先日、テレビで「ラストサムライ」をやっていた。 なんとも荒唐無稽な映画だった。ま、娯楽作品だからどうでもいいのだが(^^; ハリウッドの日本理解というのはいまだにあの程度なのだろう。 中国の映画みたいに人間が空を飛んでいくシーンが出てこないだけマシかもしれぬ。 しかし、映画を作る側はなにを表現しようとしたのだろうか? サムライの姿? 激動する時代のなかの人間像? どうもそういう感じはしない。結局はある種ステレオタイプな「異国物」でしかなく、 それが作品を、使ったであろう予算の割には底の浅いものにしている。 嘘はいかにも本当らしくつかねば意味がない。 黒澤明の「乱」はシェークスピアの作品を日本に置き換えたもので、歴史的事実ではないが、 黒澤は「お歯黒」にまで気を使い、「いかにも本当らしく」仕上げた。 もっとも、その黒澤の「影武者」では、若い武士が「風林火山」の意味を子供に説明する シーンがあり、その説明にぶっとんだ。 黒澤は「風林火山」が「孫子」に出てくる言葉であることは知っていたと思うが、 映画の流れの中で、そちらの方が面白いと思ったのだろう。全然違う意味の説明を 若い武士にさせている。これはどうなのだろう? 「風林火山」の意味を知っている観客はそれを無条件に受け入れただろうか? 違和感を感じなかっただろうか? 違和感を感じさせれば、映画の鑑賞に影響しないだろうか? それを甘くみたのだとしたら、それは製作者の側の驕りではないのか。 虚構のなかに人間の真実の姿を浮かび上がらせるというのは、ひとつの表現の技法である。 しかし、虚構が見え透いてしまえば、舞台装置そのものが効果を失うだろう。 表現における「嘘」は徹底的につかねばならない。 いかにも本当らしく虚構の世界を構築しなければ、浮かび上がらせたいものも浮かんではこない。 これは短歌にも言えることだ。 フィクションの歌であっても、いかにも本当らしく詠わねば歌は立ち上がらない。
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Date: 2006/12/12(火)
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