を続け、
この『海狼伝』で直木賞をとっている。
内容は、戦国の時代、対馬に生れたひとりの青年の遍歴を辿りながら、
当時の海賊達の生態を活写した冒険小説で、なかなか面白い。
小説のあらすじは、船が好きというだけの理由で対馬の倭寇に加わった主人公の青年、
乗った海賊船が朝鮮海峡を通る商船を襲うが、
護衛についていた村上水軍の船に逆襲され捕らえられてしまう。
ここがいかにも小説らしいところだが、
青年の父親は実は瀬戸内出身の船大将で今は行方不明になっている男で、
青年の持っていた父の形見の金の鎖からそのことが分かり、
彼は村上水軍に命を助けられ瀬戸内に連れていかれる。
そのあとの恋あり冒険ありは省略するとして、
小説の最後で彼は最初に自分を拾ってくれた対馬の海賊と戦い、
それを沈めて南海への交易に船出する。
この辺のモチーフは心理学で言うところの父親殺しが背景にあるわけだが、
ひとりの青年の成長の過程として読めば、いささか素直過ぎるモチーフも受け入れられよう。
読みながら、これは映画に出来るなと思った。
パイレーツ・オブ・カリビアンの二番煎じになりそうな気はするが、
ジョニー・デップの向こうを張れるような俳優を発掘して作れば、かなりいけそうである。
読んではいないが、続編に『海王伝』があり、
倭寇が活動していた時期の東アジアの海を舞台にしたエンターテイメントに出来るだろう。
残念ながら白石一郎は既に亡くなっているので、さらなる続編はないわけだが、
ジョニー・デップ演じる海賊ジャック・スパロウも大蛸に食われてもなぜか蘇るのである。
ストーリーは適当につなげればよい。
倭寇を迎え撃つ中国の将軍やイケメンの武術家を登場させ、
黄色い声を張り上げる姑娘のヒロインともども活躍させれば、
中国の観客にも受けること請け合いである。
なんせ十三億の市場だ、これを無視する手はない(^^;
もっとも、自分としては映画どうのこうのより、
中世の海賊なり倭寇なりの姿を本当に映し出しているかどうかの方が気にはなる。
村上水軍にしても、通行税である帆別銭をとるだけで食っていたわけではなく、
彼等自身、交易に従事していたのではないか?
倭寇にしろ水軍にしろ彼等は必ずしもパイレーツではなく、
海民であり交易の民だったのではないか?
倭寇というとき、日本の海賊という意味になるわけだが、
倭寇には現代の済州島、朝鮮半島南部、中国沿海の人々もかなり加わっていたはずである。
特に済州島は倭寇の根拠地のひとつであったらしく、
朝鮮半島に上陸した倭寇の騎馬軍団は済州島から遠征した可能性がある。
朝鮮の史書には、倭寇の騎馬軍団を率いたアキバツという少年武将の名があるが、
どうも日本の名前ではない。アキバツが本名ではなく朝鮮の人達がつけた名であるかもしれず、
肥前松浦あたりに住んでいた「白水郎」と呼ばれた人達が騎乗が巧みだったという資料もあり、
あるいは松浦党のひとりかもしれないが、「バツ」というのはモンゴル系を思わせる名で、
ちなみに元の時代、済州島には元の牧があり軍馬を生産していた。
古代や中世の世界に現代の国家観や国境を当てはめて考えると本当の姿を見失うわけで、
東シナ海を囲む地域の人達の動きは、
現代人が思うよりも遥かにダイナミックだったのかもしれない。
白石一郎の小説はそういう世界を本当に描けているだろうか?
あるいは既存の海賊観から抜け出てはいないのかもしれない。
もちろん、読み物としては充分に面白い。
村上水軍の末裔である瀬戸内の歌友からもらった一冊の本を読みながら、
そんなこんなを思ったのである。
Date: 2010/09/08(水)


横浜歌会
昨日は横浜歌会。
八月は全国大会で横浜歌会はお休みだったので二ヶ月ぶりの横浜歌会である。
歌会の中心である岡部史さんが海外に出かけていてお休みなのが残念だったが、
ひさしぶりのホームグラウンドの歌会であった。
横浜歌会のいいところはその自由闊達さである。
結社に入って初めて参加した歌会が横浜歌会だったのは私にとって幸運だった。
歌会は知力で戦うゲームと仰る岡部さんのもとで勉強させてもらい、
岡部さんの深い批評を聞き、
自由に発言できる雰囲気のなかで遠慮なく自分の意見を言い、
他の人達と意見を戦わせることが出来た。
そして、歌会というのは知性と感性で戦うバトルだということを、横浜歌会で覚えた。
昨日は出席者は12名と少なかったが、
それもあって、一首一首についてかなり突っ込んだ批評をすることが出来た。
他の歌会ではここまで一首の歌について掘り下げて話をすることはなかなか出来ない。
珍しく二次会にも大部分の人が参加して、
夜遅くまで歌談義に花を咲かせた。
歌会で言い残したこと、
河野裕子さんの歌、
これからの塔がどう変わっていくのか、
歌集のこと、その他もろもろ。
河野裕子さん亡きあと、塔は変わらざるをえないだろう。
亡くなってあらためてその存在の大きさを思っている。
河野裕子さんのあとをどうやって埋め、どうやって引き継いでいくのか。
もっとも、とりあえず私に出来るのは、自分の歌を詠うことだけである。
いい歌を詠い、いい批評をし、いい歌会に出たい。
これからも横浜歌会で勉強させてもらうつもりだ。
昨日はそんなこんなでしこたま飲んでしまい、
最後にはなんの話をしていたのかあまりよく覚えていない(^^;
Date: 2010/09/06(月)


理想主義の敗北
税理士仲間の勉強会に入っていて、
その勉強会と付き合っている法律事務所がある。
勉強会の忘年会にはその法律事務所の弁護士も来たりするのだが、
そんな関係で数ヶ月に一度、法律事務所のレターを送ってくる。
何人かの弁護士がいて仕事柄さすがに皆文章がうまく、読んでいて面白い。
その数人の弁護士の中に法務大臣の千葉景子がいる。
彼女は民主党の国会議員だったがもともと弁護士であり、その法律事務所に所属している。
彼女はこの前の参議院選挙で落選し、政界からの引退を表明した。
今までのレターにも彼女の文章は載っていたが、
今回送られてきたレターの文章は随分短かった。
なにか諦念のようなものを感じさせる文章だった。
そのなかに、次のような一文があった。
「戦後65年、どのように受け止めるかは別に、時代の新しい頁がめくられた感がします。」
確かにそうであろう。
20世紀の日本は異形の日本だった。
日本の歴史を学んだ者ならば20世紀の日本の異常さに気付くはずである。
それまでの日本とまるで違う。
まるで日本ではないようだ。
20世紀の直前の明治と比べるとその違いは瞭然である。
明治の日本にはリアリティーがあった。
明治の指導者達はいずれもリアリストである。
幕末を生きた彼等は列強を目の当たりにし、自分達の弱さを思い知っていた。
おのれの弱さを知った者はリアリティーを身につける。
観念に溺れない。そんなことをしていれば身を滅ぼすことを体で知っている。
20世紀の日本人は違う。
まるで苦労して立身した家のぼんぼんのように彼等にはリアリティーがなかった。
観念でものを考え、とうとうしまいには国を滅ぼした。
その後の冷戦という構造はこの国の復興と経済発展に大きく寄与した。
冷戦構造がもたらした平和と発展は、
あるいは人々に観念に酔う余裕ももたらしたのかもしれない、平和も観念で語られた。
観念でものを語るとき、それは美しく見え、勇ましくも見える。
美しい理想を述べて人はそれに酔うことが出来る。
しかし、そこに見えるのはやはり、戦前と同じリアリティーの欠如である。
21世紀、この国の若者達は、彼等の親の世代のように観念に酔って生きることは出来ない。
もっと厳しい時代をこの国の若者達は生きることになるだろう。
千葉景子は死刑反対論者だった。
彼女がそういう信念をもっていること自体はなんら問題ではない。
しかし、彼女は法務大臣であり、司法が判断をくだしたのなら、
死刑を執行しなければならなかった。
三権分立のもとでは法務行政の長は司法の判断に従わなければならない。
おのれの信条のためにそれをしなかった彼女は三権分立を否定し、
民主主義の仕組みを否定したのである。
彼女がどうしてもおのれの信条を貫くつもりであったのなら、
法務大臣に就任するべきではなかった。
就任せずにそういう活動をするべきたった。
彼女は、最近の世論調査でなぜ85%の人が死刑に賛成しているのか
考えたことがあるだろうか?
美しい理想だけで問題は解決しない。
観念で語られる言葉は滑らかに聞こえる。
しかし、21世紀の日本人に空虚な話を聞いて酔っている余裕はない。
平和も国の未来も社会の安全も、
地に足のつかない観念や理想に委ねられないということに多くの人はもう気付いているだろう。
だから、左翼の論客は姿を消した。
それは、観念的な言葉が説得力を持たなくなったということであり、
社会の右傾化ということではない。
彼女がどういう意味で「時代の新しい頁がめくられた感がします」と書いたのかは知らない。
ただ、つい最近、役立たずの伝書鳩でしかないことを露呈した元総理といい彼女といい、
彼等の姿は確かに象徴的である。
それは戦後日本の理想主義の敗北である。
Date: 2010/09/02(木)


四国 鳴門海峡
鳴門の渦潮がどういうメカニズムで出来るのか、
「渦の道」に説明が書いてあったのだが忘れた。
昔から理科系の話になるとダメな人間である(^^;
四国の鳴門と淡路島の間に架けられた大鳴門橋。
将来の鉄道架設に備えて確保してあるスペースを利用して、
「渦の道」という渦潮観覧のための施設が作られている。
これが出来る前は橋の途中で車を止めて渦潮を見物する連中があとを絶たず随分困ったらしい。
ちょうど大潮の日だったのだが、鳴門に着いたのが思っていたより早く、
渦潮はまだ出ていなかった。
橋の紀伊水道の側に海面が白くなって、渦とまではいかないが激しく流れているところがある。
結構大きく円形に近い形なのだが、
渦の出来損ないなのか浅瀬で白くなっているだけなのかよく分からぬ。
大潮の時間が近づけば渦が大きくなるだろうということでしばらく待つことにする。
紀伊水道の側、瀬戸内の側をぼんやりと眺める。
ここから海面までは45m。時々、渦潮の遊覧船が眼下を行き来する。
たまに海面が渦のように回りはじめたと思うとそれが消えたりする。
この時間、潮は紀伊水道から瀬戸内の方に流れている。
淡路島には大きな白い風車が幾つも見える。
海は広いな大きいな、子供の頃の歌をふと思い出す。
結局、40分ぐらいそうやってボケッーとしていたら、
橋の紀伊水道の側に小さい渦が出来ては流れていくようになった。
小さいが確かに渦を巻いている。
渦の出来損ないなのか浅瀬なのか分からないところは相変わらずそのままである。
遊覧船がその近くに行くので、やはり渦の出来損ないなのかもしれない。
もうしばらく待っていればさらに大きな渦が出来たのかもしれないが、
いい加減待ちくたびれたので、その小さい渦で満足することにしてホテルに向かう。
ホテルは鳴門の海岸にあり、夕方、屋上の露天風呂から眺めてみると、
渦が流れていたところはまったく穏やかな海面になっていた。
渦なのか浅瀬で白くなっているのか分からなかったところも、
何事もなかったように穏やかである。
やはりあれは激しい潮の流れで出来た渦の出来損ないだったのだ。
夕映えの空が綺麗だ。
子供達との旅行もこれが最後かもしれない。
私も親と一緒に旅行したのは中学生のときに大阪の万博に行ったのが最後だった。
大学生になったら山ばかり登っていて親と出かけたことは一度もない。
あるいは来年あたりもう一度くらいどこか行けるか、それともこれで終わりか。
子供はいずれ離れてゆきそれぞれ自分の人生を生きるのだから、それはそれでよい。
夕映えの空と紀伊水道の海、翳ってゆく大鳴門橋、
渦が消えてすっかり穏やかになった鳴門海峡。
美しい景色を眺めながらのんびりと風呂に入った。
翌日はまっすぐ帰ってしまうのも勿体無いので、
高速道を淡路島と大阪城で途中下車して夜11時横浜に帰宅。
三日間で1700kを走って夏の家族旅行を終えた。
Date: 2010/08/28(土)


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