*--Diary--*


柴又その2  2009/12/04(金)
柴又  2009/12/03(木)
事業仕分  2009/11/30(月)
湘南歌会  2009/11/26(木)
ラーメンの方がよかったか...  2009/11/25(水)
円覚寺  2009/11/24(火)
写真のセンスが...  2009/11/17(火)
仕事の流儀に反する  2009/11/11(水)
妙義・中木川谷急沢左股  2009/11/10(火)
上野のとんかつ  2009/11/06(金)


柴又その2
柴又の帝釈天の裏の方に回ると江戸川がある。
徳川幕府が利根川を銚子の方にへし曲げるまでは利根川の本流だった川だけあって、
河川敷はかなり広い。
柴又の街よりも高い堤防の土手を越えると緑の河川敷があり、
その向こうに江戸川がゆったりと流れている。
川沿いの木立の中に矢切の渡しがある。
徳川幕府が定めた渡しのひとつで、つまり官営の渡しだった。
現在も週末だけ観光客相手に渡し舟が通っている。
伊藤左千夫の「野菊の墓」の舞台になったところであり、
細川きよしの「矢切の渡し」で歌われたところである。
「つれて逃げてよ...
 ついておいでよ...
 夕暮れの雨が降る 矢切の渡し...」
演歌というのは不思議である。
今時、この歌詞のようなふたりがいるのであろうか。
たぶん、いないなと思いながら、渡しの水面を見ていると、
今でもそういう天然記念物的なふたりがいても世の中悪くないよなという気もしてくる。
それにしても、柴又の駅前の寅さんの銅像、その碑文。
「江戸っ子の...」とはよく言ったものだ。
この矢切の渡しの向こうは下総の国。
柴又というのは武蔵の国の端っこなのであって、
昔の感覚で言えば、柴又あたりの人のことを江戸っ子とは言わない。
江戸っ子というのはある程度限定された地域で生れた人を言うのであり、
はっきり言ってしまえば寅さんは到底江戸っ子ではないのである。
寅さんを江戸っ子のひとつの典型のようにしたのは山田洋次の虚構である。
しかし、寅さんのきっぷの良さ、聞いていて気分のいい啖呵。そして人情。
あれは江戸っ子の特質と言っていいもので、
寅さんは江戸っ子ではないなどという野暮なことは言わなくていい。
たゆたう流れをあとに堤防の方に戻る。
「男はつらいよ」でもこの江戸川の堤防の土手は何度か出てきた。
足元を見るとたんぽぽが咲いていた。
柴又の参道に戻り、昼飯の食えそうなところを探す。
「とらや」という店があり、映画でも使われた店なのだが、
覗くと壁際に自動券売機が並んでいる。
おばちゃん、それをやっちゃおしまいよ。風情もなにもあったもんじゃない。
で、その先の「やまとや」という店先で天麩羅をあげている店に入った。
この店は映画の撮影の時、スタッフの休憩所などに使われた店で、
この店の主人自身もエキストラとして映画に出たりしたらしい。
店自体が寅さんの映画に出てきそうな店である。
ビールとこの店の名物という天丼を頼む。
店には、寅さんや俳優達との記念写真が張ってある。
その写真も既に古びていて、昭和は遠くなりにけりという気分になる。
店先で揚げた天麩羅をタレにつけた天丼を持ってきてくれるのだが、ちょっとタレが濃い。
しかしまあ、寅さんも撮影の合間にこの天丼を食ったのかもしれない。
そんなことを思いつつ食事を終えて、外に出る。
「ありがとうございま〜す」と店の人の挨拶が気持ちいい。
さて、歌会である。
柴又から高砂に出て、そこからは電車一本で浅草橋に行ける。
駅前の寅さんの銅像を見上げて改札に入る。
何十年振りかの柴又だった。
Date: 2009/12/04(金)


柴又
今日は東京平日歌会。例によって一日フリーにしてあるので、
今回は柴又に出かける。
幼い頃、母に連れられて浅草や柴又に行っていた。
今年から東京平日歌会に出るようになり、本当に久しぶりに浅草を歩いた。
子供の頃の記憶とはだい違っていたりしたが、
なにやらとても懐かしかった。
で、柴又にも久しぶりに行ってみたいと思っていたのだ。
京成の高砂で乗り換え柴又へ。
駅を出て驚いた。
寅さんの銅像があるではないか!
こんなものを作ったのか...しばし眺める。
銅像の土台には「男はつらいよ」の山田洋次監督の碑文がある。
「江戸っ子の・・・」というのが目についた。
なんとも言えない気分。
寅さんが江戸っ子ならば、「こんなもの作ってくれるな」と言っただろうに。
地元の観光のために作ったのだろうが、
銅像にするのに一番ふさわしくない人物を銅像にしたみたいで、無粋にも程がある。
「銅像なんか作ったら寅さんに申し訳ないからやめよう」と言い出すヤツはいなかったのか?
参道を歩いてゆくが、平日の午前中ということで人出は少ない。
歩いているのは暇そうなおじいちゃんおばあちゃんだけである。
その中に混じって歩く。
山門から柴又帝釈天に入るが、
こういう感じだったのだろうか...。
小さい時の記憶ではもっと大きかったような気がする。
子供のときは体が小さいから視点も低い。
自分の体の大きさとの相対的比較で相手の大きさを測ったりするわけだから、
物事が大人の視点から見るより大きく見えるわけで、
それでそういう印象になるのかもしれないが...。
本堂の周りの彫り物などを見て歩く。
この帝釈天は建物の周りの彫刻がかなり凝っていて、一見の価値はある。
それを眺めながら、小さいときにこういうものを見たような気がする...ような...。
奥の方に庭園があり、回廊があってそこを歩きながら庭園を見ることが出来る。
途中、庭の隅になぜか猿の形の石が置いてある。
それを見たとき、あっ!と思った。
見た記憶がある。
母に連れられてこの猿を見た記憶、それがぼんやりと浮かんできた。
そして、それにつらなる感じで、この回廊を思い出した。
今年、浅草寺に行ったとき、
子供の頃の記憶となにか一致しない部分があり、
なにか痒いところに手が届かないような気分だったのだが、分かった。
幼い頃の記憶の中で、浅草と柴又がごっちゃになっていたのである。
なにか木の塀のようなものがあったような気がしていた。
この柴又帝釈天の回廊、
それが長い年月の間に「木の塀のようなもの」という記憶に変形していたのであろう。
子供の頃、母に手を引かれて歩いた浅草と柴又。
その記憶がようやく整理されてきた。
山門から外に出ると、来たときよりも人出が増えている。
その人出を避けて矢切の渡しの方へ歩く。
Date: 2009/12/03(木)


事業仕分
事業仕分が終わった。
事業仕分自体は民間企業では当たり前にやっている事業の棚卸しで、
目新しいことではないが、
密室でおこなわれていたことを公開したということに大きな意味はあるだろう。
実際、なんのために必要か分からぬ公園とか、
天下りのために作られたとしか思えない財団とか、
そういうものを洗い出したのは功績である。
しかし、費用対収益で割り切れないものにまで、そういうアプローチで切り込んでいたのは
多くの国民の失笑を買った。
民間企業でやっている事業の棚卸しでさえ目先のことだけを考えてやるわけではない。
会社では将来を見据えた投資が、個人では将来のためのスキルアップが必要なのであり、
すべてが短期的な損得勘定で計算できると思ったら大間違いである。
スパコンについて蓮肪議員の放った
「一位でなきゃいけないんですか? 二位じゃダメなんですか?」
という発言はギャグとしてはこのうえないものだった。
二位の技術など買い叩かれるだけだ。
小学校の運動会の駆けっこの順位ではないのだ。
国の未来、国際競争力、そういうものがかかっているということを
彼女は理解できていたのだろうか?
「歴史の法廷に立つ覚悟があるのか」
そういう重い言葉も出た。
来年もやるのだろうし、やるべきだと思うが、是非、仕分人も仕分して欲しい。
国の未来がかかったことを仕分するのだ。それが出来る優秀な人でなければ困る。
事業仕分をパフォーマンスにしてしまってはいけないのである。
今回は多分にパフォーマンスだった。
仕分の対象も財務省があらかじめ用意したものだった。
仕分するべきものは他に沢山あったはずだ。
例えば、優遇され過ぎている公務員官舎。
官舎に入っている役人に、民間と同じレベルの家賃を負担させるだけで
膨大な金額が出るはずである。
今回の事業仕分に垣間見えたパフォーマンス性は、
政治そのものをパフォーマンス化してしまう危うさにつながりそうで怖い。


Date: 2009/11/30(月)


湘南歌会
今月の湘南歌会、出席者は12名。だいたいこのぐらいの人数で推移しているのだが、
本当はもう少し欲しい。15人〜20人くらいが歌会の適正人数か。
で、今回の湘南歌会での最高得票の歌は雪を詠った歌だった。
例によってまだ誌面に出ていないのでここで紹介することは出来ないが、
雪の降る向こうにも雪が降り始め、夜の闇を通して雪が降る。
というような歌意の歌である。
雪は雨と違い、奥行きを持って降る。
雪が降っているのを見ていると、こちらの雪を通して向こうの方にも雪が降っているのが見える。
こちらに雪のカーテンがあり、それを通して向こうにも雪のカーテンがある。さらにそれを通して
そのまた向こうにも雪のカーテンが見えるような感じ。
そういう感じをよく表現していると好評だった。
出席者12人中5人が選歌したが、私は下句にくどさを感じて採らなかった。
採らなかった理由とは別に私は気になったことがあった。
私はその歌の作者が見当ついた。
実は、その人から頂いた歌集に似たような歌があるのを私は覚えていた。
敗戦後、シベリアに抑留される日本兵捕虜の隊列に雪が降っている。
その隊列が進む向こうにも雪が降っている。
そういう歌だった。
良い歌だったので印象に残っていたのである。
案の定、その最高得票の歌はその人の作品だった。
久しぶりに出席した歌会のあとの飲み会でも、その歌を誉める声が聞えた。
しかし、私は複雑な気持ちだった。
歌を始めたばかりの人であれば、そういう自己模倣もあるだろう。
歌を詠む人は、好きな歌人の歌を模倣しそれを越えようとするのであり、
模倣は決して悪いことではない。ひとつの過程である。
同じモチーフを繰り返し詠うということもある。
自己の作品を模倣することもあるわけだが、
それはあくまでも過程であって、模倣で終わってしまえば表現者として危うい。
既に歌集も出され、しかるべき評価も受けている人の歌に自己模倣を見てとったとき、
私は、一抹の寂しさを感じずにはいられなかったのである。

Date: 2009/11/26(木)


ラーメンの方がよかったか...
円覚寺から鎌倉へは巨福呂坂を通って入る。
鎌倉は周囲を山と海で囲まれた街で、
頼朝がここに幕府を開いたのも、
鎌倉が防衛に適した地形であったことがひとつの要因だったわけだが、
巨福呂坂も昔は小袋の切通しと言われ、
鎌倉の内と外をつなぎ、非常時には鎌倉を守る要害のひとつだった。
建長寺の先で道はわずかに登って切通しを抜ける。
と言っても、本来の小袋の切通しは現在の自動車道のやや上にあったはずで、
もっと狭い道だった。
鎌倉幕府滅亡のとき、
この小袋の切通しは最後の執権・北条守時(赤橋守時)の指揮する部隊が守った。
狭い切通しの突破は困難で新田勢はついにここを破ることが出来なかった。
守時は州崎の戦いで討ち死にしているが、
州崎は小袋の切通しよりも西、つまり切通しという防衛線の外である。
守時は切通しに守備隊を残し、
自らは稲村ガ崎方面に向かった新田義貞の軍の背後を突こうとしたのだろう。
最後まで戦うことをやめなかった。
そういう凄まじさが鎌倉武者にはある。
現代において日本的と言われるものの多くが鎌倉時代に形成されたわけだが、
鎌倉という世を思うとき、現代の感覚とは明らかに違う何かに戸惑うことがある。
その後の戦国の世とも、江戸時代の武士道とも違うものが、確かに鎌倉にはある。
おそらく彼等は現代人の倫理とは異なる倫理に生きていた。
切通しを抜けると道は下り坂になり、鶴岡八幡宮に突き当たる。
一週遅れの七五三らしい家族連れが結構いる。
さて、昼飯である。
とりあえず今日は一茶庵で食べようと思っている。
一茶庵というのは、北関東出の蕎麦屋の暖簾で、蕎麦の世界では割と有名。
鶴岡八幡の入り口近くに鎌倉一茶庵があるのだが、
暖簾をくぐって中に入ると、何人か順番待ちの人が座っている。
行列してまで食べる習性はないのですぐに外に出る。
そのまま若宮大路を駅の方へ。
道の向こうに以前入った鎌倉飯店があるのだが、味はいまいちなのでとりあえず今日はパス。
途中の店を適当に覗いて何か食べようと思っていると、いかにも昭和チックな蕎麦屋があった。
中に入ると混んでいるがとりあえず座れる。
天ざるとビールを注文。
隣のテーブルに観光バスのガイドさんと運転手らしき人が食事をしているのだが、
このガイドさんの方が明るいと言えば明るいのだろうが、早い話うるさい。
食べながら話しやまないのを聞きながらビールを飲む。
そばが来た。
ざるだから海苔が乗っているのだが、これが山盛りである。
別に、海苔を山盛りにしてもらったからサービスしてくれたとは思わないわけで、
海苔を盛るにも丁度いい量というものがあるだろう。
天ぷらは美味くもなく不味くもなく、ま、普通の天ぷらである。
で、蕎麦の方はとりあえず海苔をどけて食べる。
うーん...。
汁が濃いのだが...。
ただ濃いだけで、辛いのでもなく甘いのでもなくなにやら雑な味。
蕎麦もいまいち風味がない。
立地条件がいいので今日のような休日は客が沢山入るのだろうが...。
最後に残った海苔だらけの蕎麦を試しに食べてみた。
たたでさえ蕎麦に風味がないので山盛りの海苔の味が蕎麦を圧倒。
これなら鎌倉飯店でラーメンでも食べるんだったかな...。
明らかに場末のラーメン屋の昭和を思い出させるような田舎風のラーメンなのだが、
山崎方代が世話になった店。方代を偲んでラーメンすすっている方が良かったかもしれぬ。
さて、昼飯はぱっとしなかったが、とりあえず歌会である。
いつものように鎌倉から江ノ電で藤沢に向かう。
湘南の海もだいぶひと気が少なくなっている。
Date: 2009/11/25(水)


円覚寺
毎月第四日曜は結社の湘南歌会。
場所が藤沢なので、午前中に鎌倉あたりを歩いてから行くことにしている。
11月末あたりが鎌倉の紅葉が一番綺麗な季節である。
ということで、円覚寺に紅葉を見に行った。
言うまでもなく鎌倉五山のひとつ。
元寇ののち、日本・元・高麗の戦死者を敵味方の区別なく弔うため
北条時宗によって建立された寺であり、
元に滅ぼされた南宋から亡命同然に日本に渡ってきた無学祖元が開山。
北鎌倉で降りるとすぐそこが円覚寺の参道である。
というか、線路の向こう側に鶴岡八幡宮の入り口にある源氏池・平家池と同じ作りの池が
あるから、北鎌倉の駅そのものがもともとの円覚寺の寺域にあるのである。
明治になって、寺の敷地の中を線路が通ってしまったのであろう。
紅葉見物の人でかなり混んでいる。
山門をくぐり仏殿の前に行くと見慣れない木が植えられている。
見ると「柏槇(びゃくしん)」と書いてある。
いかにも古木という感じで、
樹皮が幹の三分の一くらいめくれて、赤っぽい樹幹がのぞいている。
あとで調べてみたら、大木になるにはかなりの年数がかかる木であるらしい。
禅の修業になにやら通じるところがあって植えられているのだろうか?
周囲の紅葉はなかなか綺麗。
紅葉に大勢の人がカメラを向けているのだが、自分のカメラはしまったまま。
空がどんより曇っているので、余程うまく撮らないといい絵にはならない。
大抵、あとで画像を見てがっかりすることになる。
写真を撮っている人達の脇を通って細い道に入り、砂岩の崖に作られた石段を登る。
仏殿の西側のこの砂岩の崖の上には庵があるのだが、
実は、そこからの円覚寺の眺めが一番良い。
山門、仏殿、方丈などの建物とそれを取り巻く木々の紅葉を
高いところから俯瞰するように眺めることが出来るのだが、
あまり知られていないようで、ここにはそれ程人が来ない。
しばらく紅葉を眺め、再び下に降りる。
他の観光客に混じって寺の奥の方へ歩く。
カップルが多い中、おじさん一人で歩いているのもあまり格好のいいものではないが、
自分としては、短歌の材料を見つけたくて歩いているのである。
途中の池に翡翠がいた。
見事なホバリングから水の中に飛び込んでいて、その瞬間の青が美しい。
不思議と周囲の人は翡翠に気がついていないようだった。
風景の中にあるディテールに大抵の人は気がつかないのだが、
短歌の材料はむしろそういうところにある。
しばらく翡翠を眺め、山門の方に戻る。
鮮やかというのではないが、落ち着いた美しい紅葉である。
山門を出、鎌倉駅に行くため巨福呂坂に向かう。
途中の紅葉もなかなか渋い。もうすぐ秋も終わりである。

Date: 2009/11/24(火)


写真のセンスが...
所属している短歌結社のホームページがリニューアルされた。
覗いてみて、ちょっと苦笑(^^;
トップページには結社紙の表紙が飾られていて、それはいいとして、その下の写真。
歌会の風景の写真なのだが、これがどうもいまいちセンスないな...(^^;;
税理士会の広報などをしていたために、
こういうところで使う写真には多少気を遣う癖がついてしまっている。
使えない写真というものがあるわけである。
絵になっていないとか、写真の端の方で人が切れてしまっているとか...。
例えば、人が大勢写っている写真を使う場合、
写真の右端の人が顔も体もスパッと包丁で切ったように左半身だけ写っているとか、
あるいは、写真の下の方にギロチンされたみたいに首から上だけが写っているとか、
そういう写真は基本的に使えないわけである。
で、結社のホームページの写真だが、
まず、絵になってない。
短歌結社だから歌会の写真というのは分かるのだが、
一緒に見ていた息子に「この写真どう思う?」と聞いたら、
苦笑するのみ(^^;;;
写真の下の方、中央に正体不明のうなじのおじさん(^^;(^^;;
歌会の写真だから手前の参加者の後姿が写っているわけだが、その人のうなじが変に目立つ。
端の方には人の顔が半分に切れているし、
反対側は手だけが切れて写っている。
まあね、短歌結社なんだから、いい歌作っていい批評出来ればいいわけで、
ホームページで使う写真の良し悪しなんて関係ないと言えば関係ない。
歌会の雰囲気が伝われば良しとするべきかな。
編集部の人達はボランティアで頑張っているのだから、
傍で写真のセンスがどうのこうのと言うのもバチ当たりかもしれない(^^





Date: 2009/11/17(火)


仕事の流儀に反する
脳科学者の茂木健一郎が東京国税局の税務調査を受け、
3年間で4億円の申告漏れを指摘されて期限後申告をしたらしい。
新聞に本人へのインタビューが載っていたが、読んで呆れた。
「忙しくて税務署に行く暇がなかった」
「節税には興味ないので国税局が税額を計算してくれれば楽なんですが」
忙しくてという言い訳が通用するなら、仕事のミスはみんなそれで済むではないか。
大人は忙しくて当たり前だ。
子供のような言い訳をするべきではない。
日本の税制は申告納税制度である。賦課課税ではない。
社会に必要な資金をその社会の構成員が負担する。
負担する以上、社会の構成員は発言する権利を持つ。
義務を負う者は同時に権利を待つという、民主主義の裏打ちとしての制度、
それが申告納税制度である。
これだけ負担している、当然、使い道に発言する権利がある。
昔、カリフォルニアであった「納税者の反乱」はまさにそれである。
年貢のような賦課課税とは、そのよって立つ精神が異なる制度だ。
「節税には興味ないので国税局が税額を計算してくれれば楽なんですが」?
自分で申告をするのは節税のためではない。
社会人としておのれの責任を果たし、
責任を果たした以上、発言するべきは発言する。
茂木健一郎は、日本の申告納税制度が民主主義の精神と深くかかわったものだということを、
全く理解していない。
彼はNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」でキャスターを務めている。
良質な番組である。
今回の件とそれに関する彼の発言は、視聴者を失望させた。
その彼を降板させないNHKも認識不足の謗りはまぬかれない。
茂木健一郎もNHKも、仕事の流儀に反する。




Date: 2009/11/11(水)


妙義・中木川谷急沢左股
妙義には面白い沢が何本かある。
碓氷川の水系で、中木川の烏帽子沢、小山沢、谷急沢、
あるいは入山川の並木沢、北烏帽子沢、裏谷急沢などなど。
いずれも春から晩秋まで楽しめる沢だが、特に秋の紅葉の季節が良い。
今回は谷急沢の左股に入った。
妙義山塊の最高峰、谷急山に突き上げる沢で、
以前、この沢の右股を登ったことがあるがなかなか面白い沢だった。
妙義湖の奥の国民宿舎近くの駐車場に車を停め、ここから出発。
20分程歩いた林道の橋から川に下りる。
ここで装備をつけて川を遡り、しばらく行くと谷急沢が出合う。
最初のへつりや滝でいささか厳しい思いをするが、とりあえず通過。
左股に入ってしばらく柱状節理の沢の中にナメや滝が続く。
この辺までが核心部で、
そこを通過するとあとはゴーロの中にときどき小さな滝が出てくる感じで、
そのまま高度を稼ぎ源頭に着く。
問題はここから。
妙義の沢というのは、妙義特有の恐竜の背のような岩稜に突き上げる場合があり、
気をつけていないとかなり厳しい思いをする。
我々はルート図を見て、簡単に稜線に出られる方を選んだ。
ここまではルート取りには問題なかったのである...。
稜線へ続く窪のような沢床を登った我々はいつのまにか右へ右へとトラバースしていた。
踏み跡があったのである。
その踏み跡が沢から稜線にのぼる踏み跡であろうと思い進んだのだが、
そのうち、変だと気がついた。
我々が進もうとしている方向とは逆の方向に踏んでいる踏み跡だった。
つまり、向こうからこちらに来ている踏み跡。
いやな予感を抱きながら進むと支尾根に出た。
その支尾根の上には岩峰が聳えている。
行ってみると、谷急山への稜線のP1かP2あたりの岩峰で、
ルートを探したが、登山道はどうやら岩峰の反対側で、こちら側からは岩峰を越せない。
つまり、登山道に出られない(^^;
ありゃ...。
考えてもしょうがない。岩峰の下でしばらく周囲の紅葉を眺め、今登ってきた急な斜面を下る。
稜線に出られない以上、登ってきた沢を下降するしかない。
幸い、それほど難しい沢ではなかったので、気をつけていれば下れるだろう。
水流のあるところまで戻り、滑りやすい沢床を用心しながら下る。
途中、尾根から続いている女道と呼ばれる登山道に出合う。
あまり人の通らない道なのだが、とりあえずそこを下ってみると、
案外あっさりと下の林道に出た。
たぶん、我々は源頭で右にトラバースし過ぎたのである。
我々が辿った踏み跡は、右の沢の方から岩峰を迂回して稜線に出る踏み跡だったのだろう。
我々はその踏み跡を逆に辿ってしまい、岩峰の下で行き詰った。
右にトラバースせず、直上、もしくは左の方に行っていれば、谷急山の稜線に出られたはずだ。
右に行ってしまったために、恐竜の背のような岩稜の下でしばし彷徨ったのである(^^;;
紅葉の妙義をちょっと風変わりに楽しんだ一日だった。





Date: 2009/11/10(火)


上野のとんかつ
毎月第一水曜は所属している短歌結社の東京平日歌会。
月に一回、この日だけは平日だが仕事はお休みにさせてもらっている。
せつかくの休みなので少しでも有効に使いたい。
大抵、午前中にとごかに寄ってから歌会に行っている。
今回は上野の国立西洋美術館に「古代ローマ帝国の遺産展」を見に行った。
主にポンペイから出土した美術品や工芸品の展示だが、
どうもレプリカを見ているようで、展示品の質はそれほど高いという気はしなかった。
正直言って、過日「海のエジプト展」で見た
プトレマイオス朝エジプトの美術の方が輝きがあった。
あるいはローマの芸術そのものがギリシアのそれのレプリカ的な一面があるので、
そのせいかもしれない。
美術館を出て、とりあえず昼飯である。
水曜なので池之端藪も上野藪もやっていない。
なにを食おうかと思ったら、とんかつが浮かんだ。
浅草にうなぎ屋が多いように上野には割と知られたとんかつ屋が多い。
明治になって洋食が入ってきてから、カツレツを和風に食べさせる店が出てきたのであろう。
上野は現在でもそうだが、当時も銀座のような洋風の繁華街ではなく、
和風の色の濃い繁華街だったのではなかろうか。
そういうところで肉を和風で食べさせる店が多く現れたのかもしれない。
「ぽん多」「双葉」「蓬莱屋」あたりが有名かな?
で、とりあえず双葉に行ってみる。
上野公園を出て広小路の方へ、途中から脇に入り確かこの辺り...。
シャッターが閉まってる!?
見ると、「仕入不調のため11月6日まで休業します」という張り紙。
グルメ番組でも紹介されたことのある店で、こだわりもあるのだろう。
いい材料が仕入れられないと店を開けないらしい。
さて、「ぽん多」は昼飯にしちゃ高いし...。
仕方ないので、上野広小路の交差点を御徒町の方に曲がり、
たぬき小路という細い路地に入る。
その先に「とん八亭」がある。
小さな店で中に入るとカウンターが空いていた。
ここはランチをやっている。
ランチとビールを注文。
ビールをのんびり飲んでいるとランチがきた。
色の薄いとんかつで、キャベツが山盛りに添えてある。
やはり、とんかつにはキャベツがついていなければならぬ。山盛りならなお嬉しい(^^;
食べてみると柔らかい。
さくっとした柔らかさで、たまにあるカリカリとした揚げ方ではない。
結構旨い。
隣りの客は一度食べ終わっから、またカニフライとかを注文していた。
なかなか美味しいとんかつだった。
ランチ800円でこれなら文句はない。
ちなみにひれかつ定食は2000円だった。肉の厚さが違うのかな?
勘定を終えて外に出る。
さて、歌会にいかねばならぬが...。
うーん、やはり昼飯はずずっと蕎麦を啜るぐらいが丁度いいかな?
ささっと蕎麦を食って外に出ると、さあ、昼からもうひとっ働きするか、という気分になれる。
がっつりととんかつを食って外に出ると満足してしまって、
さあ、帰るか、みたいな気になってしまうような...(^^;;



Date: 2009/11/06(金)


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