全国大会初日は歌会である。 6組に別れ、一組46〜48人で歌会をやる。 私の入った組は48人となっていたが、欠席者もいたので42人くらいだったのだろうか。 吉川浩志さん、三井修さんの二人の選者としばらく前まで選者をされていた 澤辺元一さんのいる組だった。 去年の東京での大会では批評団方式だったが、今回は通常の歌会方式。 で、結論から言えば...。 40人以上の人数で通常の歌会をやるというのは無理なのではなかろうか。 時間に追われ一首一首についてじっくり意見を戦わせることが出来ない。 どうしても不完全燃焼が起きる。 その不完全燃焼について書く(^^; 言いたいこと沢山あったのだが、時間がないのでどんどん進むわけである。 で、一番言いたかったのはこの歌。例によって掲載前なので出せないのだが、 「月がふたつになっても畏れない、宇宙に拡がる私の老眼」 そんな内容の歌である。 この歌について、ある評者が 「月がふたつに割れるような天変地異があっても私は畏れない、年をとり老眼になったが、 私はそういう気持ちで宇宙を見上げて立っている。そういう気宇壮大な歌。素晴らしいと 思います。ただ、歌の内容からすれば『畏れ』ではなく『怖れ』にするべきだと思います」 と評した。 私は「えっ!?」と思った。発言を求めようとしたとき司会が選者にふってしまった。 吉川さんが総評をしたわけだが、 「まったくその通りですね」とのこと。 なにっ!? マジ?...(^^;; うーん...。 私はこの歌について、作者が「畏れ」という言葉を選んでいることに着目した。 「畏れ」というのは神や人知を超えた自然の現象に対し、敬い畏まる、それが「畏れ」である。 「怖れ」や「恐れ」とは意味が違う。 古来日本人は山や海や森の木にも神を感じた。 空の月にも神を感じ敬い畏まるという姿勢を持っていた。 私はこの歌を次のように解釈した。 「年を取り老眼になった作者が夜空を見上げたとき、月がぼやけてふたつに見える・・・ ああ、昔の人は月を見上げても畏れ畏まったものだが、年をとった自分はふたつに見える月を 畏れもせずに、宇宙を見上げて立っているのだよ」 老いた自分を少し可笑しみをこめて詠っている、しかし、決して卑下しているのではなく、 むしろ爽やかさのようなものが感じられる。そういう歌だと思ったのだ。 そうでなければ作者はなぜ「畏れ」を選んだのか? 月がふたつに割れるような天変地異だから「畏れ」よりも「怖れ」にした方がいいというのは、 天変地異という読みが先にあって、その読みに合わせて言葉を変えるべきだという話だろう。 そうではなくて、作者の選んだ言葉で読むのではないのか? なぜ天変地異で「畏れ」なのだ? 月が割れるような惨事をなぜ敬い畏まるのだ? 第一、そんな天変地異を持ち出して何を詠いたかったというのだ、私の老眼? .....。 結局、時間がなくてそのまま歌会は進行した。 人数が多いと一首一首に時間をかけて議論することが出来ない。 仕方ないことなのだが、不完全燃焼感が残るのみ...。 ちなみに問題の歌の作者は澤辺元一さんだった。 今回、三井さんと吉川さんが総評を受け待っておられたが、 三井さんの批評に同意出来るものが多かった気がする。 正直言って、三井さんとは歌の傾向が違う気がしていたので、これは意外だった。 歌会全体としては、意味を求めようとする読みが散見されたような気がする。 歌会の最後の方で三井さんが、「あまり歌に意味を求めようとしない方がいい」と 言っていたのが印象的だった。 私は岡部史さんを中心とする横浜歌会で学んできた。 「歌会は知力を戦わせるゲーム」と仰る岡部さんのもとで自由に発言させてもらい、 勉強させてもらったわけだが、どうもそういう私にとって表面を撫でて終わる歌会というのは、 ちょっと辛抱がきつい(^^;;; 誰のせいということではなく、 適正規模を超えれば歌会はそうなってしまうのである。 通常の歌会は20人くらいが限度なのではないだろうか。 そういう問題があるから、批評団方式という歌会方式が出てきたわけであろう。 全国大会の規模になったら、無理して通常の歌会形式にこだわらなくて いいのではないだろうか? 来年以降どうしようかな...。 高い参加費払って不完全燃焼するくらいならば、 観光がてらに行って一般公開の講演だけ聞いていた方がいいかな...。 ま、来年のことは来年考えよう。 今から来年のことを考えていては、 それこそ午前中に見てきた羅城門の鬼が笑うというものである(^^
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Date: 2009/08/27(木)
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