*--Diary--*


東山界隈  2009/08/28(金)
全国大会初日  2009/08/27(木)
羅城門  2009/08/26(水)
東寺  2009/08/24(月)
憂鬱  2009/08/19(水)
東京平日歌会  2009/08/14(金)
浅草のうなぎ  2009/08/13(木)
コストパフォーマンス  2009/08/11(火)
仙台七夕・・・ビジネスマンの視点から  2009/08/10(月)
湯檜曽川東黒沢  2009/08/03(月)


東山界隈
歌会が終わり、京都駅前の道路を横断して旅館通りに入る。
今日の宿泊はここの「京家」にとっている。
この旅館通りというのは、本願寺に参拝にくる信徒のための宿坊が並んでいたところらしい。
すぐそばが京都駅だというのに、静かでちょっと風情もある。
そのなかで「京家」はこじんまりとしているが感じのいい宿だ。
全国大会はホテルの宿泊つきで夜は懇親会もあるのだが、
今回は宿泊なしで申し込んだ。
せっかく京都に行くのだから、大会のついでに京都を歩きたかったし、
そもそも懇親会というのに興味がない。
歌会のときも「年に一度の大会ですから、顔と名前を覚えて頂いて」とか言っていたが、
だいたいもって、いい歌を詠っている人には「あの人が○○さんか」という感じで、
自然に目が行くものだ。いい歌詠ってないのに顔だけ覚えてもらってもしょうがない。
懇親会とかに出て顔を覚えようとも思わないし、顔を売ろうとも思わない。
宿に荷物を置いて、鴨川の方に歩く。
しばらくして地図を宿に忘れてきたことを思い出した。
ま、いいや、出る前にざっと地図を眺めてきたからなんとかなるだろう。
昔から方向感覚は割りといい。
宿で美味しい京料理の食べられるところを聞いたら、
建仁寺の近くの「哲酔」という京割烹の店を教えてくれた。
地元では知る人ぞ知る名店なんだそうで、カウンターもあり一人でも大丈夫らしい。
ついでに京都らしい散策路はと聞いたら、やはり建仁寺の近くの花見小路がいいだろうという。
というわけで、とりあえず、建仁寺に行けば分かるかな。
で、地図がない。その建仁寺はどうやって行く?(^^;
七条大橋で鴨川を渡る、川のあちこちにダイサギがいる。白が夕方の川で目立つ。
適当なところで北に行く道に入る。
しばらく行くと右側に大きな神社が見えてきた。
行ってみると豊国神社だった。
いうまでもなく豊臣秀吉を祀った神社である。
家康が天下を取ってから秀吉の廟所は破却されていたのだが、明治になって復興された。
もう夕方なので社殿には入れない。左の方に大きな鐘楼があるので行ってみる。
かなり大きな鐘だ。
なにやら不似合いなほど大きい鐘だなと思い、帰ってから調べてみたら、
豊国神社の北隣が方広寺で、方広寺の鐘だった。
「国家安康」
家康が豊臣を滅ぼすために言いがかりをつけた「方広寺の鐘」である。
今でも現存しているとは知らなかった。
豊国神社を出て道路を渡り、少し行くと道の向こうに築山のようなものがあり、
大きな供養塔らしき石造りが立っている。
なんじゃ? と思って行ってみると、「耳塚」である。
秀吉の朝鮮出兵の折、普通なら功績のしるしとして首を持ってくるわけだが、
さすがに朝鮮から首を持ってこられないというわけで、
首の代わりに敵兵の耳を削ぎ、それを塩漬けにして樽に入れて送ったという。
これだけ敵を倒しましたという印として送るわけだが、なにやら気分のいい話ではない。
その送られた塩漬けの耳を埋めて供養したのが「耳塚」である。
ここからさらにテキトーに歩く。なんせ、地図を忘れている。
たぶん建仁寺はあっちの方だろうという勘だけで歩いている。
しばらく行くと六波羅蜜寺があった。
へぇ〜、この辺が清盛のいた六波羅だったんだと妙に感心しながら歩いて行くと辻がある。
曲がるときにふっと傍らを見ると「六道の辻」という石柱が立っていた。
えっ! ここが六道の辻!
昔、鴨川の東は葬送の地だった。風葬もおこなわれていたらしく鳥辺野といわれた。
死者は鴨川を渡って運ばれ、僧侶がこの六道の辻で引導を渡した。
ここから先は死者の地であり、六道の辻はこの世とあの世をわけるところだった。
今は、京の普通の通りの一角である。
思わぬ発見でしばらくその辺を眺めていたが日も暮れてきた。
早く建仁寺を見つけなければならぬ。そうしなければ飯が食えぬ。
ちょっと長くなった。
なにしろ、豊国神社といい方広寺の鐘といい耳塚といい六波羅といい六道の辻といい、
別にそれを見ようと思ってそこに行ったのではない。
テキトーに歩いていると次から次へといろいろなものに出くわすのである。
この続きは後日。さて建仁寺には辿り着けるのであろうか(^^;;

   六道の辻 → http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hi013.html


Date: 2009/08/28(金)


全国大会初日
全国大会初日は歌会である。
6組に別れ、一組46〜48人で歌会をやる。
私の入った組は48人となっていたが、欠席者もいたので42人くらいだったのだろうか。
吉川浩志さん、三井修さんの二人の選者としばらく前まで選者をされていた
澤辺元一さんのいる組だった。
去年の東京での大会では批評団方式だったが、今回は通常の歌会方式。
で、結論から言えば...。
40人以上の人数で通常の歌会をやるというのは無理なのではなかろうか。
時間に追われ一首一首についてじっくり意見を戦わせることが出来ない。
どうしても不完全燃焼が起きる。
その不完全燃焼について書く(^^;
言いたいこと沢山あったのだが、時間がないのでどんどん進むわけである。
で、一番言いたかったのはこの歌。例によって掲載前なので出せないのだが、
「月がふたつになっても畏れない、宇宙に拡がる私の老眼」
そんな内容の歌である。
この歌について、ある評者が
「月がふたつに割れるような天変地異があっても私は畏れない、年をとり老眼になったが、
私はそういう気持ちで宇宙を見上げて立っている。そういう気宇壮大な歌。素晴らしいと
思います。ただ、歌の内容からすれば『畏れ』ではなく『怖れ』にするべきだと思います」
と評した。
私は「えっ!?」と思った。発言を求めようとしたとき司会が選者にふってしまった。
吉川さんが総評をしたわけだが、
「まったくその通りですね」とのこと。
なにっ!? マジ?...(^^;;
うーん...。
私はこの歌について、作者が「畏れ」という言葉を選んでいることに着目した。
「畏れ」というのは神や人知を超えた自然の現象に対し、敬い畏まる、それが「畏れ」である。
「怖れ」や「恐れ」とは意味が違う。
古来日本人は山や海や森の木にも神を感じた。
空の月にも神を感じ敬い畏まるという姿勢を持っていた。
私はこの歌を次のように解釈した。
「年を取り老眼になった作者が夜空を見上げたとき、月がぼやけてふたつに見える・・・
ああ、昔の人は月を見上げても畏れ畏まったものだが、年をとった自分はふたつに見える月を
畏れもせずに、宇宙を見上げて立っているのだよ」
老いた自分を少し可笑しみをこめて詠っている、しかし、決して卑下しているのではなく、
むしろ爽やかさのようなものが感じられる。そういう歌だと思ったのだ。
そうでなければ作者はなぜ「畏れ」を選んだのか?
月がふたつに割れるような天変地異だから「畏れ」よりも「怖れ」にした方がいいというのは、
天変地異という読みが先にあって、その読みに合わせて言葉を変えるべきだという話だろう。
そうではなくて、作者の選んだ言葉で読むのではないのか?
なぜ天変地異で「畏れ」なのだ? 月が割れるような惨事をなぜ敬い畏まるのだ?
第一、そんな天変地異を持ち出して何を詠いたかったというのだ、私の老眼?
.....。
結局、時間がなくてそのまま歌会は進行した。
人数が多いと一首一首に時間をかけて議論することが出来ない。
仕方ないことなのだが、不完全燃焼感が残るのみ...。
ちなみに問題の歌の作者は澤辺元一さんだった。
今回、三井さんと吉川さんが総評を受け待っておられたが、
三井さんの批評に同意出来るものが多かった気がする。
正直言って、三井さんとは歌の傾向が違う気がしていたので、これは意外だった。
歌会全体としては、意味を求めようとする読みが散見されたような気がする。
歌会の最後の方で三井さんが、「あまり歌に意味を求めようとしない方がいい」と
言っていたのが印象的だった。
私は岡部史さんを中心とする横浜歌会で学んできた。
「歌会は知力を戦わせるゲーム」と仰る岡部さんのもとで自由に発言させてもらい、
勉強させてもらったわけだが、どうもそういう私にとって表面を撫でて終わる歌会というのは、
ちょっと辛抱がきつい(^^;;;
誰のせいということではなく、
適正規模を超えれば歌会はそうなってしまうのである。
通常の歌会は20人くらいが限度なのではないだろうか。
そういう問題があるから、批評団方式という歌会方式が出てきたわけであろう。
全国大会の規模になったら、無理して通常の歌会形式にこだわらなくて
いいのではないだろうか?
来年以降どうしようかな...。
高い参加費払って不完全燃焼するくらいならば、
観光がてらに行って一般公開の講演だけ聞いていた方がいいかな...。
ま、来年のことは来年考えよう。
今から来年のことを考えていては、
それこそ午前中に見てきた羅城門の鬼が笑うというものである(^^




Date: 2009/08/27(木)


羅城門
羅城門は平安京の南の門。都の内と外を分ける門だった。
ここから朱雀大路が大内裏まで直線で約4k続いていた。
平安京は西の桂川と東の鴨川の間の平野に作られたわけだが、
朱雀大路の西側が右京、東側が左京だった。
都市設計に基本的に無理があったのか、
あるいは平安京の建設と同時並行でおこなわれていた蝦夷との戦いで、
当初見込んでいた予算が確保出来なくなり、
桂川沿いの湿地帯の排水工事が進まなかったのか、
右京は早い時期から衰退し、都の中心は左京に移る。
このために本来は都の中心であるべき朱雀大路は都の外れになり、
羅城門は本来の機能を失い荒れ果ててゆく。
816年に嵐で倒壊しその後再建されたが、
980年、再び暴風で倒れて以降は再建されず放置された。
芥川竜之介の『羅生門』は今昔物語から題材をとったものだが、
荒れ果てた羅生門で、鬘にするために死んだ女の髪を抜く老婆と、
その老婆から着物を奪う下人の遣り取りを描いている。
当然、980年以前の話であるはずだ。
紫式部が源氏物語を書くしばらく前くらいかもしれない。
ちなみに彼女が大人になったとき、既に羅城門は立っていない。
東寺から西にしばらく行き、途中から住宅の中の細い道に入ると小さな児童公園がある。
そこに「羅城門遺跡」という石碑がポツンとたっている。
9間5戸の重層門。幅36m高さ21mの巨大な門の跡にあるのはこれだけである。
ここから北に直線で朱雀門まで続いていた朱雀大路も跡形もない。
当たり前のように家で埋まっている。
試しに朱雀大路だったところを横断してみた。
広い。朱雀大路は幅84mの道路だった。
横断してみて思うのは、必要以上に大きい道路、ということである。
これだけ幅の広い道路があると、
道路のこちら側とあちら側とで生活圏が分かれたのではないか?
かなり不便だったろう。
外国からの使節を案内するための道、閲兵などもおこなわれたのかもしれない、
そういう道である。生活を考えて作られた道ではない。
右京が衰退したのは、あるいはこの不便さも関係したのかもしれない。
そんなことを思いながら、しばらくその辺を歩き回った。
京の下町の長屋のような家もあり、なかなか興味深い。
それにしても、都の巨大な門の跡に残るのが、
小さな石碑のあるまことに小さな児童公園だけとは...。
倒壊し放置されていた羅城門はどのような光景だったであろう。
荒れ果ててゆく右京、
道としての機能を失い、あちこちで勝手に家を建てたり耕されたりしている朱雀大路。
崩れて横たわる羅城門。
王朝に最早、都市の設計をやり直す力はなく、
関東の地には武装開拓農民から生まれた武士階級が育ちつつあった。
旧体制との矛盾は、将門の乱などの騒乱として時に火を噴いた。
羅城門が崩れたのはそういう時代である。
羅城門が崩れてから176年後、保元の乱で武士の時代が幕を開ける。

  羅城門跡  → http://www.hogege.com/rajyoumon.htm






Date: 2009/08/26(水)


東寺
短歌結社の全国大会で京都に行ってきた。
せっかくの京都なので、ついでに何ヶ所か歩いてきた。
新横浜から新幹線に乗れば京都まで2時間。近いものである。
10時前に京都に着いて、そのまま東寺に行く。
東寺、教王護国寺ともいう。
平安京設計時に西寺とともに作られた官立寺院だったが、
その後、空海に下賜され真言宗の総本山となった。
何度もの火災で創建当時の建物は残っておらず、
現在の建物は室町時代以降に再建されたものが大部分であるようだが、
伽藍の配置は創建当時のままであるらしい。
「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
地図を見て、正面は当然に南の側だろうと京都駅からそちらの方に回り込む。
歩いて15分くらいか、東寺の一角に出る。
堀があり、向こうに大きな南大門が見える。
堀を渡り南大門をくぐると正面に大きな金堂があり右に五重の塔がある。
奈良時代からある伽藍配置である。
で、そちらに行こうとしたが金堂も五重の塔もその手前にフェンスがあって入れない。
あれ? 南大門が正面じゃないの? 配置からしたってここが正面のはずだろう?
なんで寺の正面から入れないの?
左の方に広い通りのようなところがあり、仕方がないのでそこをずうっーと入ってゆくと
境内の北側に出、そちらの方からフェンス内に入場するようになっていた。
本来は平安京以来の九条大路に面した南大門が正面のはずだが、
今では駅や道路の関係だろう、寺の東の門が正面のように使われている。
観光バスや車で来る人のなかには、東側の門を東寺の正面と勘違いし、
東寺の本来の正面であるあの大きな南大門に気付かないという人もいるのかもしれない。
寺に入ったとき、寺の裏の方からそれぞれの伽藍を回ってゆくという不自然さがあるわけだが、
国宝・重文の建物が並んでいるので、あるいは入場料を取る都合でか、
金堂や講堂・五重の塔などの伽藍のある一帯はフェンスで囲まれ、
そちら側からしか入れないのだから仕方がない。
ま、もし、歩いていてその不自然さに気付かない人がいたら、
その人は目の前にあるものしか見てないということだから、それはそれで仕方ない(^^;
伽藍は堂々としており、よくこんな大きな木造建築を作ったものだと感心する。
仏像や如来の像も沢山あるのだが、
私は帝釈天や広目天、増長天などの天部の像が好きだ。
彼らはいい顔をしている。
五重の塔も格好がいい。確か、日本で最大の五重の塔ではなかったろうか。
それにしても大きな寺を作ったものだ。
教王護国寺という名の通り、国家鎮護のために人々はこの大きな寺を作った。
現代人から見れば、国家鎮護を祈るために大きな寺を作るなど無意味に思えるだろう。
しかし、当時の人々にとっては違ったはずだ。
663年の白村江の敗北以降、時の朝廷は大陸からの侵攻に備えなければならなかったし、
大きな川のない平城京が人口の増加と共に衛生面で問題を抱えたことは、
疫病の恐ろしさとして人々の記憶に残っていたはずだ。
さらに平安京に遷都した桓武帝の時代というのはまさに戦争の時代だった。
アテルイに率いられた蝦夷の軍勢に朝廷の軍は苦戦していたのである。
戦いや疫病から国を守り民を守る。
科学の未発達の時代、人々は当然に神や仏に祈ったわけである。
切実な祈りがこれだけ大きな寺を作らせたのだろう。
蝉が啼いている。
さて、今日は午後一時から全国大会初日の歌会なのだが、
その前にもう一ヶ所行きたいところがある。
東寺から西に少し行ったところに昔、羅城門があった。
794年に遷都された平安京の南の門であり、都の内と外をわける門だった。
芥川龍之介の小説『羅生門』の舞台になったところ。
980年に暴風で倒壊し、それ以降再建されなかったのだが、
その羅城門の跡を訪ねてみたいのだ。

Date: 2009/08/24(月)


憂鬱
いささか憂鬱なのだ。
税理士会には別組織で税理士政治連盟というのがあり、
必要な政治活動つまりロビー活動をおこなっている。
毎年の税法改正についての陳情などがあるわけで、
大抵の業界団体では多かれ少なかれやっていることであるが、
今年はその税政連に引っ張り出されている。
しかも、衆議院選挙である。
割り当てで、税政連で推薦している候補の選挙事務所に半日程行って、名簿片手に電話で
「○○候補をよろしくお願いしま〜す」などということをするのである。
はっきり言うが、今回の選挙でそういう選挙応援のようなことをするのがイヤなのである。
今回の衆議院選挙については日が経つにつれて幻滅ばかりが広がる。
自民党が国民の信頼を失ったのは当たり前だ。
彼らは法律を作るという政治家の本来の仕事すら官僚に任せ、
この国を官僚に都合のいい国にしてきた。
同情する余地はない。つぶれてしまえばいい。
一方の民主党は異様なバラマキを掲げて何を考えているのだ?
あのマニフェストをそのまま実行したら苦しむのは中小零細企業だろう。
国をひとつの経営体に例えるなら、
その経営体の体力を落とすようなことをしながら分配する金を増やそうというのは、
まるで、会社の体力も考えずに自分達の給料・年金・福利厚生だけを追い求め、
あげくに自分達で自分達の会社を潰した全米自動車労連とたいして変わらぬ。
結局、最後は誰が払う?
まるで今回の選挙は、
馬鹿者にこれ以上任せられないから今度は愚か者に任せてみようか?
それを決める選挙のようだ。
そんな選挙で割り当てとはいえ、のこのこ出て行きたくないのだ。
マニフェストの安売りはもういい。
我々の子供達が暮すこの国の将来について話を聞きたいのだ。
しかし、どこからも聞こえてこない。

Date: 2009/08/19(水)


東京平日歌会
歌会では選者も会員も対等である。
互いに意見を戦わせる。
と言っても現実の歌会ではなかなかそうもいかない。
特に選者は最後に総評という形で発言することが多いので、
その意見に異論を挟むのは、話が終わってから何か言うようで遣りにくいところはある。
東京平日歌会も三回目でだんだん雰囲気がつかめてきたので、
今回は多少、発言させてもらった。
で、その中で、助動詞「し」の使い方が気になった歌について今回は書く。
例によって、誌面に掲載前の歌なのでここには出せないが、
この春は「ぼく」と言っていたが夏休みが来ていつの間にか「俺」に変わった、
というような内容の歌である。問題になった歌の下句だけを示す。
・・・・・・・・「俺」に変わりし夏休み来て
この場合の「し」は結句の「夏休み来て」にはつながっていない。
上句とのつながりからしても意味からしても時制からしてもおかしくなる。
だから私はこの結句は倒置的に置かれていると考えた。
すると四句は「し」で連体形で止まるのである。
「し」は言うまでもなく過去の助動詞であるが、
連体形の「し」が文末に使われる場合、詠嘆をあらわす場合がある。
この歌の場合も意味的には、
この春まで自分のことを「ぼく」と言っていたのに夏休みが来て、
いつの間にか自分のことを「俺」というようになったなあ〜、この子は...。
そういう親あるいは祖父母のような立場の作中主体の詠嘆が読み取れる。
そしてそのためには結句は倒置的に置かれていると考えねばならないのである。
であるならば作者は、四句の「し」を通常は結句に用いて詠嘆を表すのと同じような
感覚で使ったのではないか?
私は発言を求め、結句は倒置的に置かれている、四句の「し」は詠嘆として
使われているのではないか、しかし、詠嘆を意図したのならばやはり結句に使うべきで、
この歌の場合、成功していないのではないか?
と批評した。
私の批評のあとで、その日の総評をされていた選者の方が、
「『し』は詠嘆に使わないわよね〜」と周囲に同意を求めるように発言された。
なに!?(^^;
ちなみに私の手元にある「短歌用語辞典」「短歌文法辞典」そのいずれにも、
「『し』は過去の助動詞『き』の連体形、文末に用いて詠嘆・感動をあらわす」
と書いてある。
実際、その用例も多い。
念の為に書くが、別にここで結社の選者を批判しているのではない。
選者も人の子であり、たまには首を傾げる発言もする。
おかしいことではなく、当然のことである。
そして、歌会とは選者も会員も関係なく対等に意見を戦わせる場なのである。
しかし、東京平日歌会のように人数が多いと、
ひとつの歌にいつまでもこだわっている時間がない。
結局、総評に異議を申し立てるということは、時間への配慮などもあり
なかなか出来ず、そのまま次の歌に行ってしまう。それが人数の多い歌会の現実である。
おそらくその選者の方は、
私のように結句が倒置的に置かれていると考えなかったのであろう。
であるならば四句の「し」は結句につながる連体形であって、詠嘆ではない。
しかし、そう考えたのならば、その論点を示して批評して頂くのが総評であるはずだ。
そういう論点が聞けなかったのが残念である。
私が世話になっている横浜歌会の中心である岡部史さんは以前、
「歌会は知力を戦わせるゲーム」と言っておられた。
そういう岡部さんのもとで自由な発言を許されながら勉強してきた私は、
「歌会は知力と感性をかけて戦うバトル」だと思っている。
結局、時間等を気にしながら歌会をやっていると、
議論が尽くされないまま、どうしても不完全燃焼が起きる。
これは人数の多い歌会の宿命であり仕方のないことで誰の責任でもないのだが、
うーん...この不完全燃焼感...。
バトルが足らぬ(^^;;


Date: 2009/08/14(金)


浅草のうなぎ
浅草はうなぎ屋が多い。
たぶん、江戸時代、浅草寺が建てられてから参拝客相手に、
隅田川で採れたうなぎを出す店があの辺りに並んだのだろう。
午後から東京平日歌会なので、午前中にどこか歩こうと思っていたが、
家を出る時間が遅くなってしまい、上野の美術館あたりに行っても
あまりゆっくり見られそうにない。
で、考えた結果、
先月、久しぶりに浅草に来て思い出したうなぎ屋「初小川」に行くことにした。
早い話、どこを歩くか何を見るかではなく、何を食べるかで行く場所を決めた(^^;
地下鉄で浅草に着き、とりあえず先月、浅草寺の境内で案内の小さな看板を目にした
江戸下町伝統工芸館に行ってみた。
浅草寺から花やしきの横を通って行くのだが、
こちら側は言うならば浅草寺の裏手で商店街も地元の人向けなのだろう、
雷門の方とは趣きが違う。
生活密着型と言えば聞こえはいいかもしれないが、ちょっと風情には欠ける。
この辺を歩いたのは初めてだったので、
浅草寺の表と裏でこんなに雰囲気が違うのかと少し驚いた。
江戸下町伝統工芸館というのは、その地元の人向けの商店街の中にある。
中に入ってみるといろいろな工芸品が展示されていて、
説明を読むと入札形式で販売しているらしい。買いたい人は金額を書いた入札用紙を入れ、
入札期間が過ぎると一番高い入札額の人が買うことが出来る。
館内はそれ程広くはなく、
基本的に工芸品をそういう形で販売することを目的にしているらしいが、
こういう工芸品は別に江戸に限らず他の場所でもあるんじゃないか? と思う工芸品が
多いので、私のように江戸の下町に古くからある工芸を期待して行った人間はがっかりする。
あまり時間もないので、浅草寺の方に引き返し、初小川に行く。
小さなうなぎ屋で、先月、久しぶりに浅草に来て思い出し、店の前まで来てみたら、
昔のままの古色蒼然とした店でやっていた。
で、行ってみたら、
「本日はお休みさせて頂きます」
えっ!?
それはないよ(^^;;
今日は定休日? 先月も水曜だったけど開いてたよな? まったく...。
もう一件、近くに色川という旨いうなぎ屋がある。
そこは入ったことはないが、昔聞いた話では旨いという話だった。
で、そこに行ってみると、
店の前に10人くらい並んでいる。
どうせ食うのならば旨いものを食いたいとは思うが行列してまで食う習慣はない。
見ると大学生くらいの若者ばかりである。
おそらく夏休みに東京に遊びに来て、浅草の案内か何かでグルメの店を探して来たのだろう。
私が学生だった頃、別に旨いものを食いたいとも思わなかった。
食い物よりももっと夢中になることがあった。
若いうちからグルメを気取って食い物屋に行列していてどうする。
こういう若者達は社会を背負って立つ人間になれるのかと、
いらぬ心配をしてしまう(^^;;;
仕方がないのでそのまま浅草橋に歩く。
適当に何か食おうと周囲を見ていると、浅草橋の駅の手前に蕎麦屋があった。
客で一杯だったが奥の方に相席で座らせてもらう。
とりあえずビールと大もりせいろを注文。
店は結構小綺麗で雰囲気はいい。
ビールを飲みながら隣のテーブルをちらりと見ると天ぷらが美味しそうである。
注文すれば良かったかなと思っていると蕎麦がきた。
綺麗な蕎麦である。歯ごたえがあり、結構美味しい。
この歯ごたえは二八ではない? ひょっとして十割?
並木藪の蕎麦と比べてどっちが美味しいだろう?
歯ごたえがある分、のど越しとなると並木藪の方がいい。
汁は江戸の蕎麦らしく結構濃い。並木藪は先月行ったが以前より薄くなった気がした。
ただ、並木藪の汁は鰹の香りが馥郁として、それも捨てがたい。
ずずっずずっと啜りこむ。旨い。
グルメに言わせればあるいはのど越しで並木藪に軍配を上げるのかもしれないが、
蕎麦の旨さはのど越しだけではあるまい。いずれにせよ結構旨い蕎麦屋だ。
天ぷらも食べてみるんだったと後悔しながら店の外に出る。看板をあらためて見ると、
「あさだ」とあった。
浅草のうなぎは食いっぱぐれたが、そのおかげで旨い蕎麦屋を見つけた。
浅草橋の「あさだ」、覚えておこう。
ところで食いっぱぐれた浅草のうなぎ。
人間、食いっぱぐれると食いたくなるものである。
とりあえず夏休みの間は駄目だ。グルメ気取りの大学生が行列するのだろう。
学生の夏休みが終わってから食いに行ってみよう。

Date: 2009/08/13(木)


コストパフォーマンス
仙台で七夕を見、その日は福島の高湯温泉に泊まった。
磐梯吾妻スカイラインの入り口にある山の中の温泉である。
泊まったのは花月ハイランドホテル。
高湯温泉観光協会のホームページで、「眺望の良い宿」という条件で探すとここが出て
きたのでそこにしただけで、別に以前から知っている宿とかいうことではない。
子供に贅沢させてろくなことはないので、
子供連れのときは出来るだけ高いところには泊まらないことにしている。
昨年夏、会津西街道を旅したときも一泊目はキャンプ、
二泊目は湯野上温泉の一泊8千円の温泉民宿だった。
今回、民宿はいやだと言うのでホテルを探した。
ネット予約で一泊10,500円。
ホテルとしてはかなり安い。
チェックインの時間より一時間も早く着いてしまったのだが、
試しにフロントに行ってみたら快くチェックインさせてくれた。対応はいい。
本館と新館があり我々が泊まったのは本館の三階和室。
部屋からは天気が良ければ麓の福島の街が見えるはずだが、
あいにくの天気で雲ばかりである。
早速、風呂に入りに行く。
白濁し硫黄の匂いがするなかなかいい温泉である。露天風呂も気分がいい。
部屋に帰り、ビールを飲みながら外を眺めていると、
天気が回復してきて、麓の方に綺麗な雲海が広がった。
結局、それ以上は回復せず福島の夜景は見られなかったが、
天気さえよければ確かに眺望のいい宿であろう。
安いだけあって夕飯は部屋出しではなく食事処に食べに行く。
食事の質は普通だが、高い旅館などでたまにあるような、
食べきれない程に出すという馬鹿げたことをしないところがいい。
小さい皿に「むかご」が入っているのが、懐かしいものを食べるような気がして妙に気に入った。
もう少し塩がきいていればもっと旨いのだが。
ネットで見つけた安い宿ということで期待もしないで行ったのだが、
いい印象の宿だった。
確かに土産処などは小さく、施設全般で言えばたいしたところではないし、食事は普通だ。
しかし、温泉はなかなかいいし、従業員の対応も良い。
どんな仕事でも際限なく資金が使えれば、
よりクオリティーの高いものを顧客に提供できるわけだが、
それが無理である以上、
手元にある経営資源をフルに使い、いかにして顧客の満足を得るかである。
客は自分の支払った対価に対してコストパフォーマンスの良さを感じれば満足する。
どんなに高級でもコストパフォーマンスが悪ければ客は満足しない。
そういう意味で花月ハイランドホテルはコストパフォーマンスの良い宿である。
もっとも泊まったのが平日だから安かったということもあるかもしれないので、
このブログを読んで泊まりに行ってみようと思った向きはその辺をよく確認されたし(^^;

  花月ハイランドホテル → http://www.kagetsu.net/

翌日も天気が悪かったので吾妻スカイラインには行かず、
会津若松に立ち寄り昨年と同じ会津西街道を通って帰宅した。


Date: 2009/08/11(火)


仙台七夕・・・ビジネスマンの視点から
少し早めの夏休みをとって仙台の七夕を見に行ってきた。
金曜の早朝に出発し東北道を走り、朝の9時半には仙台着。
あいにくの雨模様だが、それほどの降りでもない。
仙台の街はパーキングが多く、適当なところに停めて七夕の会場まで歩く。
さて、仙台の七夕だが歴史を遡ると江戸時代あたりまでいくらしいが、
お祭りとして盛んになったのは昭和になってからである。
終戦の翌年には焼け野原になった仙台の街に七夕飾りが復活したというから、
そのエネルギーはたいしたものである。
で、過去はいざ知らず現代の仙台七夕祭りがどういうものか一口に言ってしまえば、
商店街に延々とイカのばけもののような七夕飾りがぶらさがっているという感じで、
正直言って期待外れだった。
祭りの雰囲気にも欠ける。
なぜかなと考えてみた。
祭りと言えば屋台が列なり笛太鼓の音が聞こえる、そんなイメージがあるのだが、
仙台の七夕には屋台はない。
もともと商店街なので、それぞれの店が出店のように出してはいるが、
そういうのは祭りの屋台とは違う。
音もない。
聞こえるのは祭りらしい笛太鼓ではなく、商店街の売り子の声である。
結局、飾り付けられた商店街を延々と歩いている感じで、
ひととおり歩くと、もういいやという気になる。
仙台の七夕祭りは東北三大祭りのひとつに数えられ、それなりの集客があるわけだが、
統計の数字というのはそのまま鵜呑みに出来るものではない。
分析して初めて意味がある。
一見、集客力がありそうだが、仙台は100万都市である。
もともと人口が多い街での祭りであり、
観光資源としての集客力を考える場合、その分を差し引いて考えなければならない。
仙台では祭りの期間にアルバイトを使い、メインの通りの人通りをカウントし、
それをもとに人出を推定計算するらしいが、この方法だと、商店街の通常の買物客や
仕事で歩いている人もすべてカウントされる。
おそらく、観光資源としての集客力ではねぶたや竿燈に及ばないのではないか?
ビジネスマンの感覚で言わせてもらえば、もう少し祭りらしい演出を考えた方がいい。
まず、商店街を歩くだけという、つまらなさを何とかして欲しい。
屋台がないのは、いわゆるテキ屋を排除するということなのかもしれないが、
そもそも規制や規則はある程度の幅を持たせた方がいいのだ。
そういう幅のない社会は息苦しい。
祭りのときぐらい彼らに稼ぎの場を与えてもバチはあたるまい。
あれだけ大きな商店街のしかも祭りの最中に、大道芸人のひとりも
見かけないというのは、横浜の野毛界隈で大道芸を見慣れている人間
から見ると不思議なくらいなのだが、その辺も規制しているのだろうか?
飾りにしても基本的に同じ形ばかりで個性がない。
平塚の七夕の飾りの方が個性があるのではないか?
祭りの本質は非日常世界の現出である。
似たような飾りがぶらさがっているだけの商店街を延々と歩いても、
どこにも非日常世界などありはしない。
仙台は新幹線が停まり、近くに松島があるということで観光客が来たわけだが、
高速道路1000円、あるいは無料化ということになれば条件が変わる。
既存のものの上にあぐらをかいていれば、いずれ今あるものも失う。
七夕の飾りを見上げながら、そんなことを考えたのであった。


Date: 2009/08/10(月)


湯檜曽川東黒沢
谷川連峰湯檜曽川の東黒沢に行ってきた。
今年は週末に天気が悪くなることが多く、
山は4月の八海山以来。
今回も天気が心配だったのだが、
山の天気は現地に行ってみなきゃ分からん、ということで、とりあえず行ってみた。
関越道の水上ICで降り、湯檜曽温泉を抜けて東黒沢出合の駐車場へ。
小雨が降っているが、とりあえず行けるところまで行こうということで出発。
支度をして出かけるがどうも体が重い。
しばらく山に行っていなかったので、体がなまってる。
登山道をしばらく歩き沢に入る。
どうも思うように体が動かないなと思いつつ登っていると、
流れのふちの滑りやすい岩の上でバランスが危うくなった。
咄嗟に足を出し、バランスをとろうとするが、
なんと、もう一方の足が出っ張った木に引っ掛かり、
体は前に動いているのに足をとられて動けない。
で、そのままバランスを崩し水の中に落ちる。
沢で転んだ!
この俺が沢で転んだ、それも簡単な沢で(^^;
苦笑いしながら立ち上がる。
やきがまわったか...。
以前は月に一回は山に行っていた。
しばらく山から離れていて、体が重くなっている。なまったのだ。
うーん...。
その後もどうも感覚が取り戻せないまま、それでもなんとか終了点まで到着、
再び同じ沢を下降する。東黒沢は稜線上に登山道がないため、
稜線を越えて反対側の宝川温泉の方に沢をくだるか、
さもなければ登ってきたルートを引き返すことになる。
沢の下降、特に滑りやすい沢の下降は注意しないといけないのだが、
ここでもしっかり滑り、鮮やかにウォータースライドして淵に沈没した。
浮き上がりプハッと息を吐き、対岸に上がる。
滑りやすい岩で余計なごつごつがないので、まさに水の滑り台なのだ。
これが寒い時期だとたまったものではないが、
八月なので全身ずぶ濡れになってもむしろ気持ちがいい。
そんなふうに下っていると、ウエットスーツを着た団体に出くわした。
ここでは地元の会社がキャニオニングの案内をしている。
キャニオニングというのは、
ウエットスーツなどを着て渓谷のナメ滝を滑り降りたりして遊ぶものらしい。
ガイドに連れられた若い男女20人くらいが、
なめらかなナメ滝を順番に滑り落ちて楽しんでいた。
こんな感じ → http://www.fw-canyon.com/minakami/
山や谷もいろいろな楽しみ方をするようになったものだ。
なにやら、自分達のフィールドに奇妙な連中が入ってきたような気がしなくもない。
楽しんでいる彼らの脇を下り、駐車場に戻る。
谷川温泉の湯テルメで汗を流し横浜に戻った。
やはり月に一度は山に行くようにしよう。
体をしぼらねば。二十歳の頃より十キロ増えてるし...。
このまま体がなまってしまって、さらに余計な肉がついたら、
いずれキャニオニングしか出来ないトドになってしまうかもしれん。それはマズイ(^^;;
Date: 2009/08/03(月)


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